月別アーカイブ: 2014年4月

お友達は誰? ルカ10:37

お友達は誰?
ルカによる福音書10章37節

イエス様は一つの譬え話をされました。

あるユダヤ人が旅をしていました。すると、きっと待ち伏せしていたのでしょう。強盗がその人に襲い掛かりました。あっという間に身ぐるみを剥がされ、酷い目に遭わされて、血だらけで倒れました。もう動くことが出来ません。その道を祭司が通りかかりました。祭司はこの人を見ました。しかし彼は道の反対側を通り過ぎます。死んでいると思ったのか、血に触れて汚れて祭司の仕事が出来なくなるのを恐れたのか、それともまだ近くに強盗がいるかもしれないということで逃げたのかは分かりませんが。

続いて祭司のお手伝いをするレビ人という人がやって来ましたが、彼もまた通り過ぎます。そして、サマリア人という人が通りかかります。サマリアとユダヤは隣同士なのに、とにかく仲が悪い。けれどもそのサマリア人はユダヤ人が倒れているのを見て、ぎゅーっと心が締め付けられ、すぐに駆け寄って手当をして、宿屋に連れて行き、介抱し、次の日お金を渡して宿屋の主人に託します。イエス様はこの譬えを話して「行って、あなたも同じようにしなさい」と言われます。

ユダヤ人とサマリア人というお話が、この国と隣の国の関係と重なって見えたら、会社や学校で机を並べているあの人との関係として読めたら、我が家と隣の家の人との関係を思い浮かべられたらしめたものです。何故ならそのように読むためにイエス様は譬えで語られたのです。

イエス様が譬えで話されたのは神様の言葉、聖書のお話をあなたの身近な出来事として考えなさい、ということです。そして、イエス様は「行って、あなたも同じようにしなさい」と言われます。ちなみにこの箇所(34節)の「宿屋」という言葉には「誰でも受け入れてもらえる場所」という意味があります。隣の人の痛みを抱えきれなかったら教会に連れてらっしゃい。教会は誰でも受け入れられる場所です。 (牧師:田中伊策)

待っておられるイエス様 ヨハネ 21:1-14

待っておられるイエス様
ヨハネによる福音書21章1~14節

聖書の一番最初にある創世記のさらに最初の1章には1節に「初めに神は天と地とを創造された」とあるように神様がこの世界の全てを創られたという事が書かれています。不思議な事がいろいろと書かれていますが、その不思議よりも大切なのは神様の想い(愛)によって一つ一つの命は創造されたという事柄です。

その創造の業は2章4節まで続いています。しかし、その続きを見ますとまた「主なる神が天と地とを創造されとき、地上にはまだ野の木も、野の草も生えていなかった」とあり、そこから再び創造の出来事が書かれています。けれども、これは神様が2度世界を創られたという事ではなく、異なった二つの天地創造の記事(物語・神話)を重ねて記しているのです。

大切なのは歴史的「事実」がどうであったかよりも神の「真実」は何か、ということです。一人一人の神との出会いが違うのですから、神を語る言葉は一人一人違います。聖書は正にそのようなものです。違う時代に違う場所で生きた個人や集団がどのように神と出会ったかが記されているから聖書には同じような事柄が重ねて書かれていたり、相反するような言葉が記されていたりするのです。

ヨハネによる福音書にはイエス様の復活の記事が何度も違った形で記されています。20章に復活のイエス様との出会いの記事があり、21章ではまた新しく復活のイエス様との出会いが記されています。そしてさらに四つの福音書(マタイ・マルコ・ルカ・ヨハネ)はみんな違う復活の記事が記されています。これも同じです。大切なのは福音書を組み合わせて辻褄を合わせる事ではなく、一人一人が生きている所で復活の主と出会う事です。イエス様は既に私たちと共におられます。そして待っておられます。 (牧師:田中伊策)

主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか ヨハネ13:1-11

主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか

ヨハネによる福音書13章1~11節

 

ある晩、イエス様と弟子達は食卓の席につかれていました。食事の最中、突然イエス様は立ち上がり、上着を脱ぎ、手拭いを腰につけ、それからたらいに水をくみ始められました。それは足を洗う時に奴隷がする光景です。一同は唖然とします。

 

イエス様は黙々と弟子達の足を洗います。弟子達はイエス様にされるがまま、足を洗ってもらっていました。一番弟子のシモン・ペトロの晩になった時、ペトロは言いました、「主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか」。 ペトロは愚直な人間です。トンチンカンな事もよく言うのですが、誰も言えないような言葉をイエス様に語るのも彼です。

 

「イエス様のなさることだから」と自分に言い聞かせて、疑う事をしないのであれば、それはスイッチで動くロボットみたいなものです。ペトロにはそんな事は出来ません。だから尋ねます。イエス様もまた弟子達にロボットのように従う事を望んではおられません。イエス様は人として従う事を望まれるのです。

 

人として生きたら信じていても悩みはあるし、疑いもあるし、悲しみだってある。そんな私達の心と、イエス様の洗われた足とが重なります。昔はサンダルのようなもので歩いていたでしょうから足が一番汚れる場所です。仕事をしたり、友達のところに行ったり、とにかく生きていたら汚れて行く、傷付きもする、そして痛む。それが足です。

 

その足を弟子となった後もイエス様は洗われます。「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたは私と何のかかわりもないことになる」。生きていたら汚れて来る足、傷付く足、痛む足をイエス様は洗われます。あなたがたを愛しぬく、というメッセージです。 その晩は、最後の晩餐の日でした。その後、イエス様は捕らえられ、不当な裁判の後、十字架にかかられます。愛しぬく先に十字架はあります。 (牧師:田中伊策)

救い主のしるし マルコ14:3-9

救い主のしるし

マルコによる福音書14章3~9節

 

シモンはイエスを自分の家に迎えて食事をします。彼が住んでいたのは「ベタニヤ」という村、その意味は「貧しい者の家・悩む者の家」。しかも彼は「重い皮膚病」でした。皮膚病の人は社会から排除されておりました。だからベタニヤに住む重い皮膚病の人シモンの食卓に並べられた物は決して豪華ではなかったでしょう。けれどもイエス様ご自身が望まれてこのベタニヤに来られていました。それはイエス様が人々の貧しさ、悩み、悲しみを知りたかったからです。その悲しみの傍らに行きたかったからです。

 

そこに一人の女性が来ます。彼女はイエスの頭に油を注ぎ始めます。「油を注ぐ」それは王様の戴冠式で行われる事柄です。そして、メシアというヘブライ語は「油注がれた者」という意味です。つまり彼女はこのイエスを「あなたこそメシア(ギリシア語ではキリスト)」と告白しているのです。「このイエス」とはベタニヤで皮膚病の人シモンと食事をするイエス、です。彼女は悩む者と共に悩み、悲しむ者と悲しむイエスに救い主のしるしを見たのです。

周りではイエスを殺そうとする陰謀(14:1-2)と裏切り(14:10-11)が渦巻いている中で、イエスはそれでも悲しむ者の悩む者の傍らに行かれます。イエスの進まれる道は変わりません。それは変わらない神様の愛そのものです。そしてその歩みは十字架へと向かいます。シモンの悲しみや痛みだけでなく、この世の波に流れてしまう私達の弱さや罪をも抱えて十字架の道にイエスは進まれるのです。 時代の中で救い主のしるしを見逃さない彼女の信仰をイエスは褒め称えます。私達は何をもってイエスをメシアと呼ぶか、問われています。