カテゴリー別アーカイブ: 週報(巻頭言)

「私達もロバの子」 マタイ21:1-11

イエス様はロバの子に乗ってやってエルサレムにやって来ました。それを見たたくさんの人たちは「おお~!」と声を出して喜びます。そして、イエス様が通られるその道に、ある人は自分の服を置き、ある人は木の枝を敷きました。石ころだらけの道があっという間に絨毯を敷いたようになりました。この時に人々が思った事、それは旧約聖書のゼカリヤ書9章9節に『見よ、お前の王がおいでになる。柔和な方で、ロバに乗り、荷を負うロバの子、子ロバに乗って』という言葉によります。新しい王様は力や速さの象徴である馬ではなく、柔和や平和の象徴であるロバに乗ってこられる王は私達の王様だ、と喜んだのです。

そしてもう一つ。「便利に使うけど大事にされない」それがロバだったからです。いろんな仕事に重宝がられはするものの、宗教的儀式の中ではロバは汚れた物とされていたのです。イエス様が子ロバに乗っておられるのを見た時、人々はその子ロバと一生懸命に生きている自分たちと重なりました。「国の人たちは私達を使って税金を取り上げる事ばかり考えている。お金や作物を取り上げて自分達ばかり良い生活をしている。それなのに私達のことは全然大切にしてもらえない。私達はロバみたいだ。でも、この新しい王様はこの子ロバを大事だ、必要だ、と言って乗られている。この王様は私達の本当の王様だ」って思ったのです。

人々から大事にされないロバ、しかもその子どもですから役にも立たない子ロバ。でも、イエス様はその小ロバを「お前が大事だよ」と言われ、その子ロバに乗られたイエス様に人々の心が喜び踊ったのです。役に立たないとされた命がイエス様に「お前が大事だよ」と言われた時、その命は光り輝き、他の人まで輝かせることが出来たのです。いろいろな鎖につながれて「私なんてダメだ。僕なんて必要ない」と思っていた気持ちだったのに、必要とされる時、愛される時、鎖や縄が解かれるように自由になり、光り輝く、イエス様はそのためにいらっしゃったのです。 (牧師:田中伊策)

「私達もロバの子」 マタイによる福音書21章1-11節

「真ん中にあるもの」マルコ1:章16-20

特にオウム真理教の事件以降、日本において宗教は警戒され敬遠されるようになってきたように思います。それ以前も統一協会などによるマインドコントロールは問題になっていましたが、オウム真理教などを見ると、「その宗教の教えが絶対で、その教えを守るためには人を騙したり人を傷つけたりする事すら肯定される」と思われ、「近寄らない方が良い」「のめり込まない方が良い」と思う人がとても多くなってきたように思います。さらに今、「イスラム国」と名乗る人々の悲しい事件で一層そのように思う人は増えてしまったのではないか、と思います。しかし、人を傷つけたり人を騙してまで教えを守ろうとしたり、組織を守る事が何より優先されるようなものは最早、宗教ではありません。

そういうと「キリスト教だって同じじゃないか!」って言われそうです。そのように読める箇所もあるからです。イエスはガリラヤ湖畔で漁師の仕事をする二組の兄弟(シモンとアンデレ・ヤコブとヨハネ)にそれぞれ声をかけます。そうすると、この4人は仕事も家族も捨ててイエスに従ったと書かれています(マルコ1:16-20)。「ほらほら、キリスト教も怖い!」と思う人もいるでしょう。でも違います。最初の二人(シモン・アンデレ)の場合、二人が漁をしていた姿をイエスは見たと記されているのですが、そこに敢えて「彼らは漁師だった」とあります。これは「彼らの仕事=漁師」ではなく「彼ら=漁師」つまり「彼らの真ん中にあるものが仕事だった」という事ではないでしょうか。

これだって宗教まがいの物と同じように十分怖いと思います。仕事は大切です。でも「仕事」が真ん中にある人生や家庭や社会が経済中心社会を作り、力がものをいう社会を作り、男性中心社会を作ったのではないでしょうか。イエスは彼らに声をかけます、「人間をとる漁師にしよう」。「魚」ではなく「人」を真ん中にする、「仕事」ではなく「命」が中心にある生き方への促しです。そうなるためには一度土台を据えなおす必要があります。新しい下着をズボンの上から履く人はいません。一度ズボンも今までの下着も脱いで新しい下着を履き、そしてズボンを履くものです。信仰とは新しい下着、そしてズボンとは家族だったり仕事だったり、私達の生活そのものです。「命を真ん中にするために、共に生きる歩みをするために私に従って来なさい」イエスはそう私達に促しています。 (牧師:田中伊策)

「真ん中にあるもの」 マルコによる福音書1章16-20節

「それでもその道は進まない」 マルコ1:14-15

「ヨハネが捕らえられた」(14節)という出来事は、イスラエルの民衆にとって大きな悲しみの出来事でした。ヘロデ王という権力を持つ巨大悪に対して、一歩も引かずに批判していったヨハネを弱い立場の人々はきっと応援していたでしょう。ところが、彼は捕らえられてしまったのです。

人々はその理不尽な出来事に怒り、何もできない自分の弱さを嘆いたことでしょう。そんな中で「イエスはガリラヤに行」(14節)きます。それは故郷に帰ったという意味ではありません。「異邦人のガリラヤ」(イザヤ7:23)という旧約聖書の言葉の中にあります。またヨハネによる福音書7章ではガリラヤは預言者が出るような土地じゃない、と人々が言っています。ガリラヤは辺境の地、イスラエルの中でさげすまれていた地域でした。どの時代、どの場所でも、抑圧、しわ寄せは弱い立場の人々のところに色濃く表れます。

だからこそ、ヨハネの逮捕について最も絶望感と悲しみと怒りを募らせたのもまたガリラヤだったのではないか。だからこそイエスはガリラヤに行ったのです。人の世の悲しみが満ち溢れるその時、最も悲しみの深い、その場所へ慰め、伴い、寄り添うために。そして言います。「時は満ち、神の国は近づいた」。この絶望の中らしからぬ希望の言葉をイエスは語ります。

イエスは他のところでこんな言葉を語っています、「悲しむ人々は幸いである、その人たちは慰められる。」(マタイ5:4)。悲しみはそれ自体、決して嬉しくはありません。しかし、その悲しみの中でこそ私達は慰めに出会う。そしてそこで本当の友に出会う。この絶望的な出来事の中にイエスは来た。「時が満ちた」とは例えるならコップに水が注がれ、その水があふれる瞬間のようなものです。それは人々の目から悲しみの涙があふれる瞬間でもあります。そしてそれは慰めを受けるべき瞬間でもあります。

イエスはその傍らに来て、その涙をぬぐわれます。そこに神の国はあります。そして悲しみと絶望と怒り、そんな道に引かれそうになる私達の傍らで、主は「悔い改めよ」(方向転換せよ!)と言われます。悲しみの涙を受け止められここに神の国がある、この方こそ福音(喜びの知らせ)だ、と信じて「悔い改めよ」の声を聞く私達は「それでもその道(悲しみ、怒り、絶望)の道は進まない、そして主が伴われたように隣人として生きる道を進むのだ」と告白してゆきたいと思います。 (牧師:田中伊策)

「それでもその道は進まない」 マルコによる福音書1章14-15節

「荒れ野の四十日を越えて」 マルコ1:12-13

詩編119:105には次のように書かれています。「あなたの御言葉は、私の道の光、私の歩みを照らす灯」。ここには聖書というものは暗闇の中を照らしてくれる灯火、あかりのようなものだ、と書かれています。つまり、聖書は私達がどのように歩けばよいか、という道しるべなのだ、と書かれているのです。神様はどんな方?イエス様はどんな方?それはとても大切な事なのですが、同時に私達はどのように歩けば良いの、生きたら良いの?という事もまた聖書から聴いて行く、教えられて行く事が大切なのです。ヨハネによる福音書においてイエス様は「私は世の光である」と語られ「私は道であり、真理であり、命である」と言われています。「灯火」と「道」として聖書を読むのです。

「あなたの御言葉は…私の歩みを照らす灯火」この「灯火」というのは小さな光です。私の友人の牧師がそれを実際にやってみたそうです。真っ暗な場所に出かけて小さな灯火をつけて歩こうとしてみたのです。そうしたら、吸い込まれるような闇の中で小さな明かりは自分の足元くらいしか照らしてくれない。一歩先しか見えなかった。二歩先は見えないから一歩一歩しか進めないのが灯火だと理解した、というのです。小さな明かりを頼りに一歩進むと、次の一歩が見えるくらい。一歩進んだら、次の一歩が照らされる。聖書も同じです。

先の見えない私達は、一歩一歩しか進めない、一つ一つ聖書に聞き続ける。そんな読み方をしてゆく必要があるのです。イエス様はその一歩、こんなふうに進みなさいよ、と教えてくれるのです。小さな光を頼りに進み出して知ることはそこにまた闇がある、ということです。だから、光を頼りに一つ一つ教えられて行く、私達として一歩一歩進んで行くのです。 (牧師:田中伊策)

「荒れ野の四十日を越えて」 マルコによる福音書1章12-13節