月別アーカイブ: 2015年5月

「足跡を見ながら」 ガラテヤ5:22-23

「これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。キリスト・イエスのものとなった人達は、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです」。(ガラテヤ5:22-23)

「一緒」という事を嬉しく思える、そんな時は神様が私達の心に教えて下さっている時です。その声は聞こえないけれど、神様が心に語りかけてくれる。その聞こえない声が聖霊です。それはまるで風のようです。風は目に見えません。でも、風が吹いていたら誰に言われなくても分かります。

頬に風が当たる時、木が揺れている時、「あっ、風が吹いている」って分かるはずです。同じように、神様は見えないけれど、私達が「イエス様は私達の真ん中に一緒におられる」「神様は私達を愛して下さっている」、そう思える時、感じる時、神様が私達の心に話してくれているのです。見えないけれど心に風が当たるように、神様が教えてくれているのです。そんな時に、私達は嬉しい気持ちになり、一緒である事や仲よくする事を大切にしようと努め、誠実であろうとします。それが「霊の結ぶ実」です。

私達の毎日を時々、振り返って見ましょう。一人一人、そして教会がこれまで歩んできた足跡には何があったでしょう。そこに「愛」とか「喜び」とか「親切」とか「誠実」を見つける事が出来たなら、私達が神様につながって来た証拠です。そうではなく、「よくばり」や「自分勝手」や「羨ましい気持ち」や「仲間外れ」や「争い」があったのなら、私達は神様から遠ざかり、神様を悲しませて来たのだと思います。そして、こんな私達の心を許して下さるためにイエス様は十字架にかかって下さった事を思い出しましょう。

そして、今日からは、またしっかりつながって歩んで行きたいと思います。一人ではなく一緒に。そして毎日、足跡を振り返りながら進みましょう。そこに「霊の結ぶ実」を見つけながら歩むことが出来るように歩みたいと思います。 (牧師:田中伊策)

「足跡を見ながら」 ガラテヤの信徒への5章22-23節

「いろいろありますが」コリントⅠ 12:4-11

いきなりですが聖書で言う(聖)霊って何でしょう?

この事を考える時に、霊だけを独立して考えるのではなく、三位一体、つまり三つ(父、子、聖霊)は一つだというところから考えるべきなのだろうと思います。 コロサイの信徒への手紙1章にこんな言葉があります。「御子は、見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方です」(15節)。「見えない神の姿」、神様は見えない、見えないと私達は不安になります。神様って本当にいるの?神様なんていないんじゃないか?「神も仏もあるものか」そう思うのは絶望する時です。

その絶望の中イエス・キリストは来られ、「神様はあなたを愛しているよ。共におられるよ。ほら、私も一緒だよ」そう語られました。それが「御子は、見えない神の姿」です。神様という存在を、イエス様はその姿であらわして下さったのです。 では、霊って何でしょう。聖書の中では「霊を受けなさい」という言葉が繰り返し使われます。ヨハネによる福音書20章22節でイエス様は「彼らに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい』」。

つまりイエス様は息を感じなさい、って言われるんです。風は見えないけれど、頬に冷たい、若しくは生暖かいものが当たったら風が吹いているって分かる。また木が揺れたら風が吹いているって分かる。その吹いている風をその動きから風を感じなさいというのです。それが「聖霊を受けなさい」ということです。

それを神様とどういう関係があるか、それは様々な出来事の中に神様の働きを感じなさいということです。イエス様は「空の鳥を見なさい。野の花を見なさい」と言われました。それは鳥を、そして花を見る中で、そこに働かれる神様を感じなさい、ということです。 神は見えない。その見えない神様を、姿をもって示してくださったのがイエス・キリスト。そして聖霊というのは見えない神様の働きであり、足跡であり、しるしです。互いに補い合いながら神はその愛を私達に示そうとしているのです。 (牧師:田中伊策)

「いろいろありますが」コリントの信徒への手紙一12章4-11節

「キリストがあなたがたの内に形づくられるまで」 ガラテヤ4:19-20

「わたしの子供たち」という言葉から、パウロが自分の子供を愛する母親か、父親のようにガラテヤの教会の人たちを大切に思っている気持ちが現れています。むしろこれは母親でしょうね。「もう一度あなたがたを産もうと苦しんでいます」とありますから。

ある夫婦にお会いしました。その夫婦は今、赤ちゃんが授かろうとしています。女性のお腹には双子の赤ちゃんがいます。その赤ちゃんの超音波の写真を見せて頂き、「ここが目で、ここが鼻」と教えて頂きました。一人の赤ん坊は指をしゃぶっていました。女性は事あるごとにお腹をさすっていました。しっかり形作られるようにしっかり育つように、優しく優しくさすっていました。パウロもそんな気持ちだったのでしょう。教会の場合、形作られてゆくのはキリストです。私達の主キリストが形作られてゆくのが教会です。人間の正しさで救われるのならキリストは必要ありません。にもかかわらず、その正しさを答えとする時、教会はその度にキリストを傷つけ、その度に十字架につけることになるのです。パウロはその苦しみを産みの苦しみに重ねています。「もう一度あなたがたを産もうと苦しんでいます」。そして、「できることなら、わたしは今あなたがたのもとに居合わせ、語調を変えて話したい」とパウロは語ります。「語調を変えて」というのは母親が子どもを優しく諭してゆくように愛を持って、ということでしょう。「そうしたい。でも、今は違う場所にいる。それが辛い」というのです。そして、この苦しみは、キリストの苦しみです。

私達は人です。だからどうしたって正しくはあり得ません。まずはそれを認めそこに立つことです。その時に私達の真ん中にキリストの十字架が立ち、教会は教会となるのです。そこから教会はキリストの苦しみを、私達の苦しみとしてゆく事が求められています。そして教会の真ん中におられるキリストがどう語っておられるか、どのように指し示しておられるか、その事をキリストの身体として表す努力をしてゆく必要があります。それはある意味、途方に暮れるような作業かもしれません。しかし、その途上で教会は成長しています。(牧師:田中伊策)

「キリストがあなたがたの内に形づくられるまで」 ガラテヤの信徒への手紙4章19-20節

「卑屈でも尊大でもなく」 マルコ1:40-45

重い皮膚病の人がイエスの元に来て言います、「ねえ、イエス様。私は聖書の律法に裁かれて汚れた者にされちゃったんですけど、これって何なんですかね?神様が私に『お前はダメ!』って言っておられるんでしょうか?神様の思いってどこにあるんでしょう。神様の思いが私にはもう分からなくなっちゃいましたよ。私は生きていて良いんですか。生きていて良いのなら、清められるはずですよね。もし神様の思いが私を生かす事ならば、私は清められるはずじゃないですか。」。彼がそう言うのは、律法の中に「重い皮膚病にかかっている患者は、衣服を裂き、髪をほどき、口ひげを覆い、「わたしは汚れた者です。汚れた者です」と呼ばわらねばならない。この症状があるかぎり、その人は汚れている。その人は独りで宿営の外に住まねばならない。」(レビ13:45-46)という言葉があるからです。個人を犠牲にしても集団を守るという強い民族主義が、聖書の言葉さえ歪めてしまったのかもしれません。何だか民族主義と国家主義によって憲法を変えようとしているどこかの国のようです。

それに対してイエスは「深く憐れんで」とあります。憐れむというのは「怒り」とも訳せる言葉です。イエスは怒ったのです。彼を絶望させる社会に対して、そして、その中で卑屈になった彼に対して。そしてイエスは言います、「よろしい。清くなれ」。憐れんだ、とそのまま訳すとこんな穏やかな表現になりますが、これが怒ったのならちょっと変な表現です。文語訳では「わが意(こころ)なり、潔(きよ)くなれ」と書かれています。「律法がどうであろうと、私はお前が大事だ。愛は律法を越えるんだ。お前は駄目じゃない。しっかりしろ!」その言葉によって彼は清くなった、と書かれています。イエスは言います、「祭司の所に行って何も言わずに自分の姿を見せ、その清さを証明してもらいなさい。」。しかし彼は、今度は尊大になり人々に「私はこんなことをしてもらった」って言いふらします。愛というのはなかなか伝わらない。それで今度はイエスは町の中に入る事が出来なくなってしまいます。追い出されていた彼の身代わりにイエスが町から出されたのです。社会の罪、彼の罪を背負ってイエスは歩まれるのです。 (牧師:田中伊策)
「卑屈でも尊大でもなく」 マルコによる福音書1章40-45節

「広がりを考える」 マルコ1:35-40

自分でも気付かなかった思いに気づかされることがある。日常に埋没して、忙しさに忙殺されて、心を奪われる毎日。家族に仕え、隣人に仕え、そんな中で心傷付いている自分、疲れ果てていることすら気づかない。愛そうとして行っていた行為が、いつの間にか義務になり、仕事になり、歯車になり、そしてそんな気持ちで行っている事すら気づかない。麻痺している。「お疲れ様」と誰かに言われて初めて、「そうだ、私は疲れている」って気づかされる。「疲れたなぁ、きついなぁ」そう思ったら涙がぽろぽろこぼれてくる。

自分の顔は鏡に向かわないと見ない。でも、もしかしたら鏡を見ても分からないかもしれない。何故なら鏡の前に立つ時、表情を作っているから。だから「自分の事は自分が一番分かっている」というのはきっと違う。むしろ周りの人の方が自分を分かっている。余裕のない自分、疲れ果てている自分を周りの人は見ている。自分の本当の鏡は他者なのだと思う。自分ですら気づかない、そんな気持ちを他の人の方が分かっている。

それでも、他の人だって表情は分かっても、その表情の意味は分からない。硬い表情は読み取れても、「何かあったんだな」とは思っても、その表情の中身に何があるかは分からない。しかし私達はその中身さえ知って下さっている方を信じている。その方の前に出る。それが礼拝するという事。礼拝には二つある。一緒に礼拝する礼拝と、一人でする礼拝。感謝する、それは自分でも分かっている感情。「ごめんなさい」って言う、それは自分が知っている罪の意識。そんな思いを持ち寄って、神様を真ん中にしてこの世で赦し赦され、愛され愛しながら一緒に生きるその最初に実践の場がこの礼拝。でも、それだけでは十分でない。自分さえ気づかない、分からない心の奥底の気持ちを既に知って下さり、それをまるごと受け止めて下さる方の存在にホッとするのは、むしろもう一つの礼拝、一人で神様と対話する礼拝かもしれない。この両方の礼拝があって、私達の信仰は成り立っている。(牧師:田中伊策)

「広がりを考える」 マルコによる福音書1章35-40節