カテゴリー別アーカイブ: 週報(巻頭言)

「知られている私」 マタイ26:69-75

高校野球の入場行進や卒業式の卒業証書授与の際に、手と足が一緒に出てしまうという姿を見る時があります。緊張して思うように体が動かないのです。私達の体は時に頭で考えているよりもはっきりと自分の心を映し出してくれる時があります。逆に、体が頭で考えるより早く動く時もあります。ボールが自分の方に飛んできた時、「危ない、避けよう」と思うより早く避けたり、熱い物を触った時、「熱い、手を離そう」と思うよりも早く手をひっこめたりします。私達の体は私達が思っているより自分に正直で、賢くそして、早く反応します。

イエスの弟子の中にペトロという人物がいます。本名はシモンという名ですが、イエス様から「あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」(マタイ16章18節)と言われてペトロという名になります。弟子の中でも中心的な人物です。

そのペトロが最後の晩餐で、「あなたは今夜、鶏が鳴く前に、三度わたしのことを知らない、と言うだろう」(同26章34節)と言われます。ペトロ本人は「たとえ御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどと決して申しません」と言いますが、多くの人が捕らえに来た時にペトロは逃げ、そして人々から「イエスの仲間だろ!」と言われた時に「そんな人は知らない」と言ってしまいます。きっとペトロは従い続けようと頭では考えていたのだと思います。しかし、考えるよりも早く体は逃げ出します。その弱さにペトロは嘆きます。しかし、頭以上に自分の事を知っている身体よりもペトロを知っているイエス様は、考えるよりも早く反応する体に先回りするようにペトロの弱さを受け止められ、「私はあなたの弱さを知っているよ。その弱さを私は担おう。あなたのために十字架に向かおう。だから、そこからもう一度、いや、何度でも立ち上がって私に従って来なさい。自分の弱さを知る時にあなたは『岩』ペトロとなってゆけるのだ」と語って下さっています。そしてそれは私達にも語りかけて下さっているメッセージでもあります。 (牧師:田中伊策)

「知られている私」 マタイによる福音書26章69-75節

「それでもあなたを愛している」 マタイ26:20-25

「だが人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった。」(24節)そうイエス様は言われました。「人の子」というのはイエス様の事です。イエス様を裏切る、それはイエス様の喜ばれる歩みから遠ざかる、イエス様と一緒に歩もうとしてもそうできない自分そのものです。正しく歩めない、失敗ばかりする、そんな時に「私なんていない方が良かった」って思う。駄目な自分を「私なんて生まれなければ良かった」って思う。「生まれなかった方が、その者のためによかった」という言葉の「その者のためには」というのは、生まれなければ良かった、と自分で思ってしまう、ということなのではないでしょうか。私なんてダメ、俺なんていない方が良い、そう思ってしまう自分のことです。

しかし、イエス様は言われます。「これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血」(28節)と。「そんなあなたの罪を、弱さを担おう。そしてその罪や弱さに苛まれるあなたを私が支えよう、そのために私は十字架に向かう。あなたがいくら『私なんていなければ良かった。私なんて生まれなければ良かった。』と思っても、それでもあなたを愛している」とイエス様は示してくださっています。

生まれなくてよかった命なんてものは一つもありません。何故なら、命は神様から与えられるものだから。何故なら、命は神様が一人一人を愛して下さったものだから。その愛する神と、愛されるに相応しくないと思う私達の間に十字架は立っています。それでもあなたを愛しているというしるしが神と私達との間に立っています。十字架の主が神と私達とを繋ぎ合わせて下さるのです。その愛に促されて歩み出したいと思います。その歩み出す場所で出会う一人一人との間で、十字架の主がその一人一人との間でつなぎ合わせて下さることを信じて、失敗しながらも、過ちを繰り返しながらも、勇気をもって歩み出したいと思います。 (牧師:田中伊策)

「それでもあなたを愛している」 マタイによる福音書26章20-25節

「幸せが待っている」 マタイ5:1-12

イエスはこんなことを語られています、『悲しむ人々は幸いである』(マタイ5章4節)。こんな言葉を聞くと「クリスチャンという人種は、悲しい事や困った事も嬉しい事のようにニコニコしなければならないのか」と思う人もいるかと思います。でも、そんな気持ちの悪い話ではありません。しかしクリスチャンだって悲しい時には泣くし、困った時には眉間に皺もよります。この言葉には続きがあります、『その人たちは慰められる(だろう)』。つまりイエスは「今、悲しんでいるあなた。あなたの傍らにその悲しみを受け止め、共に歩もうとする人を与えよう。私もあなたと共にいる。あなたは独りじゃない。その悲しみには終わる時が必ず来る。」と言っているのです。「どんなに闇が暗くても、必ず朝はやってくる」という言葉が当たり前であるように、その悲しみにも必ず慰められる時が来る、幸せは待っている、というのです。

この言葉の少し後に『平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる(だろう)』(9節)という言葉があります。この「平和を実現する人々」は「平和のために苦労している人々」と言った方が良いかもしれません。平和を実現しようとすることの大変さを今、痛感している私達にはその意味が分かるはずです。仲よくしようとする事、仲裁する事、慰める事、それもまた難しい。しかし、ここでも「どんなに闇が暗くても、必ず朝はやってくる」という言葉が当たり前であるように、平和のために苦労する歩みの先には必ず、本当の幸い、幸せが待っているとイエス様は語ります。

悲しんでいる人と悲しみを慰めようとする人が共にイエス様の周りにいて、その真ん中でイエス様が「幸せは待っている」と言われます。もしかしたら既に来ているのかもしれません。どんな出来事の中にあっても、共にある歩みの中にこそ幸いがある。神と人、人と人とが共にある歩みは幸いであり、その歩みの先に幸せが待っているのです。(牧師:田中伊策)
「幸せが待っている」 マタイによる福音書5章1-12節

「屋根を壊すくらい」 マルコ2:1-12

この一年は、不眠症に、原因不明の咳に胃痛など、健康的な一年とはいえませんでした。死生学(タナトロジー)の授業で、出会ったのが「ホリスティック医療」「全人的医療」という言葉でした。この医療は、病気が治るという身体的な症状がなくなるというだけでなく、精神的な苦痛がなくなり、環境が整っている、つまり治療をしながら生活するための社会的なサポートがあるかどうかも含めて治療を行っていくというものです。ホリスティック(Holistic)という言葉は、ギリシャ語で「全体性」を意味する「ホロス(holos)」を語源としています。 そこから派生した言葉には、全体(whole)、癒す(heal)、健康(health)、聖なる(holy)などがあります。健康(health)という言葉自体に、もともと「全体」という意味が含まれています。「ホリスティック医療」の観点からいうと、薬を飲んで、不眠が改善されるということだけが重要なのではなく、不眠の原因がわかること、不眠の状況でも私がきちんとした生活ができることが整っていなくては、健康といえないのだとわかってきました。

中風の人は、イエス様の奇跡によって病気が完全に治ったのでしょうか。先日公開された映画「Son of God」では、この中風の人が立ち上がるとき、イエス様が彼の手を取り、彼を立たせ、周りの人は彼が歩くのを支えているような描写をしていました。罪人とされていた中風の人が、周りの人たちからのサポートを受けて歩けるようになる。このことこそ、イエス様の癒しだったのではないでしょうか。罪人は穢れていているので隔離されていました。しかし、この中風の人には、彼をイエス様のところに連れてきてくれる4人の友人がいました。この4人の友人は中風の人のために人の家の屋根を壊すという荒業をやってのけました。けれでも、それは屋根を壊すというだけでなく、社会が作っている差別という壁を壊して、中風の人と共に生きていこうとするその決意の表れだったのでしょう。きっとイエス様は屋根を壊すくらいに人を愛してみなさいと促しておられるのかもしれません。 (広木愛)

「屋根を壊すくらい」 マルコによる福音書2章1-12節

「本当の権威」 マルコ1:21-28

いつものようにイエス様が礼拝に来られて語られている中に、「会堂に汚れた霊に取りつかれた男が」おりました。彼は叫びます「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」構わないでくれ、というのなら、イエス様がいる会堂に来なければ良い、と思うのですが、彼はここにいます。そこには、彼の中に相反する思いがありました。彼は「我々を滅ぼしに来たのか」と叫びます。彼が「我々」という。そこには、彼が生活の中で「自分は救われ難い、赦され難い、愛され難い」そんな絶望的な思いを抱くような数多くの重荷や悲しみが隠されています。「自分は救われ難い、赦され難い、愛され難い」という思い、それこそが「汚れた霊」(悪霊)の正体です。そんな思いとは裏腹に、彼は会堂にいる、それは「でも、赦されたい、救われたい、愛されたい」という願いです。彼の中には「私は救われ難い、赦され難い、愛され難い」という絶望と「赦されたい、救われたい、愛されたい」という願いが同居していたのです。彼は会堂の中でイエスに叫ぶ。その切実さをここに見ます。

そんな彼にイエス様は「黙れ、この人から出て行け」と言われます。彼の「かまわないでくれ」に対して、そして絶望に対して「黙れ」と言われるのです。それは「かまわないでくれ!なんて言うな。あなたの希望である私はあなたから離れない。だから希望を捨てるな!絶望よ、出て行け!」と言われるのです。その時「汚れた霊はその人にけいれんを起こさせ、大声をあげて出て行った」とあります。「けいれんを起こす」というギリシア語には「引っ張る」とか「引き裂く」という意味があります。悪霊は彼を引っ張ります、「こっちにこい」って。でも、イエス様は彼から離れなかった。そして切れたのは絶望の方でした。絶望は彼から引き裂かれて「大声をあげて」つまり絶望して去って行ったのです。絶望が絶望したのです。イエス様の言葉は絶望を切り裂く希望の言葉です。 (牧師:田中伊策)

「本当の権威」 マルコによる福音書1章21-28節