月別アーカイブ: 2015年8月

「生きるための約束」 出エジプト20:1-17

エジプトを出たイスラエルの人たちは自分の国に向かって進んでいます。それは奴隷からから人間に戻るための道でもあります。そんな中で神様はイスラエルに十戒、十の約束を与えます。この約束は簡単に言うと二つの事だけが書かれています。一つは「あなたがたは人間です。神様である私が、あなたを心と体のある人間として創ったのです。そしてあなたを人間として生きるように助けたのです。『私はロボットでも、機械でもなく人間なんだ。神様は私達を人として生かして下さっているんだ』その事を忘れないようにしなさい。」ということです。「あなたには、わたしをおいて他に神があってはならない」(第一戒)という最初の約束は、「人だとか、物だとか、そんなものを神としたら、人間らしい生き方は出来ません。人間として生きるように命を与えた私だけが神なのだよ」ということです。

もう一つは、「人間として生きるためには、他の人と仲よくしましょう」ということです。「あなたの父母を敬え」(第五戒)という約束は、これは小さな子どもにお父さんお母さんを大切にしなさい、と言っているのではなく、大人に対して「年をとったお父さんやお母さんを大事にしなさい」と言っています。生きる、ということはそれだけで大変な事です。楽しい事も嬉しい事もたくさんあるけれど、困った事や、悲しい事もたくさんあります。そんな事を何度も越えて年をとった人を大切にする、ということは、生きるということの重さを感じるということです。「敬え」と言う言葉は「重い」という意味があります。一つ一つの命の重さを感じなさい。それは、機械のように働いたり働かせたりするエジプトから出たのだから、命ある人として一緒に生きるんだ、という神様の促しです。その後の戒めも、流される事無くしっかりと心と身体をもって人間として生きようよ、と神様は言われています。 (牧師:田中伊策)

「生きるための約束」 出エジプト記20章1-17節

「それでも生きる」 マルコによる福音書2:18-22

「だれも、織りたての布から布切れを取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。そんなことをすれば、新しい布切れが古い服を引き裂き、破れはいっそうひどくなる。また、だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、ぶどう酒は革袋を破り、ぶどう酒も革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。」(21-22節)

昔の人が作った葡萄酒ですから、きっと作っている最中も発酵が進み、袋はパンパンに膨らんで行ったのでしょう。それは私たち自身の姿です。イエス様の言葉という新しい葡萄酒を私達の心に入れても、私達一人一人の心や体は変わらない。一人では変わらない。信じたら前向きに生きる事が出来る、という訳じゃない。信じたら罪を犯さなくなるんじゃない。正しくあろうと思いながらも、その一歩先で罪を犯す。希望を持って進もうとして進み出した先で悲しみ嘆く。「はぁ」とため息。心にはそんなため息が増えて行く。それでも自分の頑張りで生きようとしたら、その心もその身体も張り裂けてゆくことになります。バーンアウトです。「ぶどう酒は革袋を破り、ぶどう酒も革袋もだめになる。」

イエス様は「一緒に食べよう」「一緒に生きよう」と言われます。自分で頑張るのではなく、このイエス様と共に生きるという歩みこそが新しい革袋です。悲しみもため息も一緒に抱えて下さる主がおられるのです。

イエスを信じる者は、自分で自分を救う、自分で自分を守る事を止めるという生き方を始める者なのです。「その悲しみも、その痛みもイエス様は知っている。一緒に傷んで下さっている。ここからまた一緒に生きよう。それでも生きよう」と自らに、そして他者に促す者なのです。共におられる主に生かされ、私達もまたそれぞれの生活の中で伴う歩みを通して生かす歩みをしてゆきたいと思います。それでも生きて参りましょう。 (牧師:田中伊策)

「それでも生きる」 マルコによる福音書2章18-22節

「勝利の行進」 詩編68:25-28

かつて、M・L・キング牧師は仕事と自由を求めるワシントン行進(1963.8.28)において25万人の前で次のように演説をしました。

私には夢がある。いつの日かジョージアの赤土の丘の上で、かつての奴隷の子孫とかつての奴隷主の子孫が、兄弟愛のテーブルに仲良く座ることができるようになるという夢が。

私には夢がある。今、不正義と抑圧の炎熱に焼かれているミシシッピー州でさえ、自由と正義のオアシスに生まれ変わるだろうという夢が。

私には夢がある。今は小さな私の四人の子供たちが、いつの日か肌の色ではなく、内なる人格で評価される国に住めるようになるという夢が。私には夢がある。

私には夢がある。悪意ある人種差別主義者や「介入」とか「無効化」という言葉で唇をぬらしている州知事がいるアラバマでさえ、いつの日か、幼い黒人の少年少女が、幼い白人の少年少女と手に手をとって姉妹兄弟となることができるという夢が。私には今日、夢がある。

私には夢がある。いつの日か、全ての谷は隆起し、丘や谷は低地となる。荒れ地は平らになり、歪んだ地も真っ直ぐになり、そして主の栄光が現れる。その光景を肉なる者が共に見るという夢である。 これがわれわれの希望なのだ。
(M・L・キング説教講演集「私には夢がある」新教出版社,2003年,P103-104)

まだ見ぬ自由と平等と平和に向かって25万人と共に行進したキング牧師は、キリストが進まれた道を進みます。信仰者の歩みは勝利の先取りです。キリストが先立ち、そして共におられることのうちにまだ来ぬ勝利を先に見るのです。私達一人一人の人生も、この社会の歩みも悩みの多いものです。しかし、その中を主は先だって歩まれるのです。その勝利の行進に私達も連なり平和の道を進みたいと思います。 (牧師:田中伊策)

「勝利の行進」 詩編68編25-28節

「重症児者と共に生きる」 ヨハネ3:16 ヨハネⅠ4:11

ご 挨 拶 久山療育園 理事長山田雄次

久山療育園は、1976年に開園し39年が経過しました。それに先立つ重症児者と共に生きる久山療育園運動の開始(1967年のバプテスト心身障害児者を守る発足のための第1回会議)からカウントすると約50年の歩みとなります。 試練とも言える厳しい課題に直面させられたことも多々ありました。50名規模の入所施設が94名(長期入所者88名、短期入所者6名)と利用者が倍化し、在宅支援サービスにも積極的に取り組む開かれた施設としてその歩みが導かれたことはバプテスト教会、特に福岡地区にある教会の皆様のお祈りとご支援の賜物と感謝しています。全国にある多くの重症児者施設にあって久山療育園のような強い支持基盤を持つことは稀有な例であり、感謝の極みです。40年という時代の区切りにあたって久山療育園と教会とのつながりを一層強化し、重症児者のいのちと暮らしを守るため、更なる課題の拡充を期してゆきたいと願い、教会訪問のお願いをさせて頂きました。受け入れを頂きましたことを心より感謝申し上げます。

「重症児者と共に生きる」 ヨハネによる福音書3章16節 ヨハネの手紙Ⅰ4章11節

「神の業としての教会」 マタイ16:13-20

旧約聖書の詩編にはいろんな人がいろんな状況から神様に訴えている言葉が記されています。嬉しい時、悲しい時、困っている時、そのなかからいろんな言葉が書かれてあります。中には「敵をやっつけて下さい」とかいう言葉さえあります。そんな中で私達は勘違いしそうになります、「敵をやっつけていい、というのが聖書の思想だ」と。でも、違います。困った時、激しい怒りを発した時、様々な心情をそのまま神様に訴えることは赦されている、ということなのです。そんな思いを包み隠して神様に向かって「感謝します」「あなたをほめたたえます」というのであればそれはむしろ不信仰です。その醜さや、その小ささを神様は知っているのだから、その包み隠さない裸の言葉を神様になげかけることが赦されているのです。ただ、そこから先が大切です。最後は自分の思いではなく、神様はどう思われているか、どうなさるか、委ねて信頼すること。イエス様は捕らえられる前に祈られた時に「父よ、できることなら、この盃をわたしから過ぎ去らせてください。しかしわたしの願いどおりではなく御心のままに」(マタイ26:39)と祈られました。信頼してこの「御心」に向かう祈りが大切なのだ、と思います。

私の願望で終わるのではなく、主の御心がどこにあるか、そこが大切です。今日の聖書で、人々は時代、状況の中で、自分の願望や絶望の中でイエスを誰か、とあれこれ言うのです。そんな中でペトロは「あなたはメシア、生ける神の子です」というのですが、ペトロの答えは「御心」がイエス様の中にあるという言葉、神様の思いが中心にある告白です。「生ける神の子」とは見えない神の姿、あなたを見たら神様がどう示しているかが分かる、ということです。そう考えると、私達の告白自体、自分の内側のものではなく、神様から与えられたものということになります。与えられた物が私達の言葉、私達の告白となってゆく、個人の信仰も、教会の信仰も神様の愛から来るものだということです。 (牧師:田中伊策)

「神の業としての教会」 マタイによる福音書16章13-20節