月別アーカイブ: 2014年9月

「補い合うこと」 エフェソ4:16

『キリストにより、体全体は、あらゆる節々が補い合うことによってしっかり組み合わされて、おのおのの部分は分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆくのです。』(エフェソの信徒への手紙4章16節)

切り立った崖や垂直に近い山を、道具を使わないで登ってゆく「フリークライミング」は、ちょっと出っ張った場所や岩の割れ目などに手や足をかけながら登ってゆきます。普通の山登りだとデコボコした場所があると登りにくくて困ります。時にはそういう場所で転んでしまいます。無い方が有難いと思います。でもフリークライミングでは、この小さなデコボコや岩の割れ目、そういう場所があるから登ってゆく事が出来るのです。

それは私達の生き方そのものじゃないかな、って思います。何故なら私達一人一人もデコボコしているからです。人を躓かせてしまったり、人を傷付けてしまったり、時にはそれで喧嘩も起こります。そして自分や人のデコボコを見て、「どうして私ってこうなんだろう?」「どうしてこの人ってこうなんだろう?」って腹が立ったり、「面倒だな、こんなデコボコない方がいいな」って思ったりします。でもイエス様は、この一人一人のデコボコや一人一人の割れ目、でっぱりを愛されました。それは他の人とは違うあなたそのものだって、大切にされたのです。イエス様はそのデコボコを接点に共に歩まれたのです(それはもしかしたら、神と人との接点でもあるように思います)。

そんなイエス様から、「一人一人が持っている面倒なところや分からない所、それは紛れもなく欠点や弱点なのだけれど、同時にそれがあるから私達は一緒に生きて行けるんじゃないか」ということを教えられます。そしてそのデコボコを手がかりに、自分や相手を理解しようとしたり、お互いに助け合ったり出来るんじゃないかな、手がかりがつながりになって、一緒に登って行けるんじゃないかな、って思います。 (牧師:田中伊策)

「補い合うこと」 エフェソの信徒への手紙4章16節

「復活の時」 マルコ12:18-27

コンビニエンスストアやスーパーに入ると店員さん達が一斉に「いらっしゃいませ、こんにちは!」と声をかけてくれます。でも、こちらを見る事もなく言っている人も少なくありません。きっとマニュアル通りにしなさいと言われているのだろうな、店員さんにとって大切なのは「マニュアル」であって「客」ではないのだろうな、と思います。別に「神対応」をしてもらいたいとは思わないけど、寂しい思いをします。

マニュアル(行動方法や操作方法が記してある物)があると助かるのは確かです。この通りに動かせば、機械も思った通りに動いてくれます。でも、人相手にはもっと大切な事があるのではないでしょうか。「これ」でなく「あなた」という生きた関わりが。

聖書もそうです。聖書は決して信仰生活完全マニュアルではありません。神に対して、人に対して「こう行えば間違いなし!」みたいなものではありません。ところが、そのように考える人たちもいます。聖書をマニュアル化するとどうなるか、それは神様を機械のように考える事になり、自分の思い通りにしようとすることになります。『私はこうしたい。聖書にここにこう書いてあるから、こう神様にお願いしよう。神様は私の思った通りに事を運んでくれるはず』。それは『こんなものを作りたいからこのように機械を操作しよう』と同じことになります。でも神は、聖書に表すことのできるような小さな方ではないし、その神の働きを全て聖書に収められるほど少なくありません。それに、もし神様が聖書の中だけの方ならば、聖書を開いた時だけ働いておられない事になります。神様は生きて働く神です。今もなお私たちに生きて働いておられるのです。

聖書をマニュアルとして読むサドカイ派の人達にイエス様は「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ」と言います。まず神ご自身が生きて働いておられる。召された者も生きて働かれる神の御手にあって復活の命を得ています.(牧師:田中伊策)

「復活の時」 マルコによる福音書12章18-27節

 

「新しいあなたと出会いたい」 フィリピ3:12-16

キリスト教の最初期において最も有名な人物として二人の名前を挙げる事が出来ると思います。一人はイエスの十二弟子の一人シモン・ペトロ。彼はイエス様からペトロ(岩)という名前を与えられ、「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」(マタイ16:18)と言われた人物であり、実際にイスラエルにおけるキリスト教会の中心的人物でした。

もう一人はパウロ。彼は熱心なユダヤ教徒でありましたが回心し、多くの国に行ってイエス・キリストを伝え、異邦人教会の設立に携わりました。キリスト教がイスラエル地方の枠を大きく越えて世界に広がった理由の一つとしてパウロの働きがあったからです。

この多くの国でイエス・キリストを伝えたパウロが、フィリピという地方の教会に宛てた手紙の中で次のように言っています、『わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません』(12節)。あのパウロが「私は分かった訳ではないし、行いも十分じゃありません」と言っているのです。ビックリします。でも、同時に慰められもします。「そうか、あのパウロでさえ、イエス様について『分かった!』という訳でも、自分の行いについても『もう大丈夫!』と言える訳でもないのか」と思えるからです。

けれども、その慰めが「じゃあ、私なんか分からないはずだよな。これでいいか!」という諦めに変わってしまいそうになるのが私達です。そんな私達の目を覚ます言葉が、このパウロの言葉の続きです。『何とかして捕らえようと努めているのです。自分がイエス・キリストに捕らえられているからです』(同節)。「捕らえられている」とは私達はもうキリストの愛に包まれている、ということです。私達は皆、クリスチャンであろうがなかろうが、イエス様の十字架によって赦されているのです。パウロはその恵みが先にある事を知ったから、もっと深く知りたい、もっと実感したい、と努めるのです。もっと深く知りたい、それは「イエス様、新しいあなたと出会いたいのです」という姿であり、同時に信仰者の歩むべき道です。

信仰者の歩みは生きる限り道半ばです。しかし、その道でこそ新しいイエス様と出会うことが出来るのです。 その出会いによって私達は日々新しくされるのです。 (牧師:田中伊策)

 

「新しいあなたと出会いたい」 フィリピの信徒への手紙3章12-16節

 

「私が『良い!』と言っている」 使徒10:9-16

ある日、イエスの弟子のペトロは祈るために屋上に行きます。昼だったので空腹でボーっとなったペトロは次のような幻を見ます。「空から四隅をつるされた布が降り来ます。その布の中には律法で食べる事を禁じられている動物が入っており、『ペトロよ、身を起こし、屠って食べなさい』(13節)と声が聞こえました。しかしペトロは『主よ、とんでもないことです。清くない物、汚れた物は何一つ食べたことがありません』(14節)と言います。すると再び『神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはなりません』(15節)と声がしました。そんなやり取りが3度あり、やがて布は空に引き上げられました」こんな幻です。

ペトロはユダヤ教徒である「自分は清い」と思っているから「清くない物は食べてはならない」と思います。ですから「清い物」は「清い人(ユダヤ人)」、「汚れた物」も「汚れた人(異邦人)」と考えることが出来ます。ところが、この時ペトロは「皮なめし職人シモン」(8節)の家の客になっていました。「皮なめし職人」とは、動物の皮を加工する仕事をする人で、ユダヤ社会では蔑視され汚れた者と見なされていました。

その「汚れた者」と呼ばれる人の家にお世話になりながら、自らを清い者として「汚れ」を拒否するペトロの姿は滑稽です。しかし、滑稽では済まされません、「汚れた者」を作り出し、踏みつけて「聖なる者」を気取るそこにこそ人間の罪があるからです。

そして「清い」者は「汚れた」者によって支えられ生かされているのです。でも、それを認めたくないのです。ペトロもそうだったかもしれません。そんな時に、天から声が聞こえます、『神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはなりません』。この言葉は、人間が作った価値観をぶち壊す言葉です。「私はすべての人を尊いとし、清いとする。そのために十字架は有る。私を信じるあなたは自分や他者に貴賤を付けてはならない。食べなさい。私が『良い!』って言っているのだから」。

かつて、アメリカで公民権運動(黒人をはじめとする有色人差別の廃絶の運動)の担い手だったマルチン・ルーサー・キング牧師(1929-1968)は語りました。「私には夢がある。いつかジョージアの赤土の丘の上で、かつての奴隷の子孫とかつての奴隷主の子孫が、兄弟愛のテーブルに仲よく座ることができるようになるという夢が。」ペトロ(私達)への言葉と重なります。 (牧師:田中伊策)

「私が『良い!』と言っている」 使徒言行録10章9-16節