月別アーカイブ: 2016年6月

「私のためにあなたが立てられた」サムエル上24:21

イスラエルの最初の王様はサウルという人物でした。イスラエルでは王や大祭司が立てられるときにその頭に油が注がれることになっており、サウルは油を注がれて王となりました。ところが、その在位中にサウルとは別に油を注がれた者がおりました。それがダビデという少年でした。このことは内密に行われたのですが、本来そんな紛らわしい事はあってはなりません。国の乱れるもとです。

けれどもそれとは別に国は乱れます。サウル王の配下であったダビデの人気が高まってサウル王はダビデを殺そうとするようになったからです。ダビデは逃げ、サウルは追います。ところがその立場が逆転する状況が起こります。ダビデを追いかけたサウルが洞窟で用を済ませようとするのですが、その洞窟にダビデが隠れていたのです。ダビデの部下は「いまがチャンスだ!」というのですが、ダビデは「神様が油を注がれた者に私が手をかける訳にはいかない」とその言葉に耳を貸しません。

やがて用を済ませたサウルが洞窟から出てくると、ダビデもまた後を追って洞窟を出て、ひれ伏して「王様!どうして私のような小さなものを追いかけて殺そうとなさるのですか?私にはあなたを殺そうとする思いはありません。どうして神様が立てられたあなたを撃つことが出来ましょうか」。その言葉にサウロは涙を流して「お前が正しい。私は確信する。お前は王となる」そう言って二人は分かれます。

サウルが在位中にダビデに油が注がれた、それは神様がサウルの足らなさや弱さを補うため、サウルの罪を罪で終わらせないためだったのではないか、少なくてもサウルはダビデの内に王にあるべき資質「神と人とを敬い従順であろうとする心」を見、自分の足らなさが彼によって補われると確信したのではないか、そう思います。「油注がれた者」は旧約聖書の書かれたヘブライ語で「メシア」、新約聖書の書かれたギリシア語で「キリスト」という言葉が使われているのは決して無関係ではないと思うのです。(牧師:田中伊策)

「私のためにあなたが立てられた」サムエル記上24章21節

「恵みとして数える」マルコ6:30-44

『さて、使徒たちはイエスのところに集まって来て、自分たちが行ったことや教えたことを残らず報告した。イエスは、「さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」と言われた。出入りする人が多くて、食事をする暇もなかったからである。』(マルコ6:30-31)

「使徒」というと「イエス様の立派なお弟子さん」というイメージがあるかもしれません。「使徒」=「イエス様の直々の12人の弟子」みたいな感じで。でも、この使徒という言葉は新約聖書の元々の言葉であるギリシア語では“アポストロス”という言葉が使われており、そこには「遣わされた者」という意味があります。そう考えると、礼拝に出席して元気をもらって「さあ、ここから歩み出しなさい」「いってらっしゃい」と送り出される人はだれでも「使徒」になる訳で、それで良いのだと思います。

ただし、出て行ったままではなく帰ってくる事が大事です。教会はそうやって帰ってくるところです。実際、「教会」という言葉はギリシア語では“エクレシア”と言いますが、「呼び集められた人々の集まり」という意味を持ちます。「おいで」「おかえり」と言われる場所であり集まり、それが教会だということです。そして、誰から「いってらっしゃい」「おかえり」と言われるか、それが神様です。

「いってらっしゃい!」「おかえり!」と言われる場所として多くの人が真っ先に思い浮かべるのは、きっと家庭だろうと思います。だから教会は「神の家族」というのです。神様から招かれ呼ばれて共に礼拝し、そこからまた神様からそれぞれの場所へ送り出される。それが教会なのです。家の食卓で今日あったことを話すように、送り出された場所での神様の恵みや自分の行った事を分かち合う。家や家族の安心の中で休むように、教会で安らぎ力をもらう。そんな教会の姿をこの聖書の言葉は示しているように思います。家族は年齢も性別も違うけど一緒が当たり前、分かち合うのも当たり前。教会も同じです。 (牧師:田中伊策)

「恵みとして数える」マルコによる福音書6章30-44節

「最後の敵はプライド」マルコ6:14-29

イエスが十字架にかけられた時、そこを通りかかった人々は「おやおや、神殿を打ち倒し、三日で建てる者、十字架から降りて自分を救ってみろ」(マルコ15:29-30)と言ったと書かれています。「自分で自分を救ってみろ」と言っているのです。今の言葉で言うと「自己責任論」です。溺れている人に「自分で自分を助けなさい」と言うような愚かな言葉です。私たちは他者から助けてもらったり、救ってもらったりしなければならない存在なのです。それなのに私たちはそのように出来ないのです。その原因の一つがプライドです。恥ずかしくて「助けて!」と言えない。一生懸命に自分で作り上げてきた自分の姿を壊すようで、今後人からどう思われているか気になって「助けて」と言えない。そんなうちに、私たちの体も心も沈み込んでゆく。

「自分で自分を救ってみろ」というのはイエスを他人事に思うからです。そうではなく、イエスは他者を救ったからこそ十字架で死なれたのです。この「他者」は「他人」ではなく「私」です。だから教会で信仰に入る事を「救われる」というのです。だから教会では「私を救うために十字架にかかられた」とか「私の罪と共にイエスは十字架にかかった」とか「私の罪がイエスを十字架につけた」とかいうのです。

けれどもこのプライドというやつはやっかいで、何度でもむくむくと膨れ上がってしまいます。救われたはずの自分がいつの間にか真理を自分で掴み取ったような気になって人に自慢したり、立派なクリスチャン像を作り上げて弱みを見せられなかったり。自分で演じている自分、人から期待されている自分から自由にされて(救われて)信仰に入ったのに、そこでもまた作り上げようとしています。人はつくづく救われない、とがっかりしてしまいます。それでもその救われないような「私」を神は愛してくださっています。だからここから何度でも救ってもらいましょう。自分で自分を救うことは出来ないのですから。(牧師:田中伊策)

「最後の敵はプライド」マルコによる福音書6章14-29節

「日々新たにされて」コリントⅡ 4:16

聖書は語ります、「だから、私たちは落胆しない」。この「だから」という言葉には、「それでも」という強い気持ちがあるように思います。願っている方向とは別に進む現実、願っていることが出来ない体、そんな中で「それが私たちだよ、それが人間だよ」って妥協したくなります。あきらめたくなります。このパウロの手紙の時代、まだキリスト教は受け入れられず、諸外国の人々や白い目で見られ、支配者から取り締まられるようなものでした。

そんな現実の中で、それでもイエス・キリストの言葉と十字架の出来事を拠り所として生きる事は困難だったでありましょう。イエスの希望の言葉通りに生きようとする事が困難な中、社会はちっともよくならない中、世代は変わり元気だった先輩クリスチャンが衰える中、自分も思った通りに動けなくなる中、落胆し諦めそうになる。「やっぱり無理なのかな」なんて。今まで自分の希望だった言葉がなんだかみすぼらしく思えてきてしまう。体だけではなく、心も立ち止まってしまいそうになる。

でも、そもそもイエス様の十字架ってそういうものじゃないでしょうか。絶望の中にある人に希望を語り、悲しみの中にある人に慰めを語り、共に生きようとされたイエスだったけれども、世の中はそれを拒否し、支配者や指導者、そして群衆までもが、そのイエスの歩みを十字架に打ち付けることによって止まらせた。そんなの無理だよ、そんなのは理想だよ、幻想だよって。

けれども、その十字架にこそ希望があります。なぜなら、こうありたいという希望やこう生きたいという願いにとどかない現実や、思ったように動かない衰えゆく私たちの体を抱える中で落胆しそうになる私たちの心を誰よりも十字架に打ち付けられたイエスは知っているからです。そしてイエスの言葉は、その打ち付けられた肉体を超え、これ以上進めないと思えるような現実を超えて私たちに希望の言葉として語り掛けるからです。
(牧師:田中伊策)

「日々新たにされて」コリントの信徒への手紙Ⅱ 4章16節