月別アーカイブ: 2015年9月

ファミリーサンデー特別礼拝 フィリピ2:1-4

フィリピの信徒への手紙は、パウロという人がフィリピという町の教会の人たちに送った手紙です。この手紙は時々、別の名前で呼ばれる事があります。それは「喜びの手紙」です。嬉しい気持ちがいっぱい溢れた手紙だからです。そう聞くとパウロさんにどんな良い事があったのだろうと思うのですが、パウロはこの手紙を書いた時、牢屋に入れられていたのです。

友達に会う事も出来ないし、家族にも会えない、自分で買い物にも行けない、教会にも行けません。でも、そんな何もできない中で、僕に今出来る事、他の人の応援をしよう、って思ったのでしょう。しかし、その時にパウロは大切な、でも当たり前の事に気づきます、「僕も今まで、たくさんの人に助けてもらって、支えてもらって、祈ってもらって、イエス様を伝えるお仕事が出来たんだ。僕の方が助けてもらっていたんだ。そしてイエス様はそのお手本になってくれたんだ。慰めたり、励ましたり、一緒に悲しんだり。あなたがたもそうしなさい、って教えてくれたんだ」。パウロさんはこれまで出て行ってたくさんの人の中でイエス様のお話をみんなにしていたけれど、それが出来なくなった時に、助ける事、誰かの役に立つ事の大切さ、そしてイエス様がそうしてくれたことを思って嬉しくなったのだと思います。

「同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください。」とパウロは言います。「今、僕は何もできない。でも、他の人の気持ちに合わせて一緒に生きようとしてくれたら、僕は嬉しい」。

何もできないからこそとても大切な事に気づいたのです。だからこの手紙は喜びの手紙なのです。イエス様は神の子なのに、出来ない傍らに来てくれた。そして今、何もできない私と一緒にいてくれる。その喜びでもあります。 (牧師:田中伊策)

ファミリーサンデー特別礼拝 フィリピの信徒への手紙2章1-4節

「あなたが真ん中だ」 マルコ3:1-7

礼拝というのは、飾らない裸の思いと裸の言葉を携えて来る事です。そしてそのようにして集まった小さな群れを神は祝福されます。この世で生きる中で時に強がらなくていけない時もあるけれど、ここでは本当の私でいられる、この小さな私を神は受け止めてくれる、そして私達もお互いに補い合い支え合う、そういう場所が教会であり、礼拝はそのことを具体的に表す時なのです。

1985年に世界的にヒットした曲があります。「We Are The World」という曲。これはアフリカの飢饉と貧困層の援助のために、アメリカの超一流のミュージシャンが一堂に集まって「USA FOR AFRICA」というグループを作って歌った曲です。レイ・チャールズ、ボブ・ディラン、ウィリー・ネルソン、ポール・サイモン、ダイアナ・ロス、スティービー・ワンダー、ビリー・ジョエル、ライオネル・リッチー、マイケル・ジャクソン、シンディー・ローパー、などなど。まだまだ他にも本当にそうそうたるメンバーが参加をしています。この曲が作られる前、参加を表明したミュージシャンたちに一通の手紙が届けられた。そこにはこんな風に書かれていたそうです。「スタジオの入口でエゴを置いて来てくれ。今日はタキシードもイブニングドレスもないパーティーだ」。一人ひとりはスーパースターで、普段はいろんなプライドや肩書、経歴を身にまとっている。関係だってそう。ライバルだったり、仲が悪かったり。「でもね、今日だけはそれらをスタジオの前に置いて来てくれよ。アフリカの飢餓に苦しんでいる人の事、それだけを思いながら、そして共にそのためだけに集まれることを喜ぼう。これはお祭りなんだ」って。そんな中で「We Are The World」という曲は作られたのです。

教会の礼拝も同じだと思います。普段はいろんな肩書がある、いろんな関係がある。でも、この教会のドアをくぐる私は、共に神様の前に裸の思いと言葉だけを携えて一緒に集う、私達の弱さも悲しみも、叫びも聞いてくれる方がおられる事を一緒に喜ぶお祭りをするのです。 (牧師:田中伊策)

「あなたが真ん中だ」 マルコによる福音書3章1-7節

「あのイエスが選んだ十二人」マルコ3:13-19

「十二使徒」という言葉は、かつては完全にキリスト教用語でしたが、今はキリスト教に興味のない人も結構知っている人もいる言葉です。「新世紀エヴァンゲリオン」というアニメーションの中にはキリスト教用語がふんだんに出て来ており(聖書の偽典・外典に載っていてクリスチャンも知らない言葉も出てきます)、「使徒」は主人公たちに対して攻撃してくる生物というか物体というか、そういうものでした。

さて、この聖書の箇所はイエス様が12人の特別な弟子、「使徒」を選んだという箇所です。 ここにはまず、「山に登って、これと思う人々を呼び寄せられると、彼らはそばに集まって来た」とあります。山に登ってから呼び寄せたということは、イエス様が山に登られると多くの人たちがついて来ていた。その中で特定の人を呼んだ。それが十二使徒ということです。
多くの中で特定を選んでその人の名前を呼ぶ。呼ばれた人は誇らしげに前に進み出たのでしょうか。だとするとイエス様の行為としては不思議です。イエス様は悲しむ者、傷む者、虐げられた者のところに行かれた方です。そのイエス様が自分の働きのお手伝いに「出来る」人を選ぶでしょうか。そうとは思えません。むしろ、この12人が選ばれたのは彼らがイエス様の近くにいないといけない人だったからなのだと思います。その証拠に福音書を見ると使徒たちはむしろ足手まといで、邪魔ばかり。意図的でないにしろ、主人公のイエス様の働きを邪魔したり攻撃したりする側になっています。
私達はどうでしょう。同じなのではないか、と思います。私達は出来るからでもなく、偉いからでもなく、むしろ目が離せない、手が離せないから私の側にいなさい、と招かれたのではないか、と思うのです。自分に対して「ダメなだなぁ」と思っているこの私に対し「あなたが大切だ」と言ってくれるから信じていける、従っていける。それ以上のものが自分にあると勘違いした時、使徒たちもイエス様に叱られています。    (牧師:田中伊策)

「あのイエスが選んだ十二人」マルコによる福音書3章13-19節

「私達の希望でいてください」 イザヤ書46:3-4

「あなたの父母を敬え」(出エジプト記20章12節)という戒めは、家族を、家を大切にしなさい、ということ以上に、様々な悲しみも、失敗も、悩みも、迷いも、病も抱えながらここまで歩んできたであろう、その人生を重く受け止めなさい、という意味です。

そしてこの「あなたの父母を敬え」、「その命、その人生を重く受け止めよ」と言う言葉を神は決して他人事のように語りません。「わたしに聞け、ヤコブの家よ/イスラエルの家の残りの者よ、共に。あなたたちは生まれた時から負われ/胎を出た時から担われてきた。同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで/白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す。」(イザヤ書46章3-4節)まず、神ご自身が抱え背負って下さる、と聖書は語っています。

イスラエルの人々はこの言葉をバビロニアという国で聞きます。イスラエルはこの時、戦争に負けて奴隷状態にありました。バビロニアという国に負けてしまったのです。武器を取り、また大きな国に助けを求めた結果、そのようになってしまったのです。多くの人たちは、奴隷としてバビロニアに連れて行かれ、そこで暮らしていました。連れて行かれた人々は全部で15,000人程だったと言われています。彼らは国の発展、経済成長、強い国、そういう事を願って努力し、一生懸命に生きて来たのです。けれども間違った道を進んでしまった。

そんな中で彼らは神からの「わたしが担い、背負い、救い出す」という言葉を聞くのです。そこから人々は新しい歩みを彼らは始めます。神様を光として、神様を希望として。 様々な悲しみや痛みや過ちを経験しながら、それでも神様を希望として歩む、その姿は後を進む者たちの希望でもあります。これからも私達の希望でいてください。主がその命の重さを受け止めてくださるように、私達も敬ってゆきたいと思います。 (牧師:田中伊策)

「私達の希望でいてください」 イザヤ書46章3-4節

「互いに足を洗い合う」 ヨハネ13:14

キリスト教用語で「受肉」と言う言葉があります。日本語ではほとんどキリスト教でしか使われない言葉です。ギリシア語では「エンサルコーセー」、英語では「incarnation」という単語が使われています。この英語の言葉には、「化身」とか「具体化」とか「権化」という意味もあります。ドラマとかでとても悪い奴のことを「悪の化身」なんて言います、あの「化身」です。

「悪というものに形があり、それが人間となったらきっとこんな姿形なのだろう」というそういう意味です。「受肉」というのも正にそういう事で、「神様は見えないけれど、イエス・キリスト、この方こそ見えない神の形、人となった神だ」ということです。「神が姿、肉体をとって現われたという出来事」それが「受肉」という意味です。神様は私達を愛して下さっている、その愛が形に、愛が姿になった、というのです。聖書を読むと、時々「イエスは深く憐れんで」と言う言葉が出てきます。「憐れむ」というのは上から「お可哀そうに」と下々の者に情けをかける、と言う意味ではなく、相手の痛みを自分の痛みとする、という事です。

私の友人の子どもが子どもの頃にテレビを見ていて、誰か人が血を流しているのをみて「いたい、いたいが出ている」と言ったそうです。人が血を流している、その姿に、自分が血を流した時の痛みと重なったのでしょう。その人の痛みが自分の痛みとなったでしょう。イエスはその他者の痛みを自分の痛みとして行った。相手の痛みに自分の心も体も痛む、正にそれが「憐み」なのです。イエスは更にその人の悲しみ、弱さ、罪さえも自分の事柄として行った。その罪を自分の事として背負って行った。それが十字架です。だからキリスト教では、十字架が掲げられています。私の弱さや罪を背負ってイエスは十字架にかかられたそこに神様の愛を見る、見えない神の愛をイエスを通して見る「受肉」なのです。 (牧師:田中伊策)

「互いに足を洗い合う」 ヨハネによる福音書13章14節