カテゴリー別アーカイブ: 週報(巻頭言)

「そこにはイエス様がいる」 マタイ25:34-40

イエス様は神様のお話をする時、よく身の回りの出来事に譬えたり興味のある事柄を譬え話にしたりして話されました。それは「神様をどのように信じるか」ということはそのまま「人生をどのように生きるか」ということだからです。

ある時、イエス様は一つの譬え話をされました。それは「死んだら閻魔様の前で天国か地獄かに分けられる」みたいな譬え話です。洋の東西を問わず、こういう類の話はみんな気になります。

王様はまず、人を右と左に分けます。そして右の人に言います、「神様に祝福された人たち!あなたがたにはちゃんと場所が用意されていますよ。なにしろあなたがたは、私が困っていた時、空腹な時、悲しんでいた時、裸の時に助けてくれたからね!」。

右の人はキョトン!として言います、「えっ?私達がいつそんな事をしましたか?」。「私が大切に思っている小さな者たちにしたのは、私にしてくれたことのだよ」、と王様は言います。

ここには二つの大切な事があります。一つは、この右に分けられた人たちが「いつそんな事をしました?」と言った事です。誰が見ているとか、知っているとか、そんな事を考えもせず、ただ悲しむ者、困った者、痛む者に心を寄り添う。そして誰も見ていなくてもそこにはイエス様がおられ、イエス様は知っておられるのです。

もう一つは、「小さな者たちにしたのは、私にしてくれたことのだよ」という言葉です。それは他人事ではありません。私たちもまた、悲しむ時があり、悩む時があり、痛む時があります。孤独を覚える時があります。いつかは右に分けられた人たちが寄り添ってくれるでしょう。

しかしその前に既にそこにはイエス様がおられるのです。既に共に悲しみ、共に悩み、共に痛んで下さる主はおられます。 最初に言いましたように、この話は「譬え」です。共におられる神様を信じる、ということは、私達も共に生きようとしてゆく、ということなのです。 (田中伊策牧師)

そこにはイエス様がいる マタイによる福音書25章34-40節

 

「他の誰とも違うあなたへ」 マルコ2:13-15

「人のふり見て我がふり直せ」という言葉があります。他の人の行為や動作を見て好ましくないと思ったら、その人を悪く思ったり咎めたりするのではなく(もしくは、その前に)「自分は同じことをしていないだろうか?」と考え、悪かったら改めましょう、という事です。けれどもこれが難しい。「自分の事は棚に上げる」となりやすいものです。だからこそ、こんな「人のふり…」というような諺がある訳です。人の姿に自分を重ねることがなかなか出来ずに他人事になってしまうのが人間なのです。

レビという人がおりました。彼は湖沿いの道で通行税をもらう仕事をしておりました。彼はイエスという人物が時々この湖畔に来るのを知っていました。ある時は漁師に声をかけ弟子とし、ある時は多くの群衆を前に話をしている姿をレビは仕事をしながら見ていました。

その日も彼は一人仕事をしながらイエスが大勢の人に話をしているのを見ておりました。「物好きもいるもんだ」などと思いながら寂しく仕事をしていました。彼の仕事は通行税を取ってイスラエルという国を支配しているローマ帝国の役人に渡す事でした。周りの人は皆、彼を裏切り者と呼びます。だから彼は寂しいのです。

イエスの話が終わったようです。群衆とイエスは湖畔から町の方へ移動します。レビの前を多くの人が通り過ぎます。「みんな俺を通り過ぎて行く。何も変わらない」そう思った時、一人の人と目が合い、彼は自分の目の前で足を止めて言いました、「わたしに従いなさい」。イエスでした。イエスはたった一人でいるレビに目を向け、レビのために立ち止まり、レビに向かって語りかけました。それがレビには嬉しくて、ただ嬉しくてイエスに従いました。

やがてレビはあの群衆が自分と同じ取税人や罪人と呼ばれている人々である事に気づき、「イエスは自分とは関係のない物好きな群衆に向かって話していると思っていたけど、イエスは一人一人に、そしてこの私に語りかけ招いていたのだ」と知りました。(田中伊策牧師)

他の誰とも違うあなたへ マルコによる福音書2章13-15節

 

「一歩先も照らされている」 詩編119:105

「真っ暗」という状況をなかなか感じることが出来ない時代になりました。お店の看板、街燈、信号、コンビニ、‥など、真夜中でもどこかに光があります。光があるということは安全であるということでもあります。光は行く先を照らし、目的地へ導いてくれます。また危険を察知し、回避する事が出来ます。

しかし、多すぎる光は闇の存在を忘れさせます。もしかしたら、この世の中は不安や危険を忘れさせるためにたくさんの光で照らしているのかもしれません。見えない先を自分たちの作った光で照らし「ほら、こんなに世の中は明るい。ほら、こんなに未来は明るい」って言っているのかもしれません。

でも、人の作った光の先に本当の未来はあるのでしょうか。もっと未来を明るくしよう、と言って私達の手に負えない原子力を使ったり、安全や安心のために、と言って戦争しても負けない国にしようとしたり。それは本当の光なのでしょうか。その先には人の作った闇が待っているように思います。

「あなたの御言葉は、わたしの道の光。わたしの歩みを照らす灯。」と詩編の作者は言います。「あなた」とは神様です。ここで言う「光」とか「灯」とはきっと小さなランプのことでしょう。昔は、闇はちゃんと闇でした。この大きな闇の中でこの小さな灯は自分の足元を照らしたり、自分の顔や近くにいる人の顔を照らしたりする事しか出来なかったでしょう。そして神様の言葉はそんな小さな灯だというのです。そういうと何か頼りなさそうな感じがします。もっと明るく照らして欲しいと思います。

でも、本当は明日の事なんて誰も分からないのです。先に何があるかなんて分からないのです。真夜中でも眩しく輝き、未来を照らす光なんてまやかしです。夜は暗いのです。神の言葉は小さな灯火。でも、その灯火を持って歩くならば、その灯火によって一歩先も照らされています。その灯火によって照らされている今日を生き、そして明日も光は足元を照らしてくれると信じて、次の一歩を踏み出すのが信仰です。その踏み出した一歩で出会う人と一緒に光を喜びましょう。 (田中伊策牧師)

 

一歩先も照らされている 詩編119編105節

「聖なる罪人の教会」 コリントⅠ 1:1-3

コリントの信徒への手紙Ⅰは伝道者パウロがコリントの教会に宛てた手紙です。このコリントの教会はパウロ自身がその地で伝道をして生まれた教会です。ところがパウロが去った後、コリントの教会には様々な問題が起こります。誰を指導者とするかという議論が起こり分裂問題が起こったり(1~4章)、倫理的に乱れた事が起こったり(5~6章)、貧富の差から起こる差別の問題(11章)、特別に何かできる人だけ評価されたり(12~14章)。それを聞いたパウロが書いたのがこの手紙です。

パウロはガッカリしたことでしょう。イエス・キリストを伝える事で神様の愛をコリントの人々に手渡しし、せっかく教会が生まれたのにこんな事になったのですから。しかし、パウロはこの手紙の始まりに次のように記します、「コリントにある神の教会へ」。こんなに情けない恥ずかしい教会に対して、それでもパウロは「神の教会」と呼びかけるのです。

パウロはどうしてそのように呼びかける事が出来たのでしょうか。それはパウロは「教会」というものが何か知っていたからです。パウロは「神の教会へ」と呼びかけた後に「すなわち、…キリスト・イエスによって聖なる者とされた人々、召されて聖なる者とされた人々へ」と言い換えています。ここには「この教会は神様が大切に思ってあえて選ばれた(聖別された=聖なる)教会だ」という思いがあります。そしてパウロ自身もそうです。

パウロ自身もキリスト教徒を熱心に迫害していた人物です。しかし、そのパウロにキリストが「なぜ私を迫害するのか」と語りかけ、そして敢えて伝道者として選ばれた(「召されて」1節)のです。そんなパウロだからこそ、このコリントの教会を「神の教会」「召されて聖なる者とされた人々」と呼びかけることが出来たのです。

教会は自分を別の場所に置いて人を裁くことが出来ない場所です。こんな私を敢えて神は招かれた、だから人の事を裁くことは出来ない、それが教会です。(田中伊策牧師)

 

聖なる罪人の教会 コリントの信徒への手紙Ⅰ 1章1-3節