月別アーカイブ: 2013年11月

「愛されたから愛する」 ヨハネⅠ4:19

私達は教えてもらったことしか知りません。私達が知っている事はみんな教えてもらったものです。私達が愛する事が出来るとすれば、それは愛されてきた証拠です。そしてその証拠はあります。私達が生まれた事、私達がこうやって生きている事そのものが愛されてきた証拠です。母親の愛無くして赤ちゃんが生まれる事は出来ません、親や周りの人の愛無くして何もできない赤ん坊が大人になることは出来ません。そこに愛があります。それが何百年も、何千も、何万年も、続くのは最早奇跡です。人が生き続ける、人が愛し続ける事が出来るのはそこに神様が一緒だったからだと私は信じます。

困っている人たちのところに、悲しんでいる人たちのところに、神様を必要としている人たちのところに行って大切な働きをしている方々がおられます。「悲しいね、辛いね。でも、こうやって一緒に生きる私達の間に神様はおられるよ。私達を愛して下さっているよ」そう言葉や行いで伝えている人たちです。その姿は誰かに似ています。そうですイエス様です。この外国に出て行って様々な働きをされている人たちは、イエス様がされたことを行っているのです。人は見たものしか知りません。聞いたことしか知りません。

きっと、この人たちはイエス様と出会ったのです。そして「悲しいね、辛いね。でも、こうやって一緒に生きる私達の間に神様はおられるよ。私達を愛して下さっているよ」って話しかけられたのです。そして「神様から愛されている」と強く思ったのです。そして「あなたが愛されているように、あなたも愛しなさい」という神様の声を聞いたのです。だから愛するのです。「私達が愛するのは、神がまず私達を愛して下さったからです」(ヨハネの手紙一4:19)とはそういう事です。 (牧師:田中伊策)

「愛されたから愛する」 ヨハネの手紙Ⅰ 4章19節

「希望の振り出し」 マルコ16:7

「さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」この言葉は、女性たちが生前のイエスを思い出し、復活のイエスと出会うために立ち上がり、ガリラヤに向かって歩みだすように促す言葉ですが、私達に対しては、「もう一度、福音書の最初に戻りなさい」と言っているのではないでしょうか。

福音書の最初には正に、ガリラヤで歩まれたイエスの姿が記されているからです。私達は同じような過ちを繰り返し行います。「また同じ失敗をしてしまった!」とよく思います。また行いだけではなく、感情もそうです。穏やかに過ごしたい、希望をもって歩みたい、でも、私達は日々起こる様々な出来事の前で、躓き、泣き、怒り、絶望します。そしてその度に、「私はイエス様を信じたはずなのに」と思います。

何も変わっていない、弱く、小さな自分と出会います。「駄目だなぁ」って思います。でも、イエス様は「またかい。また同じ過ちを犯すのか。この間は一緒だったけど、今度はもうあなた一人で頑張りなさい」とは言われない。何度同じ道を進もうとも、何度同じ過ちを行おうとも、その道を主は共に歩んで下さいます。それは私達が毎週礼拝を行う事と似ています。そして、私達が毎月主の晩餐を行う事と似ています。そして、私達が毎年クリスマスをお祝いする事と似ています。私達の心が強く、そしていつまでも熱く、さらに忘れないで行う事が出来るのであれば、礼拝はしなくても良いでしょう。主の晩餐式も行わなくても良いでしょう。あえてクリスマスを設けなくても良いでしょう。

けれども、私達は毎週、毎月、毎年行います。私達が同じ過ちを犯す人間だからです。再びガリラヤへ。また振り出しへ。それは、何度でもこのイエスと共に立ち上がれ、というメッセージなのです。 (牧師:田中伊策)

希望の振り出し マルコによる福音書16章7節

 

「子どもから始まる祝福」 ヨハネ6:3-13

5000人の空腹な人々を前に弟子たちはなすすべもなく立ち尽くしています。考えれば考えるほど絶望的になります。「一人200円としても5000人で100万円[200デナリ]!?しかもそれでも足らないし。」(一日の労働者の賃金1デナリを5000円と換算)。 しかし、そこには五つのパンと二匹の魚をもった少年がおりました。「こんな程度では役に立たない…」と弟子たちは思いましたが、イエス様は感謝の祈りをして、分け与えます。すると皆が満腹します。

これはイエス様だからできた奇跡です。では、この出来事は何を私達に伝えているのでしょう。「イエス様ってすごいだろう!」と言っているのでしょうか。確かにそうです。しかし、それだけではありません。聖書は「私達にもそのようにしなさい」と促しているのです。「いやいや、そんな不思議な事、そんなすごい事私には出来ません」と言うでしょう。確かに私達の力は小さい。しかし、その小さな働きを神様は用いられます。用いようとされています。一歩踏み出すことを期待してられます。しかし、大人にはその一歩の勇気がなかなか持てません。常識や経験が邪魔をするのです。だからこそ少年はその一歩を踏み出せたのです。

幼子のようになりなさい、と言われたイエス様の言葉を思い出します。私達が幼子を真ん中に置く時、大切な事を教えられます。そして、そこから大きな神様の働きを見ることが出来ます。 (牧師:田中伊策)

「子どもから始まる祝福」 ヨハネによる福音書6章3-13節

「信じ方が生き方となる」 マタイ7:1-6

「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。」(1節)。この言葉は逆に読むと「人を裁くと人からも裁かれる」となり、因果応報的な色の濃い言葉になります。確かに人生においてそのような事はよくあります。けれども、ここでは単に人間同士の関わりについて言われているのではありません。もっと根っこの事柄です。

「攻撃は最大の防御」と言います。スポーツでも攻撃をしている間は相手は防戦一方となり、自分は攻められる事がないので守っているのと同じです。「攻撃することで自分を守っている」のです。「人を裁く」というのは、これに似ているのかもしれません。本当は自分が裁かれるのが怖い、自分の弱さや足りなさ、自分の罪を指摘されるのが怖い。だから人を攻撃する、人を裁く。そうやって実は自分を守っているのではないでしょうか。そして、「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目に中にある丸太に気付かないのか」(3節)とあるように、人はそれを無意識で行っていることが多いのです。

「丸太」を「電信柱」に言い換えてみましょう。電信柱が目の中に入る事自体あり得ないのですが、もう一つ、それを自分で取るというのもあり得ない、無理な事です。つまり、自分の過ちを自分で償う、自分の小ささを自分で補う事自体出来ないのだ、とも言えます。自分の小ささも弱さも過ちも赦してもらわなくては生きられないのが人間なのです。そして神はその人間を愛し、その罪を赦し、取り除かれるためにイエス様を与えられました。赦されるしかない、と思えた時、人はもう裁く事は出来なくなります。

私達が人を裁く時、自分の心からイエス様を遠ざけ、自分を守ろうとしているのです。私達が赦す時、自分の心にイエス様を迎え、神様の御手に包まれています。人は信じ方が生き方となり、生き方が信じ方となってゆくのです。 (牧師:田中伊策)

「信じ方が生き方となる」 マタイによる福音書7章1-6節