カテゴリー別アーカイブ: 週報(巻頭言)

「いと小さき者への福音」ヨハネ1:43-51

ナタナエルという人がいました。彼は友人フィリピから「私たちを救ってくれる人に会ったよ。その人はナザレ出身のイエスって人だ」と言われます。しかし、ナタナエルは言います「ガリラヤのナザレから立派なそんな人が出る訳ないだろ」。ナザレは小さな田舎の村、彼が言うのも分かります。でも、フィリポは「会って見ろよ」というのでナタナエルはイエスに会って見る事にしました。

ナタナエルがイエスのところに行くとイエスはナタナエルを見て「この人こそ純粋なイスラエル人だ。彼には偽りがない」と言います。ナタナエルは「どうして私を知っているのですか?」と聞くとイエスは「私はあなたがフィリポに声をかけられる前、既に無花果の木の下にいる(聖書の勉強をしている)のを見ましたよ」と答えます。ナタナエルは、自分が人知れず聖書の勉強をしていたことをこの人は知っていてくれた、と驚きます。そこでナタナエルはイエスに「あなたは神の子です」と言います。

ナタナエルの出身もイエスと同じくガリラヤでカナという村でした(ヨハネ21:2)。ガリラヤ地方はどの村も小さく貧しく似たり寄ったりです。ですからナタナエルが「ガリラヤのナザレから立派なそんな人が出る訳ないだろ」と言ったのは、イエスへの文句というよりも、自分の小ささ弱さを嘆く言葉だったのです。しかし、ナタナエルはそれだけの人間ではありませんでした。それでもその小ささの中でもがき苦しみ聖書を読み、必死に神様に頼ろうとしていたのです。

そんなナタナエルにイエスは「自分の出身や知識を鼻にかける都会のイスラエル人なんかよりも、ずっとイスラエル人のあるべき姿で生きている」そして「私はそんなあなたを知っているよ」と言われるのです。それも高い所からではなくナザレという小さく弱く低くされた村から語るのです。福音とは人の弱さに寄り添うように語り掛けられる神の愛であり、その姿であるイエスそのものです。(牧師:田中伊策)

「いと小さき者への福音」ヨハネによる福音書1章43-51節

「御言葉には力がある」ルカ24:28-35

ルカによる福音書24章13-35節には十二弟子ではない二人の弟子たちの物語が記されています。二人の内の一人はクレオパ、ここでしか出て来ません。もう一人は名前すら出て来ません。

二人の弟子はイエス様が捕まって、十字架にかかって、そして死なれた事で心の目が閉じてしまいました。しかし、その二人にイエスは寄り添い、聖書にはそれこそがメシアの姿だと書かれていると告げ、聖書全体から説き明かす、夕暮れ時になり一緒に食事の席に着いた時、イエスがパンを取り、讃美の祈りをし、パンを裂いて渡そうとした時、二人は初めてイエスだと気づいた、けれどもその時にイエスの姿が見えなくなります。そして「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と言って他の弟子たちのところに向かうという、出来事です。

こんな大きな出来事が十二弟子以外の名もない弟子達に起こった事そのものが私たちへのメッセージなのだと思います。私たちはイエスを見たことがありません。だからイエス様の事は聖書からしか知ることが出来ません。しかしその聖書の言葉、御言葉を、私達一人ひとりの与えられた神様からのお手紙として読む時に、私たちはイエス様と出会うことが出来ます。二人の弟子は「聖書のお話をしてもらった時、私たちの心は熱くなって燃えているようだったよね」と語ります。まだ、話をしているのがイエスと気づく前に既に彼らの心は熱くなった嬉しくなっています。その後にイエス様に気づいたのです。御言葉には私たちの心を熱くする力があるのです。

きっと今週も、きっと新しい年にも困難はやって来るでしょう。悩みもやって来るでしょう。悲しみもやって来るでしょう。しかし、御言葉には力があります。二人の弟子達の歩みに寄り添い、語り掛けて下さったイエス様は、私たちの歩みにも寄り添い、語り掛けて下さっています。御言葉によって力を得、何度でも新しく、歩み出しましょう。(牧師:田中伊策)

「御言葉には力がある」ルカによる福音書24章28-35節

「名前は付けてもらうもの」ヨハネ1:35-42

『イエスは彼を見つめて、「あなたはヨハネの子シモンであるが、ケファ(『岩』という意味)と呼ぶことにする」と言われた。』(42節)

「自分の名前は自分では付けられない」これは私が子どもの頃から宿命的に思っていた事でした。子どもの頃、私はこの名前が大嫌いでした。それは「いさく」を逆から読むと「くさい」だからです。「逆から読んだらどうなるか?」子どもの名前をつけるのにそんな事まで考える親はいませんが、小学生は考えます。「こいつの名前、反対から読んだら“く・さ・い”だ!上から読んでも下から読んでも“いさくはくさい”」。それで、何度嫌な思いをしたことか。でも、やがて「よく考えると悪い事ばかりでもないなぁ」と思うようになりました。ありきたりな「田中」という苗字ではなく特徴のある「いさく」と呼ばれる事で人との距離が近づくこともあります。また聖書では“彼は笑う”という意味の名前を神様がつけてそれが真実になった事、聖書に出て来るイサクが掘った井戸で争いが起きそうになった時にはその井戸を譲ってまた別の場所での井戸掘りを何度も繰り返した事、段々と好きになって行きました。

自分で自分の名前を付ける人もいます。改名だったりペンネームだったり役者名だったり。そういうのも良いでしょう。なりたい自分を目指す。でも、私としては付けられた名前で生きることも悪くないように思います。それは自分という人間を作るのは「私」ではなく「他者」だからです。「私」という人格は「他者」との出会いや関りにおいて形成されてゆくからです。勿論、良い事ばかりではないけれど。

シモンはイエス様と出会って、イエス様から「お前をケファ(岩)と呼ぶ事にする」と言われます。そしてこの名は実現します。彼は初期キリスト教における土台(岩)となるのです。イエス様との出会いが彼の名を彼自身に変えたのです。(牧師:田中伊策)

「名前は付けてもらうもの」ヨハネによる福音書1章35-42節

「光の射す方へ」詩編119:105

「あなたの御言葉は、わたしの道の光、わたしの歩みを照らす灯」

人生、上手に生きてゆきたいと誰しも思うものです。時には「困難が自分を成長させてくれる。だから敢えて難しい道を選ぶ!」という人もいるでしょうが、なるべくなら困難は避けて通りたいでしょう。でも、なだらかな道、明るい道ばかり進む事は出来ません。そして時にはその困難の中でどうしたら良いか分からなくなります。

以前、テレビを見ていたらサーフィンの選手がこんな事を言っていました、「大きな波に巻き込まれてしまい、荒れ狂う海の中でどっちが上なのか下なのか分からなく時があります。どんどん息が苦しくなってきます。でもそんな時は、ジタバタしないで流れの中でまず空気の泡を見極めます。泡がどっちに向かってゆくかを見るのです。そして泡が行く先に向かいます。そちらが上だからです」。泡が水面に導いてくれるというのです。

ここから教えられることは二つ。一つは高く強い波を越えてボードを操るプロのサーファーだって波に飲み込まれる事はあるって事。そしてもう一つ、大事なのはその時にどうするか、という事。

困難はやって来る、困ったことは起こるのです。そんな時に何を頼みとするか、それが大事です。この詩篇119編の作者は、「それは御言葉(聖書の言葉)だ」と語ります。波の上のある時には泡など見えません。同じように人生がうまくいっている時に聖書の言葉はなかなか心に入ってきません。でも、もし困った時が来たなら、道に迷ったら、聖書を開くなり、御言葉を思い出すなりして欲しいと思います。そこに光があります。泡が「上はこっちだよ」と教えるように聖書の言葉は「あなたの道はこっちだよ」ってあなたの道を照らしてくれるはずです。光の射す方へ! (牧師:田中伊策)

「光の射す方へ」詩編119編105節

「来た 見た 知った」ヨハネ1:29-34

旧約聖書の世界で昔から守られてきた戒めの中に次のようなものがあります、『初めに胎を開くものはすべて、わたしのものである』(出エジプト記34:19)。これはつまり「人であれ家畜であれ、最初の子(男の子・雄に限る)は神様のものだから捧げなくてはならない」という事になります。ただし、人の場合は一度神様の捧げはするけれど小羊と交換することが赦されていました。この「代価(小羊)を支払って(子の命を)買い取る」ことを「贖う(あがなう)」と言います。

バプテスマのヨハネはイエスが自分の方に来るのを見て『見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ』(ヨハネ1:29)と言いますが、この「小羊」とは前述の贖いの小羊のことです。バプテスマのヨハネという人物は人々に「悔い改めよ」(人生の方向転換をせよ。神に向かいなさい)と迫り、それは『斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる』(マタイ3:10)と脅しまがいの強さを見せています。ヨハネは「神に向かう」「神に近づく」事を人々に求めるのです。

しかしイエスは違ったのです。人々に対して神に向かう事を求めるのではなく、自ら人々の方へ向かわれたのです。ヨハネは人々に向かい、そして自分の方にも来るイエスを見て「私は人の視点で神を語っていた。神に向かって行く者(立派な行為をした者・正しくなった者)が救われる)。しかし、神の視点は違うことがイエスの姿から分かった。人間が神の方に向かうのではなく、まず神自らが来られ、私達の罪を自ら背負われることで救われるのだ。そして救われた者が神に向かって行くのだ」。

ヨハネはイエスが自らの方にこられるのを見て神の視点、神のまなざしを知ったのです。「世の罪を取り除く神の小羊」、私達がどれだけのことをしようとも、自分の罪を取り除く代価とは決してなり得ません。それは溺れている自分を自分で助けようとするような行為です。救いというのは人間の側の事柄ではなく、神の側の事柄であることをヨハネはイエスが来るのを見て知ったのです。(牧師:田中伊策)

「来た 見た 知った」ヨハネによる福音書1章29-34節

「透明な私がイエスを映す」ヨハネ1:19-28

「わたしは水で洗礼を授けるが、あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる。」(26節)この言葉は聖書ごとに違う訳がなされています。別の訳ではこんな言葉になっています、「あなたがたの中に、あなたがたの知らない方が立っています」(聖書協会共同訳)。ちょっと聞くと何だか怖い言葉ですよね。「ほら、あなたがたの間に知らない人が立っていますよ~」なんて言われたら「キャー!」ってなりそうです。でも、そういう話ではなくて、あなたがたまだ知らないけれど、あなたがたのただ中にあの人はもうおられるんです。

その方はね、あなたがたが生まれた時から共におられ、あなたがたと共に歩まれ、あなたがたとともに逝かれる、決してあなた方から離れられることのない方なのですよ。既にあなたがたと共におられるその方を、もうすぐあなたがたは知る事になる。私はその方に遠く及びません。ただ、透明になってその方を映し出そうとするだけです。ヨハネはそういうのです。

そしてそれこそが、ヨハネがバプテスマを授ける意味です。祭司たちはどうしてヨハネがバプテスマを授けるのか?と言う。その資格がお前にあるのか?と問います。でも、大事なのは誰が授けたかではないのです。

ヨハネは「あなたがたの中にはあなたがたの知らない人が立っています」と言いました。その方はいつも共におられ、人々の嘆きや悲しみや怒りや弱さを知っておられます。それは、私にはどうしようもないものです。内からふつふつと湧いてくる。蓋をしたら別のところから爆発するような、人を傷つけ、自も傷つけるようなそんなもの。そして共におられるその方は私の中にあるそんなものすら知っておられます。そして、そんな私たちの嘆きや悲しみや怒りや弱さ、そんなもの一切を抱えて自分の罪として十字架にかかられた。私達を愛され、私達を赦し、「私が引き受けるよ。もう大丈夫だよ。ここから新しく生きよう」って私たちを救って下さった。

「大事なのは誰が授けた」ではなく「誰と共に受けるか」ということです。バプテスマというのは水槽の中に腰か胸まで入って、それから全身浸ります。それは罪の自分はここで死んで、イエス様と共に新しい命に生きるということです。そう、大事なのは私のために十字架にかかられて死なれたイエス様と共に罪の自分も死に、死から復活された主と共に新しい命に生きる、それこそが大事なのです。誰に授けてもらったかではなく誰と共につまり、主と共に受ける、ということこが大事なのです。(牧師:田中伊策)

「透明な私がイエスを映す」ヨハネによる福音書1章19-28節

「かみさまのいうとおり」 ルカ10:38-42

有名なマルタとマリアのお話です。

イエス様をもてなそうとしていたマルタでしたが、イエス様の足元でイエス様のお話を聞いていたマリアを見て、マルタはイエス様に言います、「何ともお思いになりませんか?」。ここにはマルタの「私を手伝うことが正しい事」という思いと「それをイエス様は促すべきだ」という思いがあります。言い換えると「マリアが話を聞くままにさせ、マリアを手伝うように促さないイエス様は間違っている」と彼女は思っているのです。そしてイエス様を「わたしのいうとおり」にさせようとしています。でも、従うとか仕えるとかいうことは「かみさまのいうとおり」にすることです。純粋な「仕える思い」と「忙しさ」、「マリアへの思い」「イエス様への不信感」そのような様々な思いを持ったマルタにイエス様は「多くの事に思い悩み、心を乱している」と諭されるのです。

たくさんの箱を持とうとしたら前が見えなくなります。横しか見えなくなります。きっとね、マルタは最初「イエス様のために」という一つの箱だけ持っていたのです。その時はイエス様がちゃんと見えました。でも、忙しい、大変だ、寂しい、マリアったら、って箱を重ねて持ってちゃんとイエス様が見えなくなっちゃったのです。

でも、それをイエス様はちゃんと分かっています。だからイエス様はマルタさんに「マリアが持っている箱は一つだけ。だからちゃんと私を見ている。マルタさん、その重ねた箱を下ろしてごらん。そして最初に持ち上げた箱だけ大事になさい。大丈夫だよ。私はあなたの心をちゃんと知っている。あなたの尊い私への気持ちは届いているよ」って言っておられます。イエス様は「私の前のその荷物を下ろしなさい。そしてしっかり私を見なさい」そう言っておられます。(牧師:田中伊策)

「かみさまのいうとおり」 ルカによる福音書10章38-42節

「私達の間に宿られた恵み」 ヨハネ1:14-18

ヨハネは、この方について証しをし、声を張り上げて言った。「『わたしの後から来られる方は、わたしよりも優れている。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのはこの方のことである」」(15節)とあります。バプテスマのヨハネはイエス様よりも先に人々に神の国を語り、やがて私よりも優れた方が来る、と言いながら、同時にこの方は私よりも先におられたと言います。

「後から来る方は、わたしよりも前におられた」というのは不思議な言葉です。これはつまり、神様は私たちよりも前におられる。私たちの命よりも先にあり、愛し、選んで命を与えられた方です。このすべてに先立っておられる神様を正しく伝えるのは私よりも後から来るイエスだ、と言っているのです。

この「わたしの後から来られる方は」「わたしより先におられた」、この言葉は「わたし」の後と先を挟んでいます。つまり、私たちは神様の恵みに挟まれている。生まれる前から死に至るまで、いえ、その先まで私たちは神様の恵みの中にある。私たちを後ろからささえ、私たちを前から導く方。私たちの真ん中におられる方は私たちを恵みによって挟んでいます。

それだけではありません。「わたしたちは皆、この方のみち溢れる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた」とあります。わたしたちの上にてんこ盛りに恵みを加えて下さる方だ、というのです。私たちは神を知らなかった時から神様に愛され、恵みを受けていたけれど、その方を知った時、イエス・キリストによってその恵みの大きさに圧倒されます。

私たちのうちにイエス・キリストが宿る時、前にも後ろにも神の愛に挟まれている事を知り、そして上にも神様の恵みが積み重なるように与えられた、というのです。私たちの内におられる神は、前にあり後ろにあり、そして上におられる。私たちは恵みに「囲まれている」というのです。(牧師:田中伊策)

「私達の間に宿られた恵み」ヨハネによる福音書1章14-18節

「光だけが残る」ヨハネ1:6-13

バプテスマのヨハネという人物について、マタイによる福音書3章1-3節ではこう書かれています。“そのころ、洗礼者ヨハネが現れて、ユダヤの荒れ野で宣べ伝え、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言った。これは預言者イザヤによってこう言われている人である。「荒れ野で叫ぶ声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ』」”

ここにはヨハネの事を「荒れ野で叫ぶ声」だと言っています。声というものは通り過ぎてゆくものです。今は録音とか出来ますけれど、声自身は発せられて響いて消えてゆくものです。そして心の中に言葉だけが残るのです。同じようにヨハネはイエス様を指示し、そして通り過ぎてゆく、去ってゆく。残るのはイエス様だけ。聖書がヨハネを「荒れ野で叫ぶ声」と言う表現は見事だと思います。この「荒れ野で叫ぶ声」はヨハネの人となり、ヨハネの生き方をそのまま表す言葉です。

そして、それこそが「証し」だと思います。証し、というのは、私たちの生活の中の出来事を通して神様がこのように働いて下さった、神様の愛を知ることが出来た、というそういうお話です。教会関係の集まりの中で、また教会員同士の中で「証し」がなされることがあります。でも、聞いていたら証と言いながら「私こんな経験をしたんです」とか「この間、こんなことがあったんです」で終わる話も少なくありません。そういう時は「私が、私が」というところに中心があるのです。「私の」一生懸命さを、「私の」熱心さを、「私の」祈りを神様は聞いて下さった。しかし、証と言うのは、最終的には私は消え、神様の恵みだけが残る、そういうものを証と言うのです。神の言葉だけが残る、イエス様だけが残るヨハネの声のようなものが。そうでないと私を誇ることになり、最終的には、こんなに祈ったのだからこうなるべき、と知らず知らずのうちに私が神になってしまいます。証というのは私が「通り過ぎる声」になる事、そして神様の言葉だけが、神様の愛だけが、注がれた光だけが残ることを喜ぶ事です。(牧師:田中伊策)

「光だけが残る」ヨハネによる福音書1章6-13節

「愛の目印」ヨハネ1:1-5

1:1 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。
1:2 この言は、初めに神と共にあった。
1:3 万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。
1:4 言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。
1:5 光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。

「初めに言があった」、この「言」という字は「言の葉」ではなく「言」という一文字で記してあります。これは、単に「原語」とか「言葉」という意味ではありません。

新約聖書が書かれたギリシア語では「ロゴス」という単語が使われているのですが、このロゴスにはたくさんの意味があります。「言葉」「理性」「真理」「論理」「調和」、外にもいろいろ訳される言葉です。この言葉にはいろんな意味が溢れています。

つまり、この「初めに言があった」という言葉には、神様の溢れんばかりの思いが詰まっています。その溢れんばかりの思い、溢れんばかりの愛が神様の創造の業の原点です。そして、その神様の思いが言葉になり、神様の創造の業となっています。

万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった」。神様の「愛」、神様の「良し」、神様の「満足」の中にすべてのものはあるのだ、と語っています。そして、その愛を最も受けているのが私たち人です。

しかし、その愛の中にある私たちは、同時に闇を抱えています。その闇を照らすために神様はその愛の形として一つの命を与えられた。それがイエス・キリストです。「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった」とはそういう意味です。

 (牧師:田中伊策)

「愛の目印」ヨハネによる福音書1章1-5節