月別アーカイブ: 2014年6月

「出来る時には気づかない」 使徒9:1-6

「出来る時には気づかない」 使徒言行録9章1-6節

パウロという人は旧約聖書の戒めを一生懸命に守る人でした。そして人にも守らせようとし、それが守れない人、守らない人にはとても厳しい人でした。きっと、パウロは何でもよく出来る人だったのでしょう。そうでなくては山のようにある旧約聖書の律法をちゃんと守れるはずがありません。

でも、出来るが故の落とし穴もあります。自分が基準になってしまう事です。「私は一生懸命しているのにこの人はしていない」「私は頑張っているのにこの人は諦めている」「私は正しく、この人は間違っている」。出来ない人の痛みも、その人が違う事をしている理由も考えようとしません。

「やればできる」それが出来る人の傲慢であることに彼は気づきません。 ある時パウロは、ただ愛するために生き、そして十字架にかかって死んだイエスという人物の影響を受けた人々の事を知ります。「あいつらは『律法は愛だ』などと言う。それは出来ない言い訳だ。そんな不届きな連中は罰せねばならない」そう思い、次々に捕まえては罰を与えてゆきました。

にもかかわらず、彼らは愛するということを止めようとしないのです。だからまたパウロは追いかけまわすのです。そんな中、パウロは旅の途中でまぶしい光の中、イエスに会うのです。「私は、あなたが迫害しているイエスである。起きて町に入れ。そうすれば、あなたのなすべき事が知らされる」。その言葉に視力を失ったパウロは従います。町に入ると、「イエスから行きなさいと言われたから」という理由で彼の元にやって来たアナニアという人物から目を癒してもらいます。

サウロは「この厳しい律法を守る事こそが大事だ」と思い、「愛なんて律法を守れない者の言い訳だ」と思っていましたが、自分が迫害してきたキリスト教徒から介抱された事を通して、愛する事がどれだけ難しく、尊い事かを知ります。パウロの完敗です。そしてイエスとの出会いによって本当に大切なものを知ったパウロは、キリスト教徒となり、キリストを伝える者となります。 人間出来るうちは、なかなか出来る自分の価値を捨てられません。そしてもっと大きな価値があることに気づくことが出来ません。大切に握っているその手の中のものよりも、もっと尊く、もっと大切なものを気づくことが出来たらもっと嬉しい人生を送られるはずです。

「最も大いなるものは、愛である」(Ⅰコリント13:13) (牧師:田中伊策)

「そこで私を知るだろう」 出エジプト3:7-14

「そこで私を知るだろう」 出エジプト記3章7-14節

「わたしはある。わたしはあるという者だ。」(出エジプト記3:14)

私達は「あなたのお名前は?」と尋ねられたら、ちゃんと自分の名前を答えるでしょう。「鈴木○○と申します」とか「佐藤○と言います」とか「山本○○○です」とか。ところが神は、その名を尋ねられて「…?」と思うような返事をしています。それが、「わたしはある。わたしはあるという者だ。」です。

神はエジプトで奴隷だったイスラエル人を救おうと思い、モーセという人物にその働きへと促すのですがモーセは言います、「わたしは何者でしょう?私が行かなくてはならないのですか?」。すると神は「私は必ずあなたと共にいる!」と答えられます。けれどもモーセはまた「もし同胞から『あなたを遣わした神の名は何というのじゃ?』と聞かれたらどうしましょうか」と言って暗に断ります。そこで神の返された答えが「わたしは…」でした。

モーセは最初から断る理由を探しています。示された先で起こる事柄を予想して「これは私(モーセ)には無理」「これは私(モーセ)には出来ない」そう思っているからです。でも、神は「お前(モーセ)には出来る!」なんて一言も言っていません。神は「私(神)は必ずあなた(モーセ)と共にいる」と言っています。「わたしはある。わたしはあるという者だ。」も同じです。この言葉は原語では元々「未来形」の言葉です。未来とはこれから起こる事柄について語るものです。言い直せば「わたしはいるだろう、それがわたしだ。」、そしてそれは「踏み出して御覧よ。そこであなたは私をさらに深く知るだろう」という意味です。名は体を顕す。

「私がそれを成し遂げられるのか?」私達はいつもその問いを大切にします。そして立ち止まります。何故なら未来は見えないからです。でも本当に大切にしなければならない問いは「そこに神はおられるか?」です。そして「神は共におられる」という答えと共に一歩進み出す事を神様は求めておられます。未来は見えない、でも神は共におられます。そしてその一歩を踏み出す時、私達はさらに深く神を知るのです。その促しに応えて進む神学生の方々の学びとこれからの働きのために祈り捧げましょう。 (牧師:田中伊策)

「父のイメージ」 マタイ5:43-48

「父のイメージ」 マタイによる福音書5章43-48節

「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである」 (マタイ5:45)

これはイエス様が神様について語っている箇所です。イエス様は神様を「父」と呼んでいます。他の聖書の箇所を見てみると、イエス様が祈る際に「アッバ」(マルコ13:36)と呼びかけています。「アッバ」とは年端のいかない子どもが父親に呼びかける言葉です。無防備な幼子が100%の信頼をもって父に呼びかけるように神様に対して呼びかけています。きっとこの箇所でもそんな思いで「父」と語っているのでしょう。でも、どうしてイエス様は「神様」と言わずにあえて「父」とか「天の父」と呼びかけたのでしょう。

それも、100%の信頼をもって無防備に呼びかける相手に「父」と呼びかけるのでしょう。 「父」というと、大体「一家の大黒柱」「主人」「威厳」「強さ」「怖さ」、そんなイメージを持つのではないかと思います。でも、そのイメージというのは、いつの間にか社会が作り上げてしまった偶像にすぎません。イエスが「父」を語る時、そこにはいつもその社会から自由な男性の姿があります。「放蕩息子の譬え」(ルカ15:11)なんてたくさんの財産を持っていますが、子に対して無力な父親で、ボロボロになって帰ってくる息子を見つけて、走って迎えに行き、そして抱きしめて「死んでいたのに生き返った」と手放しで喜んでいます。「人の目何て関係ない。私はお前が大事なんだ」とただ愛する事しかできない一人の人間としての姿が「父」の姿です。

そこには、イエス様自身の父(ヨセフ)の姿が重なっているのではないか、と私は思っています。ヨセフはイエス様の誕生と幼少期に出て来るだけで、他には出て来ません。イエス様は子どもの頃に亡くなったというのが通説です。イエス様の誕生の出来事でヨセフは、結婚前に聖霊によって身ごもったマリアと一度は離縁しようとしました(マタイ1:19)。姦淫をした、と疑われても仕方ないような事だったからです。しかし、彼はマリアと結婚する事を決意します。まるごとのマリアを受け入れたのです。まるごととは勿論、腹の中にいるイエス様も含めてです。彼は社会の目からも、戒めからも自由になり、ただ愛する事を決意したのです。そんな父、ヨセフの愛の中で育ったからこそ、イエス様は神様を「父」と「アッバ」呼んだのです。 (牧師:田中伊策)

「風と調べと新しい命」 ヨハネ3:1-15

「風と調べと新しい命」 ヨハネによる福音書3章1-15節

イエス様の歩みや言葉、そして十字架と復活が書かれています福音書には時々「律法学者」とか「ファリサイ人」とかいう名前が出て参ります。この律法学者とかファリサイ人という人々は、イエス様のおられたイスラエルでは一目置かれる存在でした。律法学者は聖書の教えに精通し、それを教えている先生達でした。そしてファリサイ人は、その戒めを特に厳格に守る人々です。

「ファリサイ」という言葉の語源はよく分かっていないのですが、「分離する」という意味の言葉から来ているという説があります。汚れに染まりやすい大衆からの分離なのか、それとも罪や汚れそのものからの分離か、それだけ厳格に律法を守る人々でした。それもそのはず、彼らは旧約聖書の戒めについて「神が律法をユダヤ民族に与えた以上、それは遵守可能なはずである」と考えていたのです。守ろうと思えば守れるのだ、守れないのはその人が弱いからか、堕落しているからだ、と思っていたのです。そして自ら厳格に律法を守っていたのです。

ニコデモもファリサイ派のユダヤ人で議員までしていました。そんな彼がイエス様の所にゆきます。イエス様は彼の悩みを見抜いて言います、「はっきり言っておく。人は新たに生まれなければ、神の国を見る事は出来ない」。ニコデモの悩みとはファリサイ派の人々が「遵守可能」と語っていた律法の限界だったと思われます。律法通りに生きられない事への苛立ちと後悔、悩み、それを打ち明けようとしたら、「新しく生まれなければ…」とイエス様が言われます。

それでニコデモは「年を取った者が、どうして生まれる事が出来るでしょう」と言います。「生まれ変われるものならそうしたいよ。でもそんな事できないだろ」と食ってかかるのです。けれどもイエス様は、自分の努力(律法遵守)によってではなく、神によってであることを語ります。自分で進む事をやめ、風を受けて進む舟のように歩むのです。 (牧師:田中伊策)

「一緒に食べたら良かったのに」 創世記25:27-34

「一緒に食べたら良かったのに」 創世記25章27-34節

時々旧約聖書を「旧訳」と勘違いされる方がおられます。これだと旧い翻訳という事になってしまいます。「旧約」というのはイエス・キリスト以前の神様と人との約束(つまり旧い約束)について書かれています。「私(神)があなたがたを救い出すから、あなたがたは私に従って来なさい」という約束(契約)について書かれています。

それに対して「新約」とはイエス・キリストを通して与えられた新しい神と人との約束(だから新しい約束)です。「私(神)があなたがたを愛するから、あなたがたはこの私の愛を受け取りなさい(信じなさい)」というものです。

旧約聖書はイエス・キリスト以前のイスラエル民族に与えられた約束で、読み手はほぼイスラエル(ユダヤ)人です。つまりこれはユダヤ教の経典です。それに対して新約聖書はすべての人に与えられた約束で、キリスト教で読まれます。そしてキリスト教は旧約聖書も用いています。 けれども、旧約聖書と新約聖書の間には大きなギャップがあります。旧約聖書は血なまぐさく、そして律法を守るという事が非常に重んじられます。

このギャップを解消するためには、私達読み手が旧約聖書の限界を越えて読む必要があります。旧約聖書はイスラエル民族を中心として、イスラエル人の視点で「イスラエル人によって」書かれています。そうなると他の民族との間には壁があり、敵となる場合が多い訳です。

でも新約聖書においてイエスは、愛はその壁を壊すのだ、と示されます。イエスが与えられたのはその旧約聖書の限界を越えるために来られたのです。新約聖書と旧約聖書との間に隔たりを感じれば感じるほど、そこにイエス様の来られた意味を知ることが出来るのです。そして、イエス様が越えられたその限界を私達も越えて聖書を読み、そしてそのように生きるように促されています。 (牧師:田中伊策)