月別アーカイブ: 2014年8月

あなたは高価です マタイ13:45-46

マタイによる福音書13章45-46節

「商人が良い真珠を探している。高価な真珠一つを見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。」

『商人が良い真珠を探している』。「探している」というのは、「ここはありそうだ!」と思う所はすべて見て回って、それでもないのであちこち回っているということでしょう。そして多分、意外なところで見つけたのです。「こんなところに!これは絶対ほしい!」。ところが、持ち合わせの現金では足りません。そこでこの商人は「ちょっと待っていて下さい!誰にも売らないでください!必ずお金は持って来ますから」そう言って、その場を離れます。そして別の店で自分の持っている、もしくは身に着けている価値のありそうな物を全部売り払って、現金に換え、それで真珠を求める。そういう話です。

意外なところに価値ある物がある。それは私たち自身のことです。私達は人間の価値とか自分の価値とかを、この世の価値観に重ねます。そしてきれいに重なった部分を良いとし、重ならなかった部分をダメ、とします。けれども、私達の本当の価値は「意外なところにある」と聖書は語るのです。むしろ意外な、他の人とは重ならない部分にこそ、私達の価値がある。他の人、他のものでは代替できない、そこにこそ神様はあなたの価値を見出す、というのです。

そしてその価値のためには、自らの価値(商人の持ち物→神の尊厳とか力とか)を失ってでも大切にしたい、と語られているのです。 あなたの価値は神様が一番ご存知です。神様はあなたを尊いとしてくださり、すべてを捨ててでも大切にしたいと思っておられるのです。神が人となられた、という出来事は正に自らの力を捨てて、あなたを大切にするためなのです。 (牧師:田中伊策)

「おめでたい人々」 ローマ10:5-13

「おめでたい人々」 ローマの信徒への手紙10章5-13節

「信仰によって義とされる」と言う言葉は聖書の中に何度か出て来る言葉です。「義」という言葉には「正しい」という意味があります。ですから「義とされる」というのは「お前は正しい、と認められる」ことです。つまり神様から「それでよろしい!」と太鼓判を押される、それが聖書の中に出て来る「義とされる」と言う言葉の意味です。

ではどういう時に正しいと認められるのでしょうか?たくさん聖書の勉強をして神様の事がよく分かった!という時でしょうか。たくさん修行や善行を積んだ時でしょうか。それともすべての欲を捨てて、ひたすら黙想したその先で認められるのでしょうか。全部違います。神様が共におられる、と信じる時です。

神様を信じる時に「それでよろしい!」と神様に太鼓判を押されて安心する。それが嬉しいと言葉に表す。その時にあなたは紛れもなく救われている、それが「人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです」という言葉の意味であり、それが私たちの信仰です。 信じるだけで良いとは何とも太っ腹な神様です。

しかし信じる方も負けてはいません。信じるだけで良いという言葉を真に受けて、それを信じて喜ぶとはクリスチャンとはなんとおめでたい人種でしょうか。でも、おめでたくて良いのです。その信じると言う事の中にこそ希望があるからです。お互いに信じ合う事の出来ない関係には希望がありません。相手を信じるだけでなく、相手から信じてもらわなくては不確かで破れの多い私には生きる道がないからです。

時には他者から、そして自分自身からも裏切られる事があるけれど、それでも赦し、赦される中で信じながら生きて行く。信じて生きる中で神様から「それで良い!」と言われる、それは同時に「そこに人の生きる道がある」というメッセージでもあります。おめでたい人々であり続けましょう。 (牧師:田中伊策)

「キリストの平和を生きる」 エフェソ2:14-16

「キリストの平和を生きる」 エフェソの信徒への手紙2章14-16節

「西南学院の創立の時から、現在まで守り導いてくださった歴史の主であるインマヌエルの神さま。 私たちは、本日ここに「西南学院学徒出陣戦没者追悼記念式」を開き、70年前に勉学を志半ばで断念して戦場に赴き、お亡くなりになられた方々を覚え、追悼するために集まってまいりました。

これらの方々は、この学院を卒業して、大きな志を持って社会に羽ばたこうとの夢を持っておられました。そのような20歳そこそこの多くの若者が、自分の人生を選ぶ道を閉ざされ、ペンを銃に持ち替えて、なぜ戦わなければならなかったのでしょうか。過酷な時代の犠牲者であり、その気持ちをひとことで言うなら、「無念」という言葉に尽きると思います。

しかし一方で、私たちの国は、この戦争の交戦国や植民地支配をおこなったアジアの国々に多大の悲しみと損失を与え、戦後60数年を経た今もその痛みは消えずに残っていることを忘れてはなりません。 また、西南学院はキリスト教を建学の精神として、平和を作り出す使命を持った学校であったにもかかわらず、この戦争に協力し、学生・生徒を戦場に送り出しました。そして、戦後も、そのことを悔い改めずに過ごしてまいりました。

私たちは今日、これらのことを改めて覚えることで、歴史を振り返り、未来を見据えつつ、グローバルな友好関係を「隣人」の方々との間に築いていかなければならないと思っています。そのことが、新たな100年に向かう学院の進むべき方向であると共に、お亡くなりになられた皆さま方と戦争の犠牲になられた多くの方々にお答えする唯一の道であると信じるからです。 「西南学院学徒出陣戦没者追悼記念式」開催にあたって、私たちを和解の道へと導いて下さる平和の主であるイエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン」

2013年6月1日 西南学院中学校・高等学校(当時) 伊 原 幹 治 西南学院百年史編纂委員会『西南学院史紀要』(2014.5 Vol.9)より

 

「愛があれば」 コリントⅠ 13:1-3

「愛があれば」 コリントの信徒への手紙Ⅰ 13章1-3節

「たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。」(1節)

「異言」というのは熱心に祈るあまり興奮状態、もしくは恍惚状態になり、自分の意思とは別に唇が震え、言葉を発する事柄を言います。コリントの教会ではそういう人のことを「神様から直接言葉を頂いて話しておられるんだ」と理解し「この人は神様と強く結びついているんだ。素晴らしい。私も出来たらいいな」って思っていたようです。

でも、我を忘れ、常軌を逸した「興奮状態」でしか神様と結びつくことが出来ないのであれば、それは現実逃避です。また心を高揚させ、登り詰めて恍惚状態になる異言は非常に個人的で他者性がありません。言い換えると、愛がない。神様を求める事、熱心になる事、それは尊い事です。でも、そこに他者への思い、愛がないのであれば、その熱心さには何の意味もない、とパウロは言うのです。

フィリピの信徒への手紙2章6節には次のようにあります、「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」。

イエス・キリストの事柄は、「神は、夜の星のように手の届かない遥か遠い先におられるのではなく、あなたの目の高さ、いやあなたが目を落としたその高さに、さらにあなたが躓き倒れたその目の高さにおられるよ」ということを教えてくれています。私達の悲しみの多い、悩みの多い、躓きの多いこの歩みのただ中にいて下さる、ということです。 (牧師:田中伊策)

 

「弱さの中に伴われるキリスト」 コリントⅠ 8:1-13

「弱さの中に伴われるキリスト」 コリントの信徒への手紙Ⅰ 8章1-13節

お祭りって聞くと何だかワクワクします。しかし元来、お祭りというのは宗教との関わりで行われてきたものですよね。豊作を神様に感謝するものだったり、災害が起こらないように神様を鎮めるものだったり。はて。お祭りとかそういう他の宗教行事にクリスチャンはどういう立場を取ったら良いのでしょうか?

この種の疑問はキリスト教が生まれた時からありました。コリントという町の教会からパウロという伝道者に一通の手紙が送られました。きっとこんな手紙だっただろうと想像して書いてみます「拝啓 パウロ様。お元気でらっしゃいますか?ご存知の通りこのコリントという町は、いろいろな宗教、いろいろな神様が並び立っている町です。いろんなお祭り、いろんな礼拝が行われます。それで質問です。礼拝やお祭りの時に出されるお肉は食べて良いのでしょうか。あの肉はきっと捧げられてから振る舞われている肉だと思うのですが偶像礼拝にならないでしょうか…。では、くれぐれもお体を大事にされますように。敬具」

それに対してのパウロの答えはこうです。「偶像に供えられた肉について言えば(8:1)、そもそも私達は『偶像などというもの神ではない』と思っているのですから、食べたって食べなくたってどっちでも良いのです。でも、それが気になって仕方ないという細やかな人もいますよね。もし、あなたがその人の前で「私は偶像なんて神じゃないから食べちゃうよ」と言って食べたら、きっとその人も(食べなくちゃいけないかな…)なんて思いながら無理して食べる事になるでしょう。そんな事になったら、その人は行い(体)と気持ち(心)とが裂かれて苦しい思いをしてしまうことでしょう。その人が救われるためにもキリストは死なれたのに。あなたは食べて構わない。でもあなたが飲み食いするその自由さによって他の人が傷つくなら、きっとあなたの言動にキリストも傷つくでしょう。もし、自由な振る舞いで誰かが傷つくのだとしたら、私なら肉を食べないけどなぁ」。

「自分の自由が誰かを傷つけるなら、それはもう罪だ!」とパウロは言います。自分の自由を貫く強さを持った時必ずどこかで傷つく。しかしキリストは弱さに伴われた。弱さの中で痛む中にキリストはおられる。同じ宗教の人同士でも、勿論違う宗教の間柄でも、一緒に弱さの中で苦しむ人の姿を見る事が出来たら、きっと一緒に生きる道を見つける事が出来るはずです。一緒に祝う日が来る事を願いつつ。(牧師:田中伊策)