月別アーカイブ: 2015年10月

「勝利の白旗」エレミヤ20:7-9

この世は私達にささやきます。お前は何でも出来る。それなのに神様に頼るなんてばからしいじゃないか、って。お金を持てば、権力を持てば、武器を持てば、何でも出来る。それなのに神様だなんてばかだなぁ、って。でも、そうやって目に見えるものばかり大切にし、集めて喜んでいるような生き方の先に現代の、失った者の悲しみ、傷ついた者の痛み、辱めを受けた者の屈辱、追いやられた者の孤独、暗闇の中にいる者の寂しさが分からないような世の中があるのです。

それに対して神の言葉は、私達の小ささに寄り添いながら、共にある事の中にある大きな力を伝えます。それは辛い歩みです。疲れるような歩みです。そしてこの世はピカピカ光って美しく唆します。だから時に私達はその眩しさに神様の言葉を見失い、「もう主の名を口にするのは辞めよう」と思ってしまうのです。エレミヤの姿は私達の姿です。そしてそこには変わらない神の言葉があり、それこそが私達を生かす力であることを示しています。私達は何度も、離れようとしてしまいますが、その度に神の言葉に促され、慰められ、立ち返りたいと思うのです。私達が弱さの中にある時こそ、主の言葉は私達のうちに火のように燃えあがり、そこからまた歩みだし、語り出す力となるのです。
「私の負けです」そう思う、無力な自分で居続ける、その時、神様は勝利し、そしてそれは同時にこの世に対しても勝利してゆくのです。神様への白旗はこの世に対しての勝利の白旗です。
(牧師:田中伊策)

「勝利の白旗」エレミヤ書20章7-9節

「あのイエスが選んだ十二人」マルコ3:13-19

「十二使徒」という言葉は、かつては完全にキリスト教用語でしたが、今はキリスト教に興味のない人も結構知っている人もいる言葉です。「新世紀エヴァンゲリオン」というアニメーションの中にはキリスト教用語がふんだんに出て来ており(聖書の偽典・外典に載っていてクリスチャンも知らない言葉も出てきます)、「使徒」は主人公たちに対して攻撃してくる生物というか物体というか、そういうものでした。

さて、この聖書の箇所はイエス様が12人の特別な弟子、「使徒」を選んだという箇所です。 ここにはまず、「山に登って、これと思う人々を呼び寄せられると、彼らはそばに集まって来た」とあります。山に登ってから呼び寄せたということは、イエス様が山に登られると多くの人たちがついて来ていた。その中で特定の人を呼んだ。それが十二使徒ということです。

多くの中で特定を選んでその人の名前を呼ぶ。呼ばれた人は誇らしげに前に進み出たのでしょうか。だとするとイエス様の行為としては不思議です。イエス様は悲しむ者、傷む者、虐げられた者のところに行かれた方です。そのイエス様が自分の働きのお手伝いに「出来る」人を選ぶでしょうか。そうとは思えません。むしろ、この12人が選ばれたのは彼らがイエス様の近くにいないといけない人だったからなのだと思います。その証拠に福音書を見ると使徒たちはむしろ足手まといで、邪魔ばかり。意図的でないにしろ、主人公のイエス様の働きを邪魔したり攻撃したりする側になっています。

私達はどうでしょう。同じなのではないか、と思います。私達は出来るからでもなく、偉いからでもなく、むしろ目が離せない、手が離せないから私の側にいなさい、と招かれたのではないか、と思うのです。自分に対して「ダメなだなぁ」と思っているこの私に対し「あなたが大切だ」と言ってくれるから信じていける、従っていける。それ以上のものが自分にあると勘違いした時、使徒たちもイエス様に叱られています。(牧師:田中伊策)

「あのイエスが選んだ十二人」マルコによる福音書3章13-19節

「その生き方に共感する」マルコ3:7-12

「イエスは弟子たちと共に湖の方へ立ち去られた。ガリラヤから来たおびただしい群衆が従った。」(マルコによる福音書3章7節)

彼ら(ガリラヤから来たおびただしい群衆)はどうして従って来たのでしょうか。病気を治してもらったからでしょうか。それもあるかもしれません。でも、それだけじゃないでしょうし、そんな意味ではなかったはずです。

例えば私達が病気になったとします。そして、ある病院に行って、良いお医者さんに病気を治してもらったとするでしょう。だからと言って私達はそのお医者さんの後を追っかけまわすような事はしないでしょう。確かにイエス様は病気を癒された、ということが書かれていますが、大切なのはそこまでの過程です。

イエス様はこのガリラヤの人々の傍らに行かれ、徹底的にその弱さに寄り添われたのです。その中で彼らは元気になっていった、そこからまた歩み出す勇気を得たのです。ガリラヤの人々はこのイエスの生き方のうちに、神を見たのです。神様は共におられる。この悲しみの中にある私と共に、この悩みの中にある私と共に、この貧しさの中にある私と、この罪に苛まれる私と、神は共におられる、その神をイエス様との出会いの中で見出したのです。そんなイエスの生き方に彼らは従ったのです。私のその生き方に連なろう、前を行くイエス様について行こう、それが「従う」ということです。
(牧師:田中伊策)

「その生き方に共感する」マルコによる福音書3章7-12節

「新しい命への道」ローマ6:3-4

聖書にはこうあります、同じローマの信徒への手紙10章9-10節「(9節)口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させたと信じるなら、あなたは救われるからです。(10節)実に人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるからです。」。この9節と10節にはどちらも「言葉で言い表す」という事と「心で信じる」という事が書かれていますが、9節と10節では順序が逆転しています。9節では「口で言い表す」とありその後に「心で信じて」とありますが、10節では「心で信じて」とあってその後に「口で言い表す」となっています。

どちらが先?どちらが大事?と考えてしまします。しかしむしろこれは、どちらが先とも言えない、どちらが大事と言えない、と言っているのです。「心で信じる」ことと「口で言い表す」ということはつながっている、表裏の関係だ、ということです。神様を信じる、ということは非常に個人的な事のように思えますが、実は信じるのは共に信仰をもって行くということなのです。お互いの信仰を大切にしあっていく、共に生きていく事が信仰です。私達は決して一人で神様を信じてゆくのではない、一人で進んでいくことは出来ない、ということでもあるのです。

何故なら、個人的な理解で進んで行けば、私達は自分の信仰が正しい、という間違いにたどり着いてしまうからです。それは言い換えると自分を神とするということです。しかし、それになかなか気づけない。それは、私達は鏡がない限り、自分の顔を見る事が出来ない事に似ています。でも、そこに誰かがいてくれたら、私が今どんな顔であるかを教えてもらえます。私の信仰、あなたの信仰を分かち合って共に生きて行くのが教会なのです。ですから、神様を信じるということは、口で公に告白してゆく、ということなのです。(牧師:田中伊策)

「新しい命への道」ローマの信徒への手紙6章3-4節