月別アーカイブ: 2013年4月

「あなたがたに平和があるように」 ヨハネ20:21-23

あなたがたに平和があるように
ヨハネによる福音書20章21-23節

「俺たちも捕まってイエス様のように殺されるんじゃねえか!?」イエス様の弟子達はそう考えて心配していました。イエス様は人々に捕えられ、不当な裁判にかけられて十字架にかけられて殺されてしまったのです。

「きっと次は俺たちの番だ」と怖がっている弟子達は、家の鍵を閉め、部屋の真ん中に集まってお祈りしました。でも、どのように祈りしてよいかも分からず、ただただ「神様、神様~!」と怯えていました。そんな時にイエス様の声が聞こえました、「あなたがたに平和があるように」。

目を開けるとみんなで集まっていた真ん中にイエス様がいます。「えっ?」と弟子達は驚きました。イエス様は十字架にかかって死なれたからです。すると、イエス様はみんなに十字架の傷を見せました。「あっ、本当にイエス様だ。あの十字架のイエス様が俺たちの所に来てくれた!」。

イエス様が捕まった時、弟子達はみんな逃げてしまいました。だから、弟子達は十字架にかかられたイエス様を見ていないのです。それなのに、イエス様の方から弟子達のところに来て、その傷を見せてくれたのです。

みんなの真ん中で「あなた方の弱さを背負って私は十字架にかかったのだ。あなた方の事は私が一番良く知っているよ。」とイエス様は語ってくれています。そう思った時、弟子達の心は静かになりそして喜びに包まれました。

イエス様はもう一度「あなたがたに平和があるように」と言われました。「進み出しなさい!」と言って「ふ~」っと息を吹きかけました。舟が風を受けて水の上を進むように、私の言葉を受けて進み出しなさい、と言われているようです。今度は弟子達の番です。

「困ったなぁ」と思っている人達、「悲しいなぁ」と泣いている人達、「怖いよぉ」と怯えている人達、「こんな事して、もう赦してもらえないよなぁ」と後悔している人達のところに言って「あなたがたに平和があるように」と言ってあげる番です。イエス様に赦されたように赦す人として歩み出すのです。(牧師:田中伊策)

「愛は大切」 ヨハネⅠ 4:7-8

愛は大切
ヨハネの手紙Ⅰ 4章7-8節

「百聞は一見にしかず」と言います。言葉でどれだけ丁寧に伝えても分からなかったのに、「ほらこれだよ!」と見せたら「こういうことね!」と理解してもらえるということはよくあります。

象やキリンを見た事がない人にその姿形を言葉で細かく説明しても、聞いた人が描く姿は本物とは似ても似つかぬ姿になる事でしょう。実物や写真を見て、「これだったのか!」という事になるでしょう。それは言葉には隙間があるからです。

それは決して悪い事ばかりではありません。その言葉の隙間が想像力を蓄えさせることにもなるからです。子どもに昔話を聞かせる時、子どもは足らない情報を自分で補いイメージを膨らませ、物語を豊かにさせます。これがテレビだと目に飛び込む情報を受け入れるだけなので想像する力を養うことは出来ません。

「最近の若い者は受身がちで、自分から考えて仕事ができない」と言われるのは「ゆとり教育」が原因ではなく、メディアのせいなのではないか、と思います。

また言葉の隙間は、自分と相手の間にある「違い」という隔たりがそうさせる事もあります。例えば、優しい父親に育てられた人は「父」という言葉に「優しさ」を添え、厳しい父親に育てられた人は「父」という言葉に「厳しさ」を添えます。同じ「父」という言葉を使っても、二人の間の隔たりが、言葉に隙間を作ります。

言葉には一人ひとりのイメージが付きまとうのです。 では「愛」という言葉はどんなイメージでしょうか?イエス・キリストよりも前のユダヤ教では愛とは「戒め」でした。「これを守りなさい。あなたのために言っているのです!」という言葉を「愛」としていました。そしてそれが神だと思っていました。

でもイエスは愛を「どんなあなたであろうと私はあなたが大切だ」と伝えました。言葉だけでなく悲しむ人と共に悲しみ、傷ついた人に寄り添う事で。そのイエスから「愛って『大切』って事なのだ!神は私たちを大切だ、と言って下さるのだ」と知ったのです。神は言葉を越えて、神と人との隔たりを越えて、イエスを与えて下さったのです。あなたが大切だから、それが神だからです。 (牧師:田中伊策)

「一緒だと元気が出る」 詩編23:1-6

一緒だと元気が出る
詩編23編1-6節

「主はわたしを青草の原に休ませ/憩いの水のほとりに伴い魂を生き返らせてくださる。」 (2節・3節) 「青草」とは食べ物、「水」は飲み物です。しかし、この詩編の作者は食べ物が自分を生かし、飲みのものが自分を潤すのではなく、「主が私を休ませ」「主が私を生き返らせてくださる」と言います。それは私を導き、私に伴ってくれるから、です。

食べ物や飲み物は大事です。でも、それを誰と飲み、誰と食べるか、もかなり大事だと思います。むしろここでは主が私を生き返らせてくれる、と言っています。ここで言う「生き返る」とは勿論、死んだ心臓が再び動き出す、と云う意味ではありません。喉が渇いている時に水とか、ビールとかを飲んで「生き返る~!」とか言うじゃないですか。あれです。

生き返るとは「元気が出る」という事です。「元気が出る」その元気の源は、一人じゃないということです。問題を抱えて一人で悶々とする、悩み悲しみに一人打ちひしがれる、そんな時に、誰かがいると言う事がどれだけ慰めになるか。解決しなくても話を聞いてくれる人の存在がどれだけ有り難いか。闇に引っ張られそうになる、絶望に落ち込んでゆく自分を、誰かによって希望へと導かれる。そういうことです。

いつも思ったとおりの道に進むことは出来ません。そんな時に、「神も仏もあるものか」とか「神様はどうして私にこんな事をされるのか」と思う訳です。そんな時に私たちは忘れてしまっています。私たちが大切にしなければならないのは、この悲しみの中にも神様は共におられる、という事です。神様はこの課題の前に私一人を置き去りにされない、ということ。そこにこそ私たちの希望はあるのです。(牧師:田中伊策)

「復活の証人」 使徒9:1-9

復活の証人
使徒言行録9章1-9節

新約聖の中には多くの「手紙」が収められています。個人から個人へ、個人から教会へ、励ましや慰め、激励や忠告、質問の答えなど内容は多様です。

その中のいくつかは「パウロ」という人物が差出人となっています。パウロがイエス・キリストを伝えるために外国を旅し、そしてそこで生まれた教会に宛てたのです。

しかし、このパウロは元々ユダヤ教の熱心な信者で、クリスチャンを捕らえてエルサレムに連れて行っていました。ところがパウロは復活のキリストと出会います。その出会いが使徒言行録の9章1―9節に書かれています。しかし、「サウロ(パウロ)が旅をしてダマスコに近付いた時、突然、天からの光が彼の周りを照らした。サウロは地に倒れ「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」と呼びかける声を聞いた。」(4―5節)。

この出会いによって彼は回心し、逆に熱心なクリスチャンとなります。しかし、その歩みは非常に困難なものだと推測出来ます。キリスト教の迫害者であったパウロが回心してクリスチャンとなったという事は、パウロという人間がユダヤ人からもクリスチャンからも迫害される立場になる事でもあったからです。

だからこそパウロは伝道の場を外国に求めたのかもしれません。しかし、そうまでしてもパウロはキリストを伝えようとしたのです。パウロのその原動力はどこにあったのでしょう。それはやはり復活の主と出会った事です。復活の主と出会わなければ、このパウロの大きな方向転換はあり得ません。迫害されても、罵られても、疑われても、キリストを伝えようとするその生き方そのものが復活のキリストを伝えています。

パウロは正に復活の証人です。 私達もそうです。クリスチャンとして生きるという事は復活の証人として生きるという事です。キリストの復活が伝わるような生き方をしたいと思います。 (牧師:田中伊策)