月別アーカイブ: 2014年10月

「きっと幸せになれる」 ルカ6:21

『今飢えている人々は、幸いである。あなたがたは満たされる。 今泣いている人々は、幸いである。あなたがたは笑うようになる。』

今泣いている人やお腹が空いている人は幸せ、とはどういうことでしょう?ちっとも意味が分からないので、他の訳(田川建三訳)の言葉で読んでみると、こうありました。『幸い、今飢える者。汝らこそ満ち足りよう。幸い、今泣く者。汝らこそ笑うであろう。』「幸いである」ではなく「幸い」とだけ書かれていました。これは、祈りの言葉です。「今お腹が空いている皆さん、あなたに幸せがありますように、きっとお腹いっぱいの日が来るから」「今泣いている皆さん、あなたに幸せがありますように、きっと笑える日が来るから」とイエス様は言われているのです。「お腹が空いている今」と「お腹いっぱいの未来」その間に「幸せを願う」という祈りがあるのです。

では幸せって何でしょう?「幸せ」という言葉は日本語では元々「仕合せ」という字が使われていたそうです。「合わせる」というのは違うものを一緒にすることです。誰かが一人で何かをしている時に、違う人がそこに来て一緒にする、それが仕合せであり幸せなのです。聖書も同じ。今お腹が空いている人がいる。そこに違う人が来て、「これ、お食べよ!」っておにぎりをくれるという仕合せが入ると、満腹になる。それが幸せ。今泣いている人がいる。その違う人が来て、「悲しいね。辛いね。」って言ってくれるという仕合せが入る。そうするとやがてそこに笑顔が生まれる。それが幸せ。これこそが「お腹が空いている今」と「お腹いっぱいの未来」その間に「幸せを願う」という祈りの中身です。私達は独りでは生きられません。「人が一人でいるのはよくない。彼に合う助ける者を造ろう」(創世記2:18)。神様は私達が一人でいることを良い事とされません。私達が本当に幸せになるのは誰かと一緒の時なのです。一人では空腹も悲しみも越えられません。イエス様は「悲しみの今、空腹の今は共にあることによってのみ越えて行けるのだ。そこに私もいる」と言われるのです。(牧師)

「きっと幸せになれる」 ルカによる福音書6章21節

「油注がれた者」 マルコ14:3-9

「イエスがベタニヤで重い皮膚病の人シモンの家にいて、食事の席に着いておられた。」(3節)

イエスの時代には、重い皮膚病の人が出ると、その町の人々はその病が感染することを恐れ、皮膚病の人を町から追放していました。追い出して、人々は安心するのです。目の前に重い皮膚病の人がいなくなったからです。しかし、村から追い出された重い皮膚病の人には、絶望的な事、命を奪われるような事です。何故なら人は独りでは生きられないからです。追放された人は、そういう人々の暮らすところで何とか生きていました。

イエスはそういう追いやられた人々、見えなくさせられた人々を追いかけるような歩みをしておられました。追いかけて、そして追いついて、絶望した人々に慰めを与え、希望を与えて行ったのです。一緒に食事をする、というのは、昔も今も仲良しのしるし、親しさのしるしです。孤独の中にあり、絶望の中にあった人々と食事をしたイエスの姿は「あなたは一人ではない」という思いを伝える出来事でもあります。

そこに一人の女性が入ってきます。彼女は持っていた石膏の壺を割り、その中に入っていた香油をイエスに注ぎます。その香油は人が亡くなった時に埋葬の前にその身体に塗るものでもありました。彼女は知っていました、イエスの歩みが時代の中で受け入れられないものであることを。人々は都合の悪いものを見えるところから追い出していまいました。シモンはその代表のようなものです。そして、逆に目に見えるもの栄えさせてくれる王(救い主)を求めていました。

王はその戴冠式において油を注がれる事になっていました。救い主とは「油注がれた者」という意味です。一人の女性は、「見える物」ではなく「見えなくされた者」を追いかけ希望を与えるイエスを救い主とし、その葬りの備えをしたのです。 (牧師:田中伊策)

「油注がれた者」 マルコによる福音書14章3-9節

 

「荒地に水、闇に光、切り株にひこばえ」 イザヤ6:1-13

創世記1章1節には「初めに神は天と地とを創造された」と書かれています。天地の始まりですから、聖書全部を通しても一番古い時代のお話です。けれども、この天地創造の物語がまとめられたのは、実は旧約聖書の中で一番新しい時代、と言われています。

新しいと言っても紀元前500年の中ごろですが。この時代は、イスラエルという国にとって闇の時代でした。バビロニアという国によって滅ぼされ、多くの人々が奴隷として連れて行かれました。

バビロニアに連れて行かれた人々は、奴隷生活の中で思うのです。「ああ、私達は神様から離れていた。私達の国はイスラエル、『神は戦われる』という意味じゃないか。それなのに、私達は神ではなく人間の力に頼っていた。神様の光から遠ざかり、自ら闇の中を進んでしまったのだ。」そのような悔い改めの中で「私たちは神様に帰ろう!」と思いまとめられたのが天地創造の物語です。

ここには、また神様の秩序によって生きよう、神様の光の中を歩もう、そういう思いが溢れています。神様の創られた世界、神様に与えられた命、そこに立ち返るために書かれたからです。初めに神は天と地とを創造された。「初めは神だ。神が基準だ」そういう宣言から始まり、神の言葉によってすべてのものが命を得て行きます。ここには6日間ですべての秩序が定められたと書かれています。その一日の終わりは同じ言い回しです。「夕となり朝となった。第○日である」。夕となり、朝となった。

私達は一日は陽が昇って一日が始まり、日が沈んで一日が終わる、というように考えますが、イスラエルは夕暮れを一日の始まりと考えます。「日が暮れて一日が終わるだが、それは同時に次の日の始まり」という考え方です。しかし、それだけでなく、この「夕となり朝となった。第○日である」には、バビロニアでの奴隷生活にある人々の思いがあります、「今は闇の時代だけれど、神様は必ず新しい朝を与えてくれる」という希望の言葉です。闇の時代にあって光を待ち望む、そういう信仰の言葉でもあります。 (牧師:田中伊策)

「荒地に水、闇に光、切り株にひこばえ」 イザヤ書6章1-13節

「どうして無花果は枯れたのか」マタイ21:18-22

イエスは朝、ベタニヤという村からエルサレムへ向かっていました。その道の途中で空腹になります。そこに無花果の木を見つけるのですが、そこには実がなかったので「今から後いつまでも、お前には実がならないように」と言われると、たちまち無花果は枯れてしまいます。一見、空腹で短気になったイエスが実のない無花果の木を呪ったので枯れた、と思えるような箇所ですが、大切なのは最初の「ベタニヤからエルサレムへ」という所にあります。エルサレムはイスラエルの首都です。そしてエルサレムから3キロほど離れたベタニヤという村は「貧しい者の家」という意味があります。大都市の近くには貧しい人が暮らす地区があるのが世の常です。追いやられた人々が暮らすベタニヤで夜を過ごされたからこそイエスは空腹だったのです。彼らの貧しさは、エルサレムへの富の集中、搾取、差別によるものです。内にばかり蓄え、分かち合おうとしないエルサレムの姿と目の前にある無花果が重なります。

「今から後いつまでも、お前には実がならないように」。このイエスの言葉によって、蓄え続ける先にあるものの姿が露わになります。それは滅びです。人だって、動物だって、植物だって、成長し続けることなんてあり得ません。そして町や国も同じです。だから、私達は他の人に、そして次の世代のために残す事、手渡す事を考えなくてはなりません。それが「実」です。ところが、その事に気づかずに自らのうちに蓄え続ける歩みの先には滅びが待っています。

「経済成長」と言い、まだ大きくなろうとする私達の国は分かち合おうとしないエルサレムそのものです。その流れは大きく強い。しかし、イエスは「信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる」と言われます。滅びに向かおうとする中であっても、私達は祈り続け、求め続けたいと思います。(牧師:田中伊策)

「どうして無花果は枯れたのか」 マタイによる福音書21章18-22節