月別アーカイブ: 2014年12月

「聖なる幼子の日」 マタイ2:17-18

新生讃美歌にも、教団54年版も、讃美歌21にもないのですが、聖公会の讃美歌集には“COVENTRY CAROL”という英語の題のついた讃美歌が入っています。元々イギリスのコヴェントリーという町で15世紀に演じられた劇(題名は“Coventry Pageant of the Shearman and Tailors”)の中で歌われたもので、ヘロデ王の軍隊がベツレヘムにやって来て赤子の大虐殺を行うシーンの直前に、ベツレヘムの女性達がこのCAROLを歌う、というものです。

聖公会の聖歌集の中にはヘロデによる幼児虐殺に関わる賛美歌4曲もあります。それは多分、カトリック教会がこの幼子たちをイエスのための命を落とした最初の殉教者、聖人とみなし、12月28日を「聖なる幼子の日」としているため、カトリックの流れを汲む聖公会も同じようにしているからだと思います。

カトリックや聖公会にはある「聖なる幼子の日」はプロテスタントでは特に定められておりません。人間というものは規定がないと楽な方へ流れます。特にこの聖書の箇所はとても重い聖書の箇所、悲しみに満ちた聖書の箇所です。それもイエスの誕生によって起こった出来事です。「もし、この出来事を語らないので良いならば語りたくない」、「なるべくなら避けたい」箇所だと思います。そしてプロテスタントの教会はそのようにしてきたのではないかと思います。何故なら、プロテスタントの讃美歌の中にはこの箇所に関する曲がほとんどないからです。

教会であまり取り上げたくないからこの讃美歌が歌われない。そして歌われないから讃美歌集に収められないのです。可哀想なことに幼子達はヘロデによって殺され、さらにプロテスタント教会によって無視されているのです。しかし、語られなくなる事こそが同じ悲しみの道を進んでしまう大きな理由でもあります。歴史は伝える事、受け継がれる事で再び命の光を宿し、今を生きる私達の道を照らします。 (牧師:田中伊策)

「聖なる幼子の日」 マタイによる福音書2章17-18節

「光の誕生」 マタイ2:1-12

クリスマスの物語にはイエス様を真ん中にマリアとヨセフ、羊飼い、博士(占星術の学者)たちが囲むようにいるイメージがあります。しかし、羊飼いと博士たちが顔を合わせる場面は聖書にはありません。博士達はマタイによる福音書、羊飼い達はルカによる福音書に記されているからです。

それでも、この羊飼いも博士たちも同じように暗闇の中で救い主の知らせを聞きます。羊飼いたちは野宿をしていてそこの天使が現れますし、博士達は星が知らせてくれました。 野宿をするのは羊の世話をする者にとっては当たり前の事だったかもしれません。ただ、この時期は人口調査でみんなが故郷に帰っている時でした。彼らはみんなには入れてもらえませんでした。暗い気持ちの夜。

博士達は東の国から来ました。直線距離で500キロ以上も離れた場所からやってきた彼らは救い主が見たかった。かつては栄えた帝国は戦いに敗れ、争いに疲れていました。闇の時代。

そこに光が現れたのです。

興味本位ではなくすがるような思いでこの救い主の誕生を確かめに行ったのでしょう。 ヨセフとマリアも同じです。二人は結婚前にイエス・キリストの誕生の知らせを聞きます。それはあって欲しくない出来事でした。夢見た結婚生活とは程遠いものであり、もしかしたら姦淫の罪の烙印を押されるようなそんな知らせです。奈落の底に突き落とされたような思い。

それでも二人は確かに宿ったこの新しい命を受け入れます。 様々な闇の中、イエスは誕生します。人々の悲しみや悩み、罪や思い煩い、その闇のど真ん中に光が誕生したのです。 (牧師:田中伊策)

「光の誕生」 マタイによる福音書2章1-12節

「人の歴史を貫く神」 マタイ1:6

今日の聖書の箇所6節には後半「ダビデはウリヤの妻によってソロモンをもうけ」とあります。この系図にはほとんど男性しか出てこないのですが、4人のだけ女性が出て参ります。その一人が「ウリヤの妻」という人物が出て参ります。彼女の名前はバテシバというのですが、バテシバとして系図に載るのではなく、「ウリヤの妻」と記してあるのには大きな意味があります。このエピソードはサムエル記下に記されている物語です。

王様となったダビデはある日、昼寝をします。昼寝から覚めて屋上から見下ろしますと、一人の女性が水浴びをしておりました。ダビデはその女性に一目ぼれをしてしまい、部下にその女性が誰かを探らせます。そうするとイスラエルの兵士でヘト人という外国人のウリヤという人物の妻でありました。夫のウリヤはその時、戦争に出ておりました。それでダビデ王はこの一兵士の妻バテシバを王宮に呼び寄せ、そして彼女を辱めます。バテシバはとても悲しみ傷ついたことでしょう。

しかし、それで事は終わりません。しばらくしてバテシバから「子を宿した」という知らせがダビデのところに届きます。そこでダビデは兵士のウリヤを戦場から送り返すように命令します。身ごもった子をウリヤの子との間に出来た子にしようとしたのです。命令に従ってウリヤは帰って来るのですが、戦場と他の兵士たちが気になって自宅に帰りません。それでダビデは逆にウリヤを戦いの一番激しい場所に送るように命令します。

そして、そこでウリヤは戦死をしてしまうのです。妻のバテシバは夫の戦死の知らせに悲しみ嘆きます。そして喪が明けると、ダビデはバテシバを妻として迎え、そして子どもは生まれます。その子は残念な事に産まれて間もなくして亡くなってしまいます。そして、その後バテシバが生んだ子どもがソロモンでした。それが「ダビデはウリヤの妻によってソロモンをもうけ」という言葉の意味です。

隠したいような国の歴史を記し、英雄の名を汚すような出来事を系図に表す聖書。それは自虐的というべきものではなく、それでも人の罪や悲しみに伴い、それでも人の歴史を貫いて神は共にあることを示し、その中に与えられたイエスを喜ぶためにあります。(牧師:田中伊策)

「人の歴史を貫く神」 マタイによる福音書1章6節

「新しい言葉を求めて」 創世記11:1-9

創世記11章にある「バベルの塔」の物語は、神の地位に登り詰めようとしている人間に対して神様が言語をバラバラにして人々を世界に散らすという方法で裁いたという内容です。

この物語の最初に「世界中は同じ言葉を使って、同じように話していた」とあります。人はそんな世界にあこがれます。世界中が同じ言葉だったら誰とでも話せますから、どこにでも行けるような、そんな気がするからです。でも、それが錯覚であると聖書を読む中で思います。日本語に訳された聖書を読んでも、よくわからない事が多いからです。

歴史的な背景や人々も暮らしが分かって、やっと意味が分かる事も多いのです。イエス様は多くの譬え話をされました。「譬え話」はイエス様の周りにいる人々の生活の中にある出来事に置き換えて分かりやすく話されていますが、私たちの生活や常識とは違うので、読んだだけではその意味はなかなか分かりません。大切なのは、「同じ言葉を使う」事ではなく、対話しようとする相手を知ろうとする努力です。それがなければ言葉が同じであっても伝わらないのです。

「世界中は同じ言葉を使って、同じように話していた」、これは相手の思いではなく、自分の主張を押し付ける支配・被支配の物語です。支配者が他の人間を歯車のように使うために言葉を使っていたのです。その中で神は人が人として生きるように解放されているのです。

しかし、そこから私達の苦労が始まります。違う言葉(違う考え方)の人と、苦労しながら一緒に生きて行くのです。お互いと苦労して出会いながら、新しい言葉を探してゆくのです。ヨハネによる福音書では冒頭、「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」(1:14)とあります。神は人となられて、私たちと対話されようとしています。神と人との隔たりを神様が越えて下さって苦労して一緒に生きようとされているのです。私達が使う言葉には、人と人の思い、神と人の思いが重なり合っているかなぁ。 (牧師:田中伊策)

「新しい言葉を求めて」 創世記11章1-9節