月別アーカイブ: 2015年4月

「たいせつなあなた」 マタイ18:12-14

皆さんも「寂しいなあ」と思う時や「悲しいなあ」と思う時があるかもしれません。「どうしたら良いのか分からない」「どっちに行ったら良いのか分からない」そんな事が起こるかもしれません。

でも、その時に、私たちは本当に大切な人と出会う事が出来ます。出会う、というのは今まで見た事もあった事もない人と「初めまして」って会う事ではありません。今までも一緒だったけれど、この人はこんなに大切な人だったと教えてもらう事です。みんなが迷子になった時、お父さんやお母さんは探しに来てくれるでしょう。先生も探しに来てくれるでしょう。みんなが悲しい時、お友達が「どうしたの?大丈夫?」って側に来てくれるでしょう。そんな時にお父さんやお母さん、そして友達や先生を「大切な人だ」って思う、それが出会うということです。

昔、外国からイエス様の事を伝えるために来た人が、聖書の言葉を日本語にしようとして「神様の愛」という言葉を「神様のご大切」と訳したそうです。「愛」というのは「大切」という意味です。みんなの周りには「大切な人」がたくさんいます。それはみなさんが「愛」で囲まれている、ということです。皆さんは愛されています。 この一匹の羊の話は、イエス様がされたお話です。イエス様はね、あなたは「大切な人だ」って教えてくれています。たくさんの愛に囲まれている、って教えてくれています。それでも、悲しんでいる人や寂しい思いをしている人がいたら、その人のところに行って「私は一緒だよ」と言って下さいました。『「僕はひとりぼっちだ」とあなたはと思っているかもしれないけれど、「僕なんて誰も必要としていない」とあなたは言うけれど、でも私は「あなたが大切だ」、そして神様は「あなたを愛している」』そう言われます。(牧師:田中伊策)

「たいせつなあなた」 マタイによる福音書18章12-14節

「共に夜明けを迎える」 マルコ1:32-34

イスラエルでは「安息日」をとても大切にします。それは旧約聖書に「安息日に心を留め、これを聖別せよ。(中略)いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。」(出エジプト記20章8-10節)。ここに出て来るのは「あなた」以外、立場の弱い存在(息子、娘、奴隷、寄留者)が記されています。これは「あなた」よりも立場の弱い人々のための律法だと思われます。上の立場の人が休まないと、仕える人は休めない。「あなたが休めば安心して立場の低い人も休める。だから仕える人を休ませてあげるために、あなたも休め」というのがこの戒めが言わんとする中心です。

ところが人々はそれを「休まなければならない」と考え、そしてそれを強いるのです。それで、休まないと「律法違反だ!」と指摘するのです。そんなんじゃ、ゆっくり休めません。緊張した休日は休日じゃない。

イエスはこの安息日に病の中にある人を癒します。同時に「律法違反だ!」と指摘されるのを恐れる人々も癒します。安息日が終わる夕暮れにやって来た人々を癒されると共に「悪霊にものを言うことをお許しにならなかった」(マルコ1:34)とあります。「悪霊」とは人の中に住まう弱さ、悲しみ、恐れ、そして罪の思いです。イエスは「何も言わなくていいよ。言い訳しないでいいよ。分かっているから。この夕闇の先に朝がある。一緒に希望をもって歩み出す朝を迎えよう。」と言われるのです。(牧師:田中伊策)

「共に夜明けを迎える」 マルコによる福音書1章32-34節

「人生の主」 マルコ1:29-31

中学、高校生の時、学生カバンを細くするのが流行っていました。ほんの2、3センチの厚さの学生カバンに作り替えるのです(面倒くさがりな私の学生カバンはアコーディオンのような厚いままでした)。当然、薄いカバンに教科書は一冊も入りません。それでは教科書はどこに、というと机の中です。ですから、カバンを細くした人は、決して教科書を忘れることはないのです。でも逆に言うと、教科書は学校にしかありません。

私たちは礼拝を守るとき、心を傾け、思いを尽くして礼拝を捧げます。しかし、日毎の生活や仕事や勉強は忙しい。そんな追い立てられるような日々の中で、礼拝の事、信仰の事がいつの間にか二の次、三の次になってくる。そして日曜日になって慌ててイエス様が私たちの主であることを思い出す。それはまるで、教科書を机の中に置いて来た学生のようです。彼らの教科書が学校にしかないように、私たちの信仰も教会だけ。私達は生活に、日常に、社会に染まりやすいのです。

そのような私達のためにも礼拝をする日曜日は毎週訪れるのですが、この自分に甘んじるのではなく、むしろ生活の中でもイエス様を主とする、信仰を生きる指針としてゆくために礼拝するということを私達はもう一度、いえ、何度でも思い返す必要があります。私達の心を、学生カバンのようにぺちゃんこにすることなく、イエス様を迎え豊かにして日々を歩んで行く、そうなることが望まれています。私達にとってイエス様は教会の主であると共に人生の主です。 (牧師:田中伊策)

「人生の主」マルコによる福音書1章29-31節

「恐れながらも大いに喜び」 マタイ28:1-10

安息日が終わって、女性たちはイエスが葬られた墓に行きます。十字架のイエスを見た女性たちは弱さを抱え、無力さを抱え、悲しみを抱えながらもやって来たのです。しかし、彼女たちは、岩が開かれ、天使の言葉を聞きます。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。」「ねえ、あなたがたはイエスの死に自分の弱さと絶望と悲しみを重ねようとして来たのかもしれない。でもさぁ、イエスの死は絶望だったのかなぁ。イエスの歩みは無駄だったのかなぁ。それはあなたがたがイエスの死を意味のないものにしているだけじゃないかなぁ。そんなものを探しに来てもここにはそんなイエスはいないよ。ここには絶望なんてないよ。」と天使はいうのです。「イエスはあなたの弱さと共にあったじゃないか。イエスは弟子たちの罪を抱えて行かれたじゃないか。イエスはあなたがたの希望となったじゃないか。それを絶望に変えているのはあなたじゃないか。しかし、私はこの岩を取り除き、あなたがたに希望を与える。ここから歩み出しなさい。そこであなたがたは復活のイエスと会えるだろう。そしてその希望を分かち合うんだ」と御言葉は語るのです。

私達にとって復活とは何なのでしょうか。復活とは私達にとってどんな意味があるのでしょうか。それは死んで、もう一度生き返るということでしょうか。もしそうだとしても私達はきっと同じように弱さを抱え、罪を犯し、悲しむ人間でしかあり得ません。別人に生まれ変わる事を復活とは言いません。大切なのは今、この人生の中で抱える悲しみや弱さや罪から解放されるということなのです。私達の人生の中、私達の歩みの前にあるいろんな岩、悲しみの岩、罪の岩、プライドの岩、不信仰の岩を自分の力ではなく、主の力によって開いてもらうことなのです。 (牧師:田中伊策)

「恐れながらも大いに喜び」 マタイによる福音書28章1-10節