月別アーカイブ: 2016年7月

「調子に乗ってごめんなさい」サムエル記下24:10-25

「あなたの心配は何か?」神様は私たちにそう尋ねられます。

私たちには日々いろんな心配事がありますから、心の中がその心配事でいっぱいになり、自分で何とかしよう、私が頑張らなくちゃ、と思ってしまいます。そして、神様が語られるその続きの言葉「私がいるよ。大丈夫だよ」が耳に入らなくなります。その時に私たちは間違った道を進みます。

自分の事ばかり考え、自分が正しいと思い込み、周りの人たちの悲しみを感じることも、うめきを聴くことも出来なくなります。しかし、神様は何度でも私たちを招かれます。そして神様と仲直りをすること、神様に信頼することを喜ばれます。どうしてすぐに戦争が始まるのか、どうしていつまでも戦争が終わらないか。それは戦争をすると決めた偉い人たちは、自分では刀も銃も持たないからです。

自分たちはエアコンの効いた安全な処で「行け!」とか「殺せ!」と命令するだけだからです。そして、戦争が終わる時は、その偉い人たちが「そろそろ自分の命が危ないぞ」と思う時です。その間に、たくさんの人が死んでしまいます。戦う人たちは憎いから殺しあうのでも、威張りたいから武器を持つのでもありません。偉い人たちから命令されているからです。

ダビデもそうでした。ダビデさんは神様から立てられて王様になりました。私の愛する命を守りなさない、と命じられて、神様の国を良い道に進めるために王になりました。でも、いつの間にか神様の国ではなく自分の国にしていました。自分の事ばかり考えて、戦争に行く人を増やそうとばかり考えました。自分が敵に追われるのは嫌だ、とたくさんの人が傷つき、血を流し、死んでしまうことを選んでしまったのです。

イエス様の事を考えたいと思います。イエス様は最後まで神様が愛する人を慰め、励まし、支え、守られ、愛されました、武器を持たないまま。そして、人々の罪も弱さもすべて受け止められ、抱えて十字架で死なれました。そして、そのイエス様は今、私たちに語り掛けておられます。神様と仲直りしなさい。神様に信頼しなさい、と。イエス様は私たちを招かれておられます。何度でも立ち返るように招いておられます。
(牧師:田中伊策)

「調子に乗ってごめんなさい」サムエル記下24章10-25節

「腹に入りて厠に落つるなり」マルコ7:1-23

18-19節に「すべて外から人の体に入るものは、人を汚すことができないことが分からないのか。それは人の心に中に入るのではなく、腹の中に入り、そして外に出される」とあります。人に対して「汚れている」と言って裁くけれど、その「汚れ」なんて大したことない。

汚れた食べ物と呼ばれている物だって、おなかに入れてもやがては外に出てゆく。それはただのに日常の営みじゃないか。むしろやっかいなのは、体に入る食べ物よりも心の中に巣食う人を悪く言って自分を正しいとしようとする気持ちだよ、イエスはそう言っているのです。

この言葉の後半を文語訳では次のように書かれていました、「汝らもしか悟りなきか、外より人に入る物の、人を汚しえぬを悟らぬか、これ心には入らず、腹に入りて厠におつるなり』」。私は聖書を日本語に訳された方は皆ギリシア語を専門とされている方ですので、聖書の訳の良し悪しは言わないのですが、この文語訳の方が格段に良いと思います。

イエス様ははっきり「おなかに入ったものは便器にドスンとうんことして出てゆくだけだ」と言われているのに、新共同訳ではそれを「外に出される」とオブラートに包むように上品な表現になっているからです。それは訳す人が「厠」を「下品だ」と思ったからです。

言い換えるとイエス様の言葉を上品に、キリスト教を上品にしようとしている、お高くとまろうとしているのです。イエス様は「小さな者として生きよ、神は共におられる」と言っているのに、そのイエスを信じる者が自分を偉い者、立派な者、上品な者にしようとしているところに人間の罪が見え隠れします。誰だってトイレに行く、クリスチャンになったってトイレに行く。それは毎日の営み、私たちの日常です。

この日々の生活、毎日の営みにイエス様を迎える事が大切なのです。上品に見せなくていい。強く見せなくていい。そんなもの、ドスンと捨てちゃいましょう。この小さな私の傍らにおられる神の愛が表されたら、私の罪のために十字架にかかられたイエス様が表されたらそれでいい。そんな歩みをしてゆきたいと思います。(牧師:田中伊策)

「腹に入りて厠に落つるなり」マルコによる福音書7章1-23節

「愛する者へと変えられる」マルコ6:53-56

「一行が舟から上がると、すぐに人々はイエスと知って、その地方をくまなく走り回り、どこでもイエスがおられると聞けば、そこへ病人を床に乗せて運び始めた。」(54・55節)

アメリカのプロ野球、メジャーリーグにかつてジャッキー・ロビンソンという選手がおりました。彼は1945年にアメリカのアフリカ系の黒人がプレーする野球のリーグの選手になりましたが、その活躍が目に留まり、メジャーリーグのチームに誘われます。

ところが当時は黒人に対するひどい差別があり、そのため彼はひどい仕打ちを受けます。観客からは暴言と共に卵を投げつけられたり、打席に入ると相手のピッチャーがジャッキーの頭めがけてボールを投げたり、同じチームの選手の中には黒人と一緒のチームでは野球は出来ない、とチームを去ったり。それでも、彼はふてくされずに、また暴力的にならずにプレーを続けます。自分の野球人生だけでなく、後に続く黒人の選手の道を閉ざすことになるからです。

それで彼は、どんなに差別されても、どんなに危険なプレーをされても、紳士的にプレーをし、結果を出します。そんなジャッキーの姿に、少しずつ周りが変わり始めます。監督は「肌が黄色でも黒でも構わない。チームのためになる選手を起用する。従えない奴は去ってくれ!」と言い、チームメイトも観客の心無いヤジや相手チームの危険な行為に対して抗議をしたり、彼を守ったりするようになります。

そして彼のチームは優勝し、ジャッキーも新人王を取ります。その後も彼は活躍し、引退し、亡くなります。やがて彼の背番号42番はメジャーリーグで永久欠番となり、彼がメジャーリーグでデビューした4月15日は「ジャッキーロビンソンデー」となり、その日は選手は全員42番の背番号をつけてプレーをしています。彼の生きざまに触れ、彼に出会った人達が少しずつ変わり、そしてその変化が広がって行ったのです。出会いは人を変えます。

「一行が舟から上がると、すぐに人々はイエスと知って」、この「人々」がイエスを見ただけでイエスをイエスと判別できたということは、この人々が既にイエスと出会っていたということです。その出会いの中で愛され救われた人々は、イエスがしたように悲しむ者、悩む者を探し出します。そしてイエスの元に連れてゆこうとします。イエス様と触れあってその愛を知った彼らは愛する者へと変えられていたのです。出会いは人を変えるのです。(牧師:田中伊策)

「愛する者へと変えられる」マルコによる福音書6章53-56節

「安らぎの軛」マタイ11:28-30

今の時代に生きていますと、疲れや苦しみを感じてしまうことが本当に多いように感じます。現代には、鬱病やノイローゼなど、追い立てられる生活の中で、心身を病んでしまい、生きる事に疲れてしまう人達がたくさんおられます。そんな中、今日の聖書箇所において、イエスはこう語りかけておられます。

「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」

教会に来ておられる方々の中にも、日々の生活に疲れ果て、途方に暮れてしまう経験をしている方がおられるかもしれません。人生の旅路を歩いていく中で、重くのしかかってくる荷を背負い、もう一歩も歩けなくなってしまう。そんな、希望や光を見失ってしまいそうな時、イエスのこの御言葉はどれほど私たちを慰めてくれることでしょう。これほど慰めと癒しに満ちた言葉で招いてくれる存在を、私たちは身の回りに見いだすことが出来るでしょうか。イエスが与えてくださる休息、安らぎを、どうか私たちが豊かに感じる事ができますように。

イエスは続けてこう語られます。

「わたしの軛を負いなさい」

たった今、「休ませてあげよう」と語ってくださったイエスの唇が、次の瞬間には「わたしの軛を負いなさい」と語っておられます。「イエスの軛を負う」ということは、いったいどういうことなのでしょう。「軛」とは、牛が車や鋤を引いたりするときに用いる道具ですが、通常二頭の牛が横に並んで負っていました。聖書において「軛」という言葉が出てきたときには、連帯性を表す言葉として用いられます。すなわち、イエスが「わたしの軛を負いなさい」と語っているのは、イエスがこれからいつもあなたの隣にいて、あなたと隣り合って歩くということを表しているのです。どうか、一人でも多くの人たちが教会に招かれ、聖書のみ言葉に触れ、イエスが隣り合って歩いて下さる新たな歩みの中で、本当の安らぎを得ることができますように。アーメン。(香月太郎神学生)

「安らぎの軛」マタイによる福音書11章28-30節

「嵐のただ中で信じる」マルコ6:45-52

「イエスは弟子たちを敷いて舟に乗せ、向こう岸のベトサイダへ先に行かせ、その間に群衆を解散させられた。群衆と別れてから、祈るために山へ行かれた」(45-46節)

イエスは弟子たちと群衆がいる中で、弟子たちを先に舟で向こう岸にやり、そして群衆を解散させます。弟子たちもいない、群衆もいないという中で、イエスは祈るために山に登られた、というのです。一人になったのだからそこで祈ることも出来たのですが、わざわざ祈るために山に登られます。私は「山」ということでよく思い出す事があります。

私が神学校を出て、最初に牧師として赴任したのは静岡でした。静岡には日本一高い山、3776メートルの富士山があります。この富士山を静岡では至る場所から見ることが出来ます。見るというよりも見られているという感じ、どこからでも上からこちらを見られている、そんな感じです。

ところが、当時私が住んでいた家の窓からは富士山は見えませんでした。それは、私の家と富士山の間には隣の家があったからです。その家はたった数メートルの高さの建物です。そのたった数メートルの建物が目の前にあるために、3776メートルの富士山が見えなかったのです。

そして、いつも私は、「神様と人間の関係も同じだなぁ」と思っておりました。神様は変わらずにおられる。でも、私たちの人生において、目の前に何か問題や悲しみ、煩いがあると、途端に、神様と自分との関係がさえぎられてしまう。人生の小さな出来事も目の前にたちはだかると、大きな神様が見えなくなってしまう。ほんの数メートルの建物があるだけで、3776メートルの富士山が見えなくなるのと同じだと思うのです。

それで話を戻しますが、山に登る、というのは自分と神様との間に隔てを置かない場所に身を置く、ということなのではないでしょうか。問題も、煩いも、悲しみもある人生です。しかしそれを神との間の隔たりとしないで、丸ごと抱えたまま、神の前に出る、それが山に登るということだと私は思うのです。(牧師:田中伊策)

嵐のただ中で信じる」マルコによる福音書6章45-52節