月別アーカイブ: 2013年12月

「愛するために生まれた」 ヨハネ3:3, ヨハネⅠ 4:7-9

世の中はいつも、割に合わない事、理に適わない事が起こります。世の中と大きな事を言わなくても、そして遠くまで見なくても「神様を信じているのにどうして?」「神様がいるのなら何故?」と思えるような事はきっと一度や二度では無かったでしょう。それに対して周りの人はこの「割に合わない出来事」に辻褄を合わせるために「神様の罰(ばち)が当たった」とか「神様に裁かれた」と言います。

「なんか知らんけれど、この人(誰か)が悪い事をしたから」という事で自分を安心させようとするのです。しかし、よく考えますと結局、都合の悪い事は神様のせいにしてしまおう、という事です。分からんことは神様のせい、困ったことも神様のせい。そしてそのように読める箇所も聖書にはたくさんあります。そして実際、人々はそういう困った事が起こった人を「神様から罰を受けた人」とレッテルを張り、遠ざけて、隔離しておりました。「私は悪くない。この人が悪いんだ。そして神様が悪いんだ…」。人間は自分の正しさを守るために神様だって悪に出来るのです。

けれども、イエス様は言われます、「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」(マタイ5:45)。「父」とは神様の事です。『神様は罰なんて与えないよ。私達は愛されている』というのです。その「神様の愛」と比べたら「自分の正しさ」がどれだけちっぽけなものかが分かります。そしてその神様の愛の大きさをイエス様は示されました。

「この人のせい、神様のせい」という人々に対し「じゃあ、私のせいにしなさい」と引き受けられたのです。そこから「私は悪くない。私のせいじゃない」という「罪」の大きさが現れてきます。『キリスト教はすぐに、罪人、罪人、って言うけど、私は法に触れることなんてしていません。自虐的だ。」と言う言葉を聞くけれど、誰かのせいにするという事、自分を正しいとすることが罪なのです。

そして、イエス様は誰かのせいにしなかった。神がそうであるように愛された。それは私達人間の進むべき道を示しています。神様は私達を愛して下さっている。だから愛するのです。「この人のせい、神様のせい」にして自分を守らないで大切にしたらいいのです。愛されて生まれた者として生きるのです。イエス・キリストがそうであるように、私達も愛するために生まれたのです。 (牧師:田中伊策)

愛するために生まれた ヨハネによる福音書 3章3節 ヨハネの手紙Ⅰ 4章7-9節

「道になられる救い主」 ヨハネ14:6

マタイによる福音書はイエス様の誕生の出来事において、占星術の学者たちが来た事を伝えています(2:1~12)。彼らは東の国からやって来ました。東にはかつてイスラエルを支配したアッシリアやバビロニアやペルシアといった巨大な国がありました。戦いに勝って他の国を支配して大きくなり、戦いに敗れて飲み込まれてゆく。そんな事を繰り返していましたが、この時代は西にあるローマ帝国のためにすっかり落ちぶれています。「東の国」にはそんな意味があります。

彼らは新しい王を求めます。イスラエルに新しい王が出現する、との情報を得て、彼らはイスラエルに行きます。行った先は首都エルサレムの王の宮殿です。王を求めて王の宮殿に行く。至極当然の事です。しかし、そこに王はいませんでした。さらにエルサレムの人々は新しい王の誕生の事すら知りませんでした。王は自分の地位が危ういのかと恐れ、人々はこの暮らしが変わるのか、と不安になります。

しかし王はエルサレムではなく、そこから10キロほど南下したベツレヘムという村で生まれました。眩しい光のすぐ側は一番その存在が消し去られる場所です。けれども、救い主を示す星は占星術の学者たちをベツレヘムに生まれた幼子へ導きます。その星は神様の矢印です。

「ここを見てごらん!ここに私の伝えたいものがあるよ」。「学者たちはその星を見て喜びにあふれた」(10節)と書かれています。彼らは何もまだ見ていません。でも、星が「彼だ」と言っているのです。神様が「ここに私の子がいる」と言われるのです。立派な行いが出来る人はたくさんいます。人の心を打つ話の出来る人もたくさんいます。不思議な事を行う事が出来る人もたくさんいます。イエスもそうです。しかし、大切なのはそのイエスを神が「私の子」と示した事です。イエスの歩みが神様のつながっているということです。だからイエス様なのです。

占星術の学者たちはイエス様と出会い、捧げ物をして帰ります。彼らは「別の道を通って自分たちの国へ帰って行った」(12節)とあります。「別の道」とは神様につながる道です。戦いに勝つ道ではなく、この世的な豊かさを求める道でもなく、小さな命と共にあるその道こそ神様につながっています。「私はベツレヘムに私の子を与える。ここに私につながる道を備える」クリスマスにはそんなメッセージがあります。(牧師:田中伊策)

道になられる救い主 ヨハネによる福音書14章6節

「すべてを注ぐ救い主」 ヨハネ19:28

イエス様は十字架の上で「渇く」と言われました。十字架刑は十字架になっている柱に手足を釘打たれるという残酷な処刑方法です。釘打たれた手足はそれだけで苦しいのに、そこに全体重がかかり続けるため気絶する事も出来ません。叫び続け喉はカラカラだったでしょう。そして釘跡からは絶えず出血があります。貧血状態でフラフラになっていたことでしょう。カラカラ、フラフラで「渇く」のは当たり前です。けれどもこの「渇く」という言葉はそのような意味ではありません。それは福音書が次のように記しているからです。「イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、『渇く』と言われた」。

悲しむ者と共に悲しまれたイエス様でした。やがて裏切り逃げ出すことを知っていたのにその弟子達を最後まで見放すことをせず守られたイエス様でした。自分の立場や地位を守るためにイエス様を十字架につけようとした人々を責めることなく十字架に向かわれたイエス様でした。出会うすべての人々に愛を注がれたイエス様でした。「渇く」とはその愛をすべて注ぎ、その命を終えようとしているという事です。イエス様の中には愛しかなかった、という事です。神様が私達にイエス様を与えて下さった、それは神様が私達をただ愛そうとして下さっているメッセージです。

それにしても愛を注ぎ尽くして十字架で死を迎えるとは、何と理不尽で何と悲しい事でしょうか。愛する先には絶望が待っているのでしょうか。確かに報われない事も多くあります。そして私達は愛する事に躊躇しそうになります。しかし、「そうではない。神様は愛するということを意味のないものにされない」と聖書は語ります。神様はイエス様を死の中から甦らせた、と伝えているからです。「私はあなたがたと共にいる。あなたがたが愛そうとする歩みを意味のないものにしない。絶望で終わらせない。」イエス様の降誕を私達が喜び祝う理由がここにあります。すべてを注いだ救い主を喜ぶのです。 (牧師:田中伊策)

「すべてを注ぐ救い主」 ヨハネによる福音書19章28節

 

「涙を流す救い主」 ヨハネによる福音書11章35節

イエス様は「私は道であり、真理であり、命である」と言われます。「私は道」つまり、私の後をついてきなさい。私に従いなさ。この道を行きなさい、と言われるのです。そのイエス様が涙を流される。それは、イエス様が私達に涙することを許された、ということです。イエス様の涙は、私達が泣いても良い、ということです。彼女たちの「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。」という嘆きを、そして私達の「神様がいるのだったらどうしてこんな事が起こるのですか」という思いと言葉をイエス様は許されている、という事です。嘆き悲しむそのままの私達をイエス様は包まれるのです。「泣きなさい。悲しみなさい。私もあなたのために泣こう。その悲しみをわたしも受取ろう」。

残念な事に神様を信じていても私達に悲しみは訪れます。そして、その象徴として死は訪れます。誰にでも必ず死が訪れる、ということは誰にでも必ず悲しみは訪れるという事です。そしてそれを知りつつ悲しみの前でなお私達は嘆きます「神様がいるのだったらどうしてこんな事が起こるのですか?」マルタとマリアの言葉を借りるなら「主よ、もしここにいてくださいましたら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」。そこに神様がいなかったからこんな事が起こったのでしょうか?イエス様がいたらこんなことは起こらなかったのでしょうか?

そうではありません。主は共におられます。主はあなたの悲しみの傍らにおられ涙を流されています。主はあなたのその悲しみの傍らで、同じ悲しみを受けておられます。何故なら、神様は私達を愛しておられるからです。そして、その傍らにおられ、共に涙を流される主と出会う時、いえ、傍らで涙を流される主に気づく時、希望の道のりが始まります。私達の歩みはその繰り返しです。だから何度でも涙して良いのです。 (牧師:田中伊策)

「涙を流す救い主」 ヨハネによる福音書11章35節

 

「助けを求める救い主」 ヨハネによる福音書4章7節

「イエスは旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っておられた。正午ごろのことである。サマリアの女が水をくみに来た。イエスは、『水を飲ませてください』と言われた。」 (ヨハネ4章6-7節)。

「疲れた」だの「水を飲ませて下さい」だの、何とも弱み丸出しの「救い主」です。しかし、そんな救い主の弱い姿はここだけではありません。その誕生からそうです。家畜小屋で生まれ、飼葉桶に寝かされた赤ん坊。その姿は弱さそのものです。そしてその死もまたそうです。十字架につけられて「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」と叫びながら死んでいかれたイエスの姿は弱さの極みです。始まり(誕生)も終わり(死)も弱さなのですから、その間の生涯も弱さの中にあっても不思議はありません。

「水を飲ませて下さい」と弱さをさらけ出し助けを求める救い主の姿は弱い人間そのものです。けれども逆に人間はなかなかその弱みを見せたがりません。別の何かで包み隠したり、他の人の弱さを指摘して誤魔化したりしてしまいます。誰もが弱いって知っているのだから人間同士その弱さを隠さなくても良いはずなのに。互いに「助けて」って言えば良いのに。共に生きたら良いのに。

イエスは「水を飲ませてください」と言われます。この助けを求める救い主の姿は、神が人と共に生きようと決意された証です。そして家畜小屋の飼葉桶に寝かされた幼子の姿もまた、神が私達と共に生きる決意の姿なのです。 (牧師:田中伊策)

「助けを求める救い主」 ヨハネによる福音書4章7節