月別アーカイブ: 2014年3月

「人は良い種」 マタイ13:24ー30

聖書はこんな言葉で始まっています。「初めに、神は天と地を創造された」(創世記1:1)。

これはつまり、神様がすべてのものを作って、そこからすべては始まった、と聖書は教えているのです。「神は言われた『光あれ』こうして、光があった」(同1:3)と書かれています。「言われた」それはつまり、神様はこんなふうに思ったということです。

言葉というのは神様の気持ち、そしてその気持ちが形になった、「光あれ」それは真っ暗な人の世に光が欲しい、この真っ暗な中だとみんなが道に迷ってしまうから、光が欲しい、って、そうした神様の気持ちが、心が、言葉が形になったのがこの世界なんだ、と聖書は教えています。

悲しんでいる人、困っている人、ダメだって言われている人、そんな人たちに対して神様はこの人達に光があったら、って思われています。長い間、ずっと神様はその暗い中にいる人達と一緒の気持ちになっていました。そして、そこがパーって明るくなった。それがイエス様です。

イエス様は神様の「みんなのために光が欲しい」という気持ち、そして「光あれ」という言葉がそのまま命になった方です。だから、その光のところにたくさん悲しんでいる人たちが集まって来たのです。その「光あれ」と言われた聖書の始めのお話には、こんな事も書かれています。「神はご自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女とに創造された」(同1:27)。神様は人を作られた。私たちです。

そして私達は神様に似たものとして作られた、というのです。どこが神様と似ているのか。私達が神様の喜ばれる事を行う時に似て来るのです。この世の中に、そして悲しんでいる人たちの中に「光あれ」と言われたように、私達も悲しんでいる人達のそばに行って「光があったらいいのにねぇ」って思う時に、神様に似た姿になっているのです。

その神様は人をつくられた後で「それは極めて良かった」(同じ1:31)と言われます。神様は命を、そして私達人を良いものとして作られたのです。私たち一人一人は神様から蒔かれた良い種なのです。 (牧師:田中伊策)

「人は良い種」 マタイによる福音書13章24~30節

 

「地の塩、世の光」 マタイ5:13-16

マタイによる福音書は、教会のために書かれたといわれております。イエス様はマタイを通し、教会に対して「あなたがたは地の塩である。」と語られました。塩とは、なくてはならない存在です。塩がなければ、塩味をつけることはできません。それに、私たちの体は、塩がなければ生きられません。また、塩は、腐りませんし、塩はほかの食べ物が腐ることを防ぎます。塩は、いろいろなものに混ざって、塩として生きてきます。

またもう一つ、イエス様は、「あなたがたは世の光である」と言われます。

光は言うまでもなく、暗闇を照らします。しかし、光をともしているにも関わらず、その光の上に箱をかぶせる人はおりません。光は、光として輝き、闇を照らすのです。

イエス様は、「あなたがたの光を人々の前で輝かしなさい」と言われます。しかし、ふと立ち止まってみると、「イエス様こそ、まことの世の光」です。

そのまことの光が、私たちと出会ってくださり、私たちに「あなた方は世の光である」と語られたのです。私たちは、イエス様の光を分けてもらった存在、または、イエス様の光を移す、鏡のような存在にすぎません。しかしそうであってもまた、私たちは、世の光である、というイエス様の語りかけを聞くのであります。そしてまた、そのことに感謝するとともに、世の光であるといわれていることにもまた、私たちには責任があるように思えてなりません。

今日私は、あなたの塩味を失ってはいないか、あなたの光をかがやかしているかと問われているような気がします。 私たちも、光の園の子供たちに負けずと、私たちの光を輝かしていきたいです。 (青木紋子神学生)

 

「地の塩、世の光」 マタイによる福音書5章13~16節

「大きな柔らかい心で」 マタイ7:13-14

「狭い門から入りなさい」とイエス様は言われます。この「狭い門」とはどんな門でしょうか。「狭い」のですからきっと「窮屈さ」を感じるでしょう。そうでなくては「狭い」とは思えないでしょう。門だけではありません。体が成長すれば、今まで何も思わないで着ていた服も窮屈に感じ、そして着られなくなるのです。それが大きくなるということです。私達は大きくなるということが今まで出来なかったことが出来るようになる、と考えますが、実は大人になることで出来なくなるものだってあるのです。

「狭い門から入りなさい」ということもそうなのではないでしょうか。イエス様は「神の国はこのような者たち(子ども達)のものである。はっきり言っておく。子どものように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入る事は出来ない」(マルコ10:14-15)。持っている、知っている、そう言う事で私達は「得た」つもりになっているけれど、実はそのように思う事で「失った」事柄もあるのです。得たと思う事が心を傲慢にさせ、心を肥え太らせてゆきます。そんな肥え太った心では、当然「狭い門」を通る事は出来ません。

狭い門から入るためには自分が握っている手を離さなくてはなりません。自分で自分を守る武器や鎧を捨て、自分で自分の罪を包み隠す上着を脱がなくてはなりません。

愛する子ども達には大きくなってもらいたいと思います。しかし、頑なにはなってほしくない。優しい心、柔らかい心のままでいて欲しいと思います。大きくなっても柔らかい心ならその狭さを通り抜けることが出来ます。そして何より、柔らかい心なら、他の人の心にしっかり寄り添う事ができます。イエス様が喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣かれたように。子ども達がそのような心のままで成長してゆくことを願いながら、私達もまた、狭い門から入れるように、イエス様を見ながら柔らかい心になってゆきたいと思います。 (田中伊策牧師)

 

「大きな柔らかい心で」 マタイによる福音書7章13-14節

「祈りの尊さ」 使徒6:1-6

キリスト教は始まりの時代、信徒の心や信仰の事だけでなくその生活の事にも心を傾けていました。貧しい人たちの生活のために食べ物の分配をしていたのです。

使徒言行録6章にはまずその事が記されています。そんな中で問題が起こります。「ヘブライ語を話すユダヤ人」(生粋のユダヤ人)と「ギリシア語を話すユダヤ人」(外国で生まれ育ったユダヤ人)との間での争いが起こったのです。

その時に12使徒は弟子達を集めて言います「わたしたちが、神の言葉をないがしろにして、食事の世話をするのは好ましくない」(2節)。何か感じの悪い言い方に聞こえます。自分たち使徒がそんな食事の分配の事なんて出来るか!と言っているようです。

しかし、その後の言葉が大切です、「あなたがたの中から、“霊”と知恵に満ちた評判の良い人を選びなさい」。食事の分配のお世話や苦情の解決をする人を選ぶ基準として霊と知恵に満ちた人を挙げているのです。人間的な賢さ上手さではなく、“霊”つまり神様としっかり結びついておりその神様から解決の“知恵”を頂ける人であることが大切だ、というのです。

教会はいろんな方々の奉仕があって成り立っています。礼拝の中の奉仕もあるし、掃除の奉仕も、食事の奉仕もあります。そこに求められる事柄も同じです。掃除ひとつとっても、食事の準備ひとつとっても、求められるのは神様から促されて行うということです。 そしてそのために大切な事をこの聖書の箇所から教えられます。

7人の人が選ばれた時、「使徒たちは、祈って彼らの上に手を置いた」(6節)。奉仕をして下さる方は必要ですし大切です。でも、そのままでは奉仕は限界ある人間の働きのままです。その人間の業を祈りが神の働きに変えます。ですから体を動かす奉仕者が用いられるために祈り手は欠かせません。 「こんな奉仕にはそれほど価値はない」と思うかもしれません。でもその奉仕も“霊”と“知恵”を必要とする大切な奉仕です。「もう奉仕が出来ない私には価値がない」という言葉を聞く事があります。でも人の業を神の働きに変える祈りに優る奉仕はありません。(牧師)

 

祈りの尊さ 使徒言行録6章1-6節

「希望への同伴者」ルカ8:26-39

「悪霊」などと言うと私達はすぐにホラー映画のような映像やオカルトチックな現象を思い浮かべて怪しんでしまいます。でも聖書でいうところの「悪霊」とは別に特別なものではありません。人間関係の悩み、自己嫌悪、病気から来る煩い、越えられない課題を前にしてのひどい落ち込みや無気力、忙しさから来る苛立ち、言い知れない孤独感。そういう事柄の本質を「悪霊」と表現しているのです。

「なんだ、悪霊って特別な事柄じゃないんだ。怖くないんだ!」そう思うかもしれません。確かに「特別」ではありませんが、「怖くない」訳ではありません。風邪は万病の元と言います。心に力がなくなっている時に悪霊に入られるとこじらせてしまうことになりますから、やはり怖いと思います。

彼もそうだったのでしょう。どんな事が彼に起こったのかは分かりませんが、彼は町を離れて衣服を身に着けず墓場を住まいとしておりました。彼はイエスに名を尋ねられると「レギオン」と答えます。レギオンというのは当時イスラエルを支配していたローマの軍隊の中で5000~6000人程の大隊です。

彼の中にはたくさんの悲しみや痛みや傷があったのです。抱えきれない痛みを一人で抱えた彼は孤独を覚えながら、絶望を感じながら一人で何とか生きてきたのです。 そんな彼にイエスは「汚れた霊よ、出て行け!」と言います。そうすると悪霊は出て行ったとあります。

ここで私達はまた怪しみます、「なんかオカルトチックな現象が起こってる!」って。でも、重荷とか悲しみとか痛みとか罪悪感とか、誰かに話すことが出来たら、スーッとしたり元気が出たり頑張ろうと思えたり素直に「ごめんなさい」と言えたり、ってあるじゃないですか。抱えきれない事柄を親身になって聞いてくれたら力が出るじゃないですか。そう言う事です。

私達は一人では絶望から希望へ方向転換して進む事は出来ません。同伴者が必要です。「神は共におられる」決して離れない希望への同伴者です。(田中伊策牧師)

希望への同伴者 ルカによる福音書8章26-39節