月別アーカイブ: 2015年7月

「聖域の無い信仰」 マルコ2:13-17

税金は国や県や市などの地方自治体が、そこで暮らす個人や地域全体の役に立つ働きをするためにそこに住む人たちから徴収するものです。つまり、税金とは回り回って自分たちの利益になるものです。ところが、イエス様の時代のイスラエルでは、税金と称しながら、一切イスラエルの人々のためにならないものがありました。当時、イスラエルを支配していたローマに行ってしまう税金が多くあったのです。ローマの人はイスラエルの人の怒りがこちらに向かわないように、と税金を徴収する人たちをイスラエル人の中から選びました。ローマの思惑通りイスラエルの人たちは徴税人を嫌い「ローマの手先め!」「裏切り者!」「お前たちのせいで俺たちは貧しいんだ」と罵られていました。「収税所」に座っていたレビもそうでした。いつも、人々が捨てるように入れ、ぶつけるように渡されるお金を悲しい気持ちで集めていました。

最近、多くの人々が彼の前を通ります。何でも「イエス様の話を聞きに来た」とかで。すぐ近くの湖の畔でその人は群衆に慰めの言葉を語りかけていたのです。そして、帰る時はみんな良い顔をして帰って行きます。レビも悲しい気持ちを抱えていましたから、その元気な顔に羨ましさと隔たりを感じながらおりました。「自分は行っちゃいけないんだ。自分には行く資格はないんだ」そう思っていたからです。

ところがある日、いつものように人が通り過ぎる中で一人の男性がレビの前で立ち止まりました。それがイエスでした。彼は言います、「わたしに従ってきなさい」。レビはすぐに立ち上がり、イエスと共に湖畔へ向かいます。民衆からも白い目で見られていたレビも、今日はイエスの導きの中で人々と共に慰めの言葉を聞きます。イエスが民衆と徴税人をつなぎます。ぶつけようのない怒りを徴税人個人に向け刃を立てる民衆の罪も、それでも徴税人として生きなければならないレビの悲しみも抱えて慰めを語ります。民衆の貧しさと虐げの悲しみの底に横たわる罪も、徴税人の仕事の裏側に忍ばせた悲しみもイエスは知っています。 (牧師:田中伊策)

「聖域の無い信仰」 マルコによる福音書2章13-17節

「希望と平和の源流」 ローマ15:33

ローマの信徒への手紙は、いろいろな国でイエス・キリストを伝えていたパウロが、まだ行ったことのないローマの教会に対してあいさつと自己紹介をする、というような内容です。自己紹介と言ってもその内容は、自分の経歴とか趣味とか特技とか家族構成という事ではなく「私はこんなふうにイエス様を信じています」と自分の信仰を伝えようとしています。パウロは「ローマの教会に行った時にはこんな自分を受け入れて欲しい」と熱く自分の信仰を伝えます。ローマの信徒への手紙はパウロの信仰理解が色濃く出ている手紙です。

この熱く自分の信仰を語るパウロの心情の中には伝道への情熱があったと思いますが、それだけでなく、心配もあったのだと思います。いろんな国に行ってイエス・キリストを伝えたパウロでさえも「自分は受け入れられるだろうか」という心配があったのだと思うのです。それはローマの信徒への手紙の中にやたら「ユダヤ人」と「異邦人」という事柄が出て来る事からも分かります。律法(旧約聖書)を守り続けてきたユダヤ人が救われ、クリスチャンと仲よくすることをパウロは願っています。そのパウロの気持ちに嘘はないのですが、そこには自分とローマの教会の人たちの関係と重ねていたのではないか、と思うのです。

人と人との関係は難しい、クリスチャン同士でも難しい。そんな中でパウロは最後にこんな言葉を伝えています。15章の5節「忍耐と慰めの源である神」、13節「希望の源である神」、そして33節「平和の源である神」と語っています。「源」辿るべき水源、戻るべき原点は相手でも自分でもなく神なのだと語るのです。初めからずっと仲が良い関係なんてありません。また違う者同士だからお互い我慢もしなければなりません。相手の姿や言動にがっかりやイライラもするでしょう。願っている結果、思い描く相手の姿、理想の自分、と現実との隔たりに絶望しそうになります。しかし、そのただ中に、そして傍らに神はおられます。決して私達を諦めず、私達に絶望せず、私達に無関心にならない神、そこに私達の歩みの源を置くのです。願っている通りにならない絶望的な現実のただ中、主がそこにおられることこそが希望なのです。 (牧師:田中伊策)

「希望と平和の源流」 ローマの信徒への手紙15章33節

「不完全な私のままで」 フィリピ3:12-16

「わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです」(12節)

上記の言葉は伝道パウロの言葉です。しかし、捕らえられているから捕らえようと努めている、とは何だかよく分からない言葉です。でも、この「捕らえられている」という言葉を「愛されている」と言い換えてみるとその意味がよく分かって来ます。つまり「愛されているから愛そうと努めている」という意味です。そして「努めている」という言葉の中に、パウロの、そして人間の限界を感じます。「愛そうと頑張っているんだけどなかなか難しい」「分かっているんだけれど、それを行うって難しいね」って感じでしょうか。最初の言葉である「わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません」という言葉もそういう意味でしょう。「私は何て不完全な人間、私は何て愛から遠い人間なんだ」と心底思っているのです。

でも自分が不完全な人間であることを思えば思う程、この自分を愛して下さった神様の愛の大きさを知るのです。そして自分が愛から遠い存在であればある程、イエス・キリストがどれだけの隔てを越えて来て下さったかを知り十字架の重さを知るのです。そしてそれが従う力、愛する原動力になるのです。「愛されているから愛そうと努めている」のです。

今日は神学校で学ぶ神学生を覚える礼拝を捧げています。神学校で学んでおられる方々も同じです。彼等・彼女等は「この小さな自分を愛して下さった神様の愛に捕らえられた」のです。神学生の献身もまた愛されているから愛する、捕らえて下さったから不完全な自分のままで捕らえようとする、そんな事柄なのだと思います。その学び、その働きが進められる先に神様の大きな愛が表されてゆく事を願い、祈り支えていきましょう。(牧師:田中伊策)

「不完全な私のままで」 フィリピの信徒への手紙3章12-16節

「愛される事を怖れない」 ヨハネ13:34

「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」(ヨハネによる福音書13章34節)

この聖書の箇所は最後の晩餐の出来事の中で語られたイエス様の言葉です。このあと、イエス様は十字架にかかられます。人の心の中にある弱さや悩みや悲しみや、そして罪、そういうものを背負って下さった。どうしようもないこの私の闇の中に来て下さり、その闇を担って下さった、それこそが光であり、栄光です。私達の信仰は、まず神様が愛して下さって、その愛を受け取ってそこから始まるのです。信仰とは恵みに対する応答なのです。

そんな中で「互いに愛し合いなさい」そう聞くと、「今度は私の番、私が愛さなくてはならない」という事ばかり考えてしまいますが、「愛し合う」ということは一方通行ではありません。イエス様が語っておられるのは、「あなたがたの関係の中で愛すると共に愛されなさい」ということです。それはつまり、「あなたが生きるその場所で、お互いに自分の弱さや小ささを受け止めてもらう関係を作りなさい」ということなのです。「互いに」です。

本当は愛するよりも愛される方が難しいのかもしれません。自分の弱さなんて人に見せたくないし、自分の足らないところなんて知られたくない。だから、人は本当の自分を隠してその上に富だとか名誉だとか知識だとか力だとか、そういうものをかぶせてしまう。時には善意や親切という行為さえも、自分を隠す道具にしてしまいます。伝道者パウロは言います、『全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしには何の益もない』(第一コリント13:4)。

愛し合うということは、互いに相手を信頼し、自分の小ささや弱さを受け止めてもらうことの出来る関係です。互いに愛される事を怖れないことです。 (牧師:田中伊策)

「愛される事を怖れない」 ヨハネによる福音書18-19節