月別アーカイブ: 2015年1月

「弱い所を大事に」 ヨハネ13:3-8

ヨハネによる福音書を読む人からよく「ヨハネによる福音書は難しい!」という言葉を聞きます。この「むずかしい」というのは、イエス様のお話される言葉も難しく書いてあるのですが、それだけではありません。イエス様がどんな気持ちなのか、分かりにくいのです。ここでイエス様が怒っているのか、悲しんでいるのか、笑っているのか、よく分からないのです。

何考えているんだろう?って思うのです。だからヨハネによる福音書は難しいのです。そしてヨハネさんはわざとイエス様がわからないようにしているのです。神様が「こうお話しなさい」と言われた言葉をそのまま語り、神様が「しなさい」と教えられたことをする、イエス様を見たら神様が見えてくる、そのためにわざとそう書いているのです。

笑いながら話してくれたら楽しいんだ、って分かる。泣きながら話してくれたら悲しいんだ、って分かる。真っ赤な顔をして話してくれたら怒っているんだ、って分かる。でもヨハネの福音書のイエス様は顔が見えないのです。だから難しい。

でも、それは「この時、イエス様はどんな顔をしていたか考えてご覧。想像してご覧」と言っているようにも聞こえます。テレビやマンガ、絵本もそうですが、絵があると表情や気持ちが分かりやすい。でも文字だけの本とか、読み聞かせとかには自分の頭で想像する楽しみもあります。ワクワクします。「聖書ももっとワクワクして読んで御覧」。そうヨハネによる福音書は伝えようとしているように思うのです。そうしたら、無機質に思えるヨハネによる福音書のイエス様がイキイキして、私達に語りかけて来るように思います。 (牧師:田中伊策)

「弱い所を大事に」 ヨハネによる福音書13章3-8節

「恐れからの解放」 マルコ1:2-11

幼稚園の保護者に対してこんなことを言う時があります。子どもが間違った時に「もう知りません」とか「もう買ってあげませんからね」みたいな言い方をしないようにしましょう、って。「もう知りません」と言われたら子どもは「私を見放してくれちゃ困る」と思って、怒られるような事はしないようになるでしょう。「もう買ってあげません」と言われたら買って欲しいから良い子になるでしょう。でも、それじゃあ本質は伝わらないのです。どうして悪いのか、それをしたらどうなるのか、そんなことは子どもには関係ないのです。でも、私達が伝えなくてはならないのはその部分です。お母さんに怒られないようにする事ではなく、なぜいけないのか、どうしたら良いのか、ということです。

バプテスマのヨハネの言った事、「斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる」(マタイ3:10)それはお母さんが子どもに対して「もう知りませんからね」というようなものです。「怖いからごめんなさいって言おう」って。そんな思いでヨハネからバプテスマ(洗礼)を受ける人が続出します。

それに対してイエス様がバプテスマを受けられた時、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と声があったと書かれています。この言葉は別の訳では「汝はわが愛する子、われ汝を愛する」そしてギリシア語から直訳すると「あなたは私の愛される子である。あなたで私は喜びを得た」と書かれていました。

光の園で年に4回誕生会を行うのですが、その時に毎回お母さんやお父さんにそれぞれ、短くお話ししてもらうように主任が企画します。お子さんが生まれた時の話をしてもらう時があるのですが、その時にお母さんたちが思い出して涙を流されることが結構あります。その涙は「生まれて来てくれてありがとう」という涙です。「あなたで私は喜びを得た」これです。

今日の聖書の言葉「私の心に適う者」というと私の思うように、願うように歩む者、というように聞こえますが、これは存在そのものを喜ぶ言葉です。「あなたは私の愛する子、あなたの存在が嬉しいんだ」って。これがイエス様のバプテスマであり、私達のバプテスマです。私達は「あなたのことなんて知りません」と言われることが怖いから「よい子になります。バプテスマを受けます」というのではなくて、まるでお母さんが「生まれて来てくれてありがとう」と涙を流すように、神様が「あなたは私の愛する子。あなたによって私は喜びを得た」と私に語ってくれることが嬉しくて、この方と共にある歩みをしてゆこう、とバプテスマを受け、従うのです。 (牧師:田中伊策)

「恐れからの解放」 マルコによる福音書1章2-11節

「幼子を越えて」 コリントⅠ 13:8-13

聖書で「幼子」というとイエス様の「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである(マルコ10:14)」の言葉を思い起こします。ですから「幼子」=「良い存在」というイメージを持ちます。そこから「幼子だったとき、わたしは幼子のように話し、幼子のように思い、幼子のように考えていた。成人した今、幼子のことを捨てた(11節)」の言葉も「大人になった私は、いつの間にか子どもの頃の純粋さを失ってしまったよ」というように理解しがちです。

けれども、この「幼子」という言葉とイエス様が使われた「子供」という言葉とは全く違う意味です。イエス様が語られた「子供」という言葉は「パイディオン」という言葉で、親から守られるべき存在、愛を受ける権利を持つ存在としての子どもです。それに対して「幼子」という言葉は「ネーピオス」という言葉が使われています。このネーピオスという言葉は「ネー」(否定)という言葉と「エポス」(言葉)という言葉の合成語と言われています。「未だ言葉を持たない存在」という意味です。それは「話せない」とか「語彙が少ない」というよりもむしろ「経験や体験の少ない」という意味だと思います。何故なら言葉は経験を通して生きたものとなるからです。

私達は生きる中で様々な経験をします。喜びも悲しみも、成功も失敗も経験し、体験や経験から言葉の意味を理解する者(大人・成人)となるのです。そして言葉を知った者はもう知らなかった時には戻れません。それでも希望を持ち続けるのが幼子を越えた信仰です。「鏡におぼろに映ったものを見る(12節)」(昔の鏡はぼんやりとしか映らなかった)、それは光の見えない現実、先の見えない未来です。しかしそれでもなお「顔と顔とを合わせて見る」日を待ち望むのです。

きっと大人に一番必要な言葉(エポス)は「現実の厳しさ」ではなく「目に見えるものが全てではない」です。信仰も希望も愛も目に見えないのですから。幼子を越えて、それでもなお子供のように神の国を受け入れる者でありたいと思います。(牧師:田中伊策)

「幼子を越えて」 コリントの信徒への手紙Ⅰ 13章8-13節

 

「この方を始まりとする」 マルコ1:1

マルコによる福音書は最初に「神の子イエス・キリストの福音の初め」という言葉を記します。新約聖書が書かれたギリシア語の聖書では「初め」(アルケー)という言葉から始まっています。これは旧約聖書の創世記の始まりの言葉「初めに神は天と地とを創造された」と同じです(旧約聖書は元々ヘブライ語で書かれているので「初め」という言葉は「アルケー」ではなく「ベレシート」という言葉ですが…)。

「神が天地を創造された」それは、この頼りない不安定な世にあって、神が基となられ私達の歩みを愛を持って定められた、という事です。マルコによる福音書はこの創世記を意識して「初め」という言葉を冒頭にしているように思います。「私達の基はイエス・キリストであり、私達はここから始まりここに帰ってくる」というマルコ福音書の信仰告白でもあります。

さらにここには「神の子」という言葉も出てきます。「神の子」という言葉はマルコによる福音書では殆ど出てこない言葉です。その数少ない「神の子」という言葉の中で、最も印象的な箇所として、イエスの十字架の場面があります。イエスを十字架につけたローマの百人隊長がイエスの死を目の当たりにして「本当に、この人は神の子だった」(15:39)と告白しているのです。マルコにとって「神の子」とは神々しい、奇跡的なものではなく、私達の罪の故に十字架の上で苦しまれた方である、とも告白しているのです。

「神の子イエス・キリストの福音の初め」。この短い言葉の中に、凝縮された信仰告白が込められています。それは同時にイエス・キリストの中に凝縮された神の愛が詰まっているとも言えるのではないでしょうか。 (牧師:田中伊策)

「この方を始まりとする」 マルコによる福音書1章1節