月別アーカイブ: 2014年11月

「お友達になってください」 ガラテヤ4:13-14

伝道者パウロは多くの国でイエス・キリストを伝え、その働きを通して多くの教会が誕生しています。また、パウロはその教会に対して多くの手紙を書いています。その手紙は聖書に記されているほどです。非常に熱く力強く圧倒されるような迫力で人を引き付けるように福音を語っていった、そういうイメージがあります。

しかしパウロの印象について次のようにいう人々もいました、「手紙は重々しく力強いが、実際に会ってみると弱々しい人で話もつまらない」(第二コリント10:10)。多分、そのイメージは正しかったのだろうと思います。何故ならパウロには何らかの持病があったと言われているからです。聖書には「そちらに行ったとき、私は衰弱していて、恐れに取りつかれ、ひどく不安でした」(第一コリント2:3)、「わたしの身に一つのとげが与えられ(中略)離れ去らせて下さるように、私は三度主に願いました」(第二コリント12:7)、「わたしは、体が弱くなった」(ガラテヤ4:13)とあります。私達は身体が痛む時、心も弱くなるものです。そしてパウロもそうだったようです。

特にガラテヤの地方に行った時には非常に悪い状態だったようです。しかし、パウロはこう言います、「知ってのとおり、この前わたしは、体が弱くなったことがきっかけで、あなたがたに福音を告げ知らせました」。体が弱くなったことで福音(イエス・キリスト)を分かち合う事が出来たとはどういうことでしょう。

この時ガラテヤの人々はこの弱々しいパウロを受け入れ、労わったと書かれています。つまり、パウロは助けるはずが助けられ、救うはずが救われた。そして、もしかしたらパウロの旅はその繰り返しだったのではないでしょうか。それは言い換えると友を探す旅。自分の弱さを相手に晒し、悲しみの涙を見せ、助けを求める事の出来る交わりを作ろうとしたのではないでしょうか。

クリスマスの出来事はイエス・キリストの誕生の物語です。命の誕生は助け手を求め泣く事から始まります。助け助けられる友との出会いから福音は始まってゆくのです。 (牧師:田中伊策)

「お友達になってください」 ガラテヤの信徒への手紙4章13-14節

「私なんて、と思わない」 マルコ7:24-30

クリスマスはもう少し先ですが。

イエス様がお生まれになった事を東の国から来た占星術の学者が喜んだ、羊飼いたちが喜んだ、と聖書に書かれていますが、救い主と言っても赤ちゃんです。まだ何も起こっていない。星だとか天使だとか周りだとかが伝えたり示したりしているだけで、本人は赤ちゃんであり、何かすごい事をしたとか、尊いお言葉を下さった訳でないのに、なぜ嬉しかったのでしょうか。

それは約束が成就されたからです。辛い思いをした、悲しい経験のためにいまなお傷を抱えている、問題は山積みだ、出口も見えない。そんな中で、しかし神様からの約束の言葉が心にあった。「救い主が生まれる」きっと心のど真ん中じゃなくて、どこか端っこでぎりぎりでぶら下がっている程度のものだったと思います。ほとんど忘れかけていたようなもの。その約束の言葉を頼みにするには傷付きすぎていたから。でも、その約束が果たされた。

その約束はただ「生まれる」が「生まれた」になっただけです。無力な命がそこにあるだけです。でも、約束が守られた、神の言葉が行われた、その事実を目の当たりにした、それは大きな希望です。だから嬉しいのです。よかった、神様の言葉は本当だった。これからも約束に生きて良いんだ。神様に頼って良いんだ。信じて良いんだ。そう思ったのではないでしょうか。よし、約束に生きてみよう、約束に生きて行こう、そう思ったのではないでしょうか。

私たちは「生きる」というただそれだけで、既に先に向かっています。行き詰まろうと、悩もうと、落ち込もうと、生きているというただそれだけで、命は前を向いています。赤ん坊はその象徴です。その赤ん坊が約束に生きよ、と指示しています。「私なんて」と思わなくていい。 (牧師:田中伊策)

「私なんて、と思わない」 マルコによる福音書7章24-30節

「生きる力に応える」 ルカ6:21

命はいろんな形で誕生します。生まれて30分ほどで立ち上がる動物があるかと思うと、立ち上がるのさえ1年を要する動物もいます。30分で立ち上がるのは、いつ敵が襲ってくるか分からないからです。逃げなくてはならないからです。立ち上がるのさえ1年もかかるという動物は人間のことです。人間は未発達のまま生まれます。その未発達のまま生まれても成長し発達出来るのは、育ててくれる人の存在と環境があって初めて成り立ちます。しかし、人間の赤ちゃんは本当に何も出来ないか、というとそうではありません。何もできないからこそ発達した力があります。それは泣く力と笑う力です。

人間の赤ちゃんは生まれてすぐ大きな声で泣きます。お腹にいる時にはへその緒を通してお母さんから酸素も栄養ももらっていた赤ちゃんは、誕生と共に肺が開いて呼吸を始めます。大きな声で泣いて誕生するのは呼吸をしている証拠です。しかしそれだけでなく大きな声で「未発達な私を助けて!」って伝えているのです。他者に助けを求めるためのコミュニケーション手段に長けているのが人間の赤ちゃんの大きな力です。人間の赤ちゃんのもう一つの力、「笑う」という力はほぼ人間だけに備わったものだと言われています。欲求が満たされ、快い状態である時に赤ちゃんは笑います。それを見て周りは可愛いと思ったり、欲求が満たされたと分かったりします。そしていつの間にか、助ける人にも笑顔が生まれます。

笑う、泣く、それは子どもだけに与えられた物ではありません。大人になっても悲しい時や辛い時に泣きますし、嬉しい時には顔が綻び大声で笑います。それは恥ずかしい事ではなく、私達に与えられた力です。「悲しい時には泣いてご覧。きっとその涙、その泣き声に心動かされ、寄り添ってくれる人がいる。そしてやがて笑顔になる日が来る」。人の涙と叫びに最も心動かされたイエスはそう語るのです。 (牧師:田中伊策)

「生きる力に応える」 ルカによる福音書6章21節

「あなたに触れたのは誰か」 ルカ8:45-46

群衆が押し合いへし合いする中でイエス様は「わたしに触れたのは誰か?」と尋ねます。病気で苦しむ一人の女性がイエス様に触ったら治るんじゃないか、と触れたのです。そして、彼女はその病から解放されたのです。その時に、イエス「わたしに触れたのは誰か?」と言われたのです。群衆がいる中でしたが人々は「私ではない」と言い、お弟子さんは「こんなに人がいるのだから…」と言います。

朝、テレビをつけると昔でいう所のワイドショー的なものばかりやっています。「こんな事故がありました」「こんな事件がありました」ととても痛ましい事故、残虐な犯罪ばかり伝えます。「可哀そうに」とか「ひどい」とか「許せない」とか思いながら見ている人がたくさんいるのでしょう。しかしテレビは見る人にその感情を与えるだけで去ってゆきます。それで終わりです。そして見る側もチャンネルを変えるように、気持ちを変えます。「さあ、朝ご飯を食べよう」とか「行ってきます」とか、「洗濯物、干さなくっちゃ」とか。目の前での事は私とは関係のない事柄だからこそ見る事が出来る、そういうものだろうと思います。もし自分に降りかかるようなものだったら、とても見られない、そう思うのではないでしょうか。

この群衆もそうでしょう。自分とは関係ない、ただイエス様のするのを見に行こうって。本当は目の前にイエス様がいて、本当はもう触れているのに、「いや違うんです。私はあなたとは関係ない」そう言うんですね。それが「自分ではない」というのです。「こんなにたくさん人はいる、こんなにいろんなことが起こる、それにいちいち関わっていられないでしょ」それが「こんなに人がいるのだから…」という弟子の言葉です。

でもイエス様は受け止められるのです。彼女の病、そして痛みを受け止められるのです。自分の痛み、悲しみを知っている人がいる、そう知った時彼女は救われたのです。(牧師)

「あなたに触れたのは誰か」 ルカによる福音書8章45-46節

「全部受け止めるから降りておいで」 ルカ19:1-10

イエス様の言葉の中に「あなたがたのうちのだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。」(ルカ12:25)というものがあります。今は医療が進んでいますので「寿命」は延ばすことが出来るように思えます。

しかし、この「寿命」という言葉、ギリシア語ではヘリキアと言って「身の丈」「身長」「背」という意味でも使われています。私達はどう頑張っても身の丈は変わりません。背伸びをすれば少しくらい高くなりますが、フラフラしてしまい、長続きしません。寿命も同じなのかもしれません。延ばそうと努力している間にも時間は過ぎて行く。その命を延ばそうと努力している時、本当にあなたは生きているか?そういうことが問われているのかもしれません。

ザアカイは「背が低かった」(3節)。ここで使われている「背」もヘリキアです。それがコンプレックスだったのか、彼はお金儲けに精を出します。税金を取る仕事をしていましたが、多く取り上げて懐に入れていたようです。そうやって一生懸命に背伸びをしたのです。

さて、彼の町、エリコにイエス様が来たという声を聞いたザアカイはどうしてもその姿を見たくなり、駆けつけます。もしかしたら背伸びした暮らしに疲れていたのかもしれません。しかし、イエス様の周りには人だかり。背の低いザアカイには見えません。そこで彼は先回りして木に登ります。するとイエス様はその木の下に来て、「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、あなたの家に泊まりたい」と言われました。

ザアカイには、その言葉が、木登りからではなく、背伸びした人生から降りておいで、と聞こえたのではないでしょうか。そうでなくても木登りは究極の背伸びです。「背伸びしないと心配かもしれないけど、私が全部受け止めるから降りておいで。あなたの身の丈で生きなさい。私はあなたと共にいるから。」イエス様は私達にもそう語りかけておられます。 (牧師)

「全部受け止めるから降りておいで」 ルカによる福音書19章1-10節