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「笑いを授ける神」 創世記17:15-22

「笑いを授ける神」 創世記17章15-22節

何で聖書ってこんなに常識外れなのでしょうか。新約聖書・ルカによる福音書1章では、おとめマリアに対して天使が「あなたは男の子を産む」と告げてイエスが誕生したかと思うと、この旧約聖書・創世記17章箇所では100歳と90歳の男女に対して神は「あなたがたに男の子を与えよう」と約束し、そのようになったと記されています。

そんな話、おかしくて笑っちゃいます。けれども正にこの「笑っちゃう」がこの箇所のキーワードなのです。 アブラハムは神様を信頼して旅を続け、そしてようやく住むべき場所を与えられます。しかし、もうその時にはアブラハムは高齢です。パートナーのサラも同じように高齢です。神様は子孫を繁栄させると約束しましたが、「自分たちにはもう無理!」と判断した二人はサラの身の回りの世話をするハガルという女性によって子(イシュマエル)を得ます。

しかし、神は言うのです、「サラによって子を得、サラは諸国民の母となる」。アブラハムは下を向いて笑いながらこっそり「そんな訳あるかい!」と言い、そして上を向いて「神様、もう子は与えられています。イシュマエルを跡取りにします」と言います。ところが神は「サラとの間に男の子が生まれるから、名をイサク(彼は笑う)と名付けなさい」と言って去ります。 大切なのは神があなたに「イサク(笑い)を与える」と言われた事です。

それはこの二人の計画とは違うものです。人間は様々な計画を立てます。計画通りに行ったり人並み(常識のまま)に暮らしたりする事が幸せだと思い、計画から離れると不幸のように思います。しかし、だとするとみんな不幸せです。何故なら人生とは思い通りに行かないものだからです。でも、この思う通りにならない人生に神は伴われます。「でも私はいる!きっとあなたを笑顔にする!」信仰とはこの笑顔が生まれる日を目指して進む事です。 (牧師:田中伊策)

「隣人は隔たりを越える」 ルカ10:36-37

「隣人は隔たりを越える」 ルカによる福音書10章36-37節

キリスト教はユダヤ教の土壌の中から生まれたものです。生まれたとは言っても、全く新しい宗教が誕生したのではなく、ユダヤ教で語られていた事柄の本質が明らかにされたのがキリスト教なのだろうと思います。

ユダヤ教は基本的にイスラエル人による単一民族宗教です。そしてイスラエルは典型的な政教一致の国です。ユダヤ人はユダヤ教を信じるのが当たり前。そして、救われるのも原則ユダヤ人(ユダヤ教徒)です。ですから「宗教心が強い」=「自国愛が強い」という事になります。ですからユダヤ教徒にとって「隣人とは誰か」という問いの答えは「自国の人」です。

しかし、イエスはその「隣人とは誰か?」という律法の専門家の問いに対して一つのたとえ話をするのです。ユダヤ人が旅をしていたら盗賊に襲われます。身ぐるみを剥がされ、血を流して倒れています。そこに祭司が通りますが通り過ぎます。次に同じユダヤ人の宗教指導者的立場の人が通りますが、その人もまた通り過ぎます。そして次に通ったのは敵対する国、ユダヤ人とは互いにいがみあっているサマリヤ人。ところが彼はこのユダヤ人を介抱し、宿屋に連れて行き、そして宿代まで払って去ってゆくのです。イエスは言います、「誰が襲われた人の隣人になったか?」。律法の専門家は「その人を助けた人です」と言うしかありません。イエスは言います、「行ってあなたも同じようにしなさい」。

人間が過ちを犯すのですから国だって当然過ちを犯します。ところが「ユダヤ教の戒め」は「イスラエル国の戒め」という政教一致は神と国、神と人とを一致させてしまい、人の罪、国の罪を消し飛ばしてしまいます。それが「私達の国は正しいのだ。私達のしていることは神の御心なのだ。国民を守れ!敵をやっつけろ!」という発想になるのです。

本当はそこにこそ人の罪があり、愚かさがあるのに。 「行ってあなたも同じようにしなさい」。「その国という隔たりを高くして敵と味方を分ける事こそあなたがたの罪だ。その隔たりを越えて愛する歩みに進み出しなさい。それが隣人だ。それが神の望まれる事だ」とイエスは言うのです。敵は私が隔たりを作る中で生まれるのです。 (牧師:田中伊策)

 

「大胆に祈る」 創世記24:11-14

「大胆に祈る」 創世記24章11-14節

今日は創世記アブラハム物語の中から学びたいと思います。

旧約聖書はその内容とまたその量から敬遠されがちですが、実に豊かな人類の知恵と豊かな霊性の物語に満ちています。

まず、創世記ですが、天地創造物語に始まり、人類の創造、罪の起源、現代の原子力を思わせるバベルの塔、また人類の滅びの予言ノアの方舟物語、それにアブラハム、イサク、ヤコブ物語と、小さな物語の飽かせない豊かな物語に満ちています。

今日はその中からアブラハムのイサクの嫁選びの物語です。600キロの旅、砂漠の道を歩いて長旅をして来た、アブラハムに全権を託された、執事エリエゼルは途方に暮れています。

知らない土地、知らない人ばかりの中で、大事なアブラハムの長子イサクのお嫁さんをどう探した良いのでしょうか。エリエゼルは人々の集まる井戸のほとりで祈るのです。その祈りが今日の聖書の箇所です。なんと大胆な無鉄砲ともいえる祈りでしょうか。

しかしこの祈りは神様に全て御委ねした大胆なまでの、神を信頼しきった祈りの姿があります。しかもエリエゼルは大胆に神に信頼して祈るのです。そしてその祈りは神に聞かれ理想的な最善のお嫁さん探しになったのでした。神に信頼し祈る者には、神は真実に答えて下さると言う祈りの典型が此処にあります。私達もその祈りの内容は異なっても、神を信じ、大胆に神に信頼して祈りたいと思います (和白バプテスト教会:川野直人協力牧師)

 

「生きるための命」 マルコ2:23-28

「生きるための命」 マルコによる福音書2章23-28節

出エジプト記20章の中にはこうあります。「安息日を心に留め、これを聖別せよ。」。これは「神様が6日かけてすべてのものを創られた、そして7日目は休まれた。7日目は安息の日なのだ。だから休みましょう」というものです。

もっと強い言葉じゃないか、と思うかもしれません。けれど、この十戒の語り口調は本来、「~してはならない」ではなく、「~するはずがないだろう」と訳すべきではないか、と言われています。

20章の最初に「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である」とあります。エジプトで奴隷だったイスラエル人を神様は救い出した、というのです。「その神様を知ったら…」ということで戒めが始まります。「あなたは、わたしをおいて他に神があってはならない」これは「その救ってくれた神様を知ったからには『もう他のもの神様とするはずがないだろう』」と言う意味です。

「他に偶像をつくるはずながないだろう」。そして「休まないはずがない、だって神様から救ってもらった命なのだから、大切にするだろう」ということなのです。決して「命令」ではなく、「当然」のこととして記してあるのです。助けてもらった命、救ってもらった命、大切にしろよ!それがこの戒めの本質です。

他の箇所にはさらにこうあります。23章12節、ここには面白い事が書かれています。「あなたは六日の間、あなたの仕事を行い、七日目には、仕事をやめねばならない。それは、あなたの牛やろばが休み、女奴隷の子や寄留者が元気を回復するためである」。あなたが休む事で、あなたよりも立場の低いものが休める、というのです。

それが本来良いものかどうかは別にして、忠実な僕は主人が休まなければなかなか休もうとしない、だからあなたがまず休みなさい。そうしたらあなたより立場の低い者が堂々と休める。これを神様の人間の関係に当てはめると、神様が7日目に休まれたのは、人間が休むことが出来るように、だったのではないか、と思うのです。 (牧師:田中伊策)