月別アーカイブ: 2014年5月

「天までとどけ」 マタイ6:26、13:31-32

「天までとどけ」 マタイによる福音書6章26節、13章31-32節

「空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養って下さる。」 (マタイ6章26節)

空の鳥は、種を蒔かない、出来たお野菜をどこかにしまってくこともしない、でも、「明日はどうやって食べ物を探そうか」なんて心配しないんでしょうね。子ども達と同じです。皆さんも、明日はご飯、食べられるでしょうか?なんて心配しないでしょ?ちゃんとご飯を作ってもらえることを知っています。大丈夫って、思っています。

いえ、そんな事考えもしません。どうして心配をしないか、というと、毎日毎日、たくさんお父さんやお母さん、お兄ちゃんやお姉ちゃん、お祖父ちゃんやお祖母ちゃん、周りの人、先生、いろんな人からたくさんの「あなたは大切だよ」「大事だよ」をもらっているからです。

「大切だよ」という言葉だけじゃありません。おっぱいをもらって、食べ物をもらって、必要なものを与えてもらって、たくさんの親切をもらって、そうしている間に「ああ、大丈夫だ」って思えるようになってくるのです。 けれど、大人になるといろいろなことを考えるから、どんどん心配になります。

例えば、「みんなで仲よくしましょう」ってその事だけ考えたら良いのに、隣の国の人が攻めてきたらどうしましょう、って心配していろんな武器を持ってしまう。そうすると隣の国も、あっちの国が武器を持ったぞ。攻めて来るのかな。僕たちも武器を持ったらどうだろうか、って考える。

最初の「みんなで仲よくしましょう」って考えるだけだったら、戦争なんて起こらないのにねぇ。たくさん考えると、いろんな心配をするのさ。だから、イエス様は、「空の鳥を見なさい」とか「幼子のようになりなさい」って言われるのです。そして、その「大丈夫。私はあなたのことを大切に思っているのだから」という事を伝えるために、この聖書の言葉、神様の言葉があるのです。 (牧師:田中伊策)

 

「あなたはどなた?」 ルカ8:22-25

2010年に亡くなられた作家の井上ひさしさんは「難しいことを易しく、易しいことを深く、深いことを面白く」と言われていたそうです。私も「そうありたいなぁ」と願い、努力しているのですが難しい。すぐに自分の理解の浅さと言葉の少なさを痛感します。そして、いつの間にか教会の中に溢れる専門用語に逃げてしまっています。自分の浅さが暴かれる事が恥ずかしいからでしょう。本当はそんなふうに取り繕う自分の方が恥ずかしいのに…。

そしてふと思います。もしかしたら日本のキリスト教、日本の教会、日本のクリスチャンもまたそうだったのではないか、って。「伝道」とか「リバイバル」とか勇ましく言いつつも、伝える言葉を持っておらず、そしてそれを隠すために専門用語で逃げて来たのではないか、って。

弟子達はイエス様と共にガリラヤ湖に舟を出します。イエス様はすぐに眠ってしまいました。そこに嵐がやって参ります。彼らは身の危険を感じ、イエス様に「先生、先生、おぼれそうです」と起こします。イエス様が風と荒波を叱ると凪になります。弟子たちに対しても「あなたがたの信仰はどこにあるのか?」と言います。その時に弟子達のリアクションが面白い。信じて従っているその方に対して、『弟子たちは恐れ驚いて、「いったい、この方はどなたなのだろう。命じれば風も波も従うではないか」と互いに言った。』というのです。

これは私達の姿でもあります。100%分かって信仰に入る人なんていないし、信じたって従ったっていつまでも100%には程遠い。それなのに、分かったふりして分からない言葉使って分からない自分を包み隠して。でも、大事なのは私がこの方に日々助けられ、救われ続けているという事実と、そこから生まれる新しい出会い、そして対話です。分かったふりをする時、そこ関係は止まってしまいます。対話も終わります。 日々、イエス様との出会いと対話が新しい言葉を与えます。その偽りのない言葉で伝えて行くのです。分からないって、先があるということでもあります。 (牧師:田中伊策)

あなたはどなた? ルカによる福音書8章22-25節

「神を畏れて命を尊ぶ」 出エジプト1:15-21

「助産婦はいずれも神を畏れていたのでエジプトの王が命じた通りにはせず、 男の子もいかしておいた」 (出エジプト記1章17)

内田樹(うちだたつる・哲学研究者、思想家、倫理学者)という方は大学教育に関して、「教養課程」とは本来は「コミュニケーションの訓練」のためにあったと言っています。自分と他者(もしくは物や事柄)との関係においては自分が変わる、自分の狭さを打ち破る事を学んでゆくのです。

外国語の習得などはその典型的なもので、外国語や外国語を話す人という異質な存在に対して自分から変わってゆく事(学んでゆく事)を通して関係を作ろうとする大切さと技術を学ぶというのです。それに対して「専門課程」を「内輪のパーティ」と内田さんは語ります。知っている事を前提に専門用語を使う。その言葉を知らない者は自分で学び、それに加わってゆく。そしてさらに専門性を深めて行くというのです。

そして内田さんはこう言います、『ところが「内輪のパーティ」だけでは専門領域は成り立ちません。ある専門領域が有用であるとされるのは、別の分野の専門家とコラボレーションすることによってのみだからです。

『ナヴァロンの要塞』でも『スパイ大作戦』でも「チームで仕事をする」話では、爆弾の専門家とか、コンピューターの専門家とか、格闘技の専門家とか、変装の専門家とか、色仕掛けの専門家とか、そういう様々な専門家が出てきます。彼らがそれぞれの特技を持ち寄って、そのコラボレーションを通して、単独では成し遂げられないほどの大事業が実現される。』(内田樹『街場の教育論』ミシマ社、2008年、91-92ページ)

王はすべてを支配しようとしていました。力と権力エジプトという内輪のパーティを守ろうとしたのです。助産婦たちは一つの命が生み出されるという事柄が単独では成し遂げられない大事業である事を知っていました。生み出す母と生まれてくる命と助け手が揃って初めて成し遂げられる。そして人はいつの時も何かの、誰かの助けを借りなければ生きることは出来ないのです。私達はそのように神に創られたのです。その神を彼女たちは畏れるのです。(田中伊策牧師)

神を畏れて命を尊ぶ 出エジプト記1章15-21節

「神の言葉とパン」 マタイ4:1-4

「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」 (マタイによる福音書4章4節)

上の言葉はイエス様が空腹だった時、そこに誘惑する者が来て「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ」と唆された時にイエス様が言われた言葉です。この言葉はイエス様のオリジナルの言葉ではなく旧約聖書にある言葉です。旧約聖書の申命記8章2節に「あなたの神、主が導かれた四十年の荒れ野の旅を思い起こしなさい」とあります。

イスラエルの人々がかつてエジプトで奴隷になっていた時、神様はモーセという人物を立ててイスラエルの人々を奴隷から救い出されました。しかし、人々は荒れ野で旅に嫌気がさして「ここにはパンも肉もない」と文句を言います。しかし神はこの何もないような荒れ野で朝にはマナというウエハースのような白い食べ物を荒れ野一面に、夕にはウズラの大群を来させて食べる物とされました。

その事を思い起こさせる文章として申命記の8章があり、その中に「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためである」(3節)という言葉があります。 人の欲望や不満には限りがありません。「あれが欲しい(食べたい)、これが欲しい(食べたい)」と思います。

そんな時に私達の心にささやく声が聞こえてきます、「あいつのをもらっちゃえよ!お前のものにしてしまえよ!お前が神になっちゃえばいいんだよ」って。「石(人の物)をパン(自分の物)に変えてみろよ」って。しかし、私達が聞かなくてはならないのは「私があなたを養う」と言われる神様の声です。そして神様は私達に必要なものを備えて下さいます。それは自分の願っている「パン」ではないかもしれません。でも、分かち合って頂く命の糧を神様は与えて下さいます。(牧師:田中伊策)

神の言葉とパン マタイによる福音書4章1-4節