月別アーカイブ: 2016年8月

「大地に根を張る生き方」列王記上21:1-3

聖書の中には「土地」というのは神様から託されたものなので、売り買いしてはいけない(レビ記25章23-25節など)、大切に子孫に遺すように、というようなことが書かれています。それは土地の事だけではなく神様を信じる心も同じだと思います。あっちこっちに渡り歩くのでなく、神様という大地にしっかり根を張って神様の恵みを受けて生きる信仰の姿そのものです。収穫には時間がかかります。忍耐は必要です。でも、収穫の時を信じて生きるのです。

収穫というのは、決して人が増えるとか、バプテスマを受ける人が多くなるということではありません。新約聖書のガラテヤの信徒への手紙5:22-23には「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。」と書かれています。どれも一人ではできないものです。信仰をもって歩む私たちの中からこの実が育ち、それを無駄にしないで分かち合ってゆく、そういう歩みが大切なのであり、その業を、次の世代に託して行く。そういう信仰が土地を売り買いしてはならないという約束につながるように思います。

力づくで奪おうとする世の中です。権力やお金や暴力や情報で私たちの生活も思想も奪って行こうとします。そんな中で、私たちは「先祖から伝わる嗣業の土地を譲ることなど、主にかけてわたしにはできません」(列王記上21章3節)と言い続ける信仰を持ちたいと思います。私たちはこの嗣業を私たちの子どもたちに、手渡してゆかなくてはならないのです。この教会を、愛する教会の子どもたちに手渡してゆくために私たちはここからまた深く大地に根を張って、結ぶ実を分かち合うその日を待ち望みつつ、そういう歩みをしてゆきたいと思います。

(牧師 田中伊策)

「大地に根を張る生き方」列王記上21章1-3節

「その声は心に響いた」マルコ7:31-37

8月の日々を過ごしています。平和ということを深く考えさせる月です。でも、テロは起こり、争いは止まず、日本の首相は先制攻撃で核を使わないと言うアメリカを批判する、「つまり先制攻撃に核を使え!」と言っている、原子爆弾を落とされた国の首相が。さらに、防衛費をあげよ、と言う。対話ではなく武力こそが大切なのだ、と言っている。選挙は負け、シールズは解散する。どんどん平和への道が遠ざかります。どんどん国と国との間の距離が広がり、人と人との間の隔てが高くなる。この距離、この隔てを前にして対話でなんてつながらない、そう思う中で、それでも私たちが愛そうとする、つながろうとする時その思いと業をイエスは愛しみ、「開け」と語られ、その隔てを崩し、そしてつながれます。

平和のために武器を使うのは試験のカンニングや運動選手のドーピングと同じです。努力の方向を間違い失格になってしまうような行為です。大切なのは過程です。福音書に書かれているイエスの姿は、人と人とを愛でつなぎ、神と人とを愛でつなぐことにひたむきに進まれた姿です。「耳が聞こえず舌の回らない人」と人々をつなぐために「指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられた」イエス、そして正しく歩めず、神を忘れ、すぐに絶望してしまいそうになる私たちと神とをつなぐためにその弱さを担い十字架にかかられたイエス、その姿が福音書のイエスです。手を伸ばしても平和に届かない私たちの先でイエスは「開け」と語り、そして結んで下さいます。私たちがイエスを信じるという事は、単に心で信じるにとどまらず、歩みだすその先に働いてくださり、つないで下さる事を信じるということです。イエスは私たちの共に生きようとする小さな一歩を、愛そうとする一歩を愛しまれ、つないでくださいます。 (牧師 田中伊策)

「その声は心に響いた」マルコによる福音書7章31-37節

「アンネの仕事」を!-71年目の8.15を前に 詩篇37編37節

13歳の誕生日に、父から贈られた日記帳-そこには女子中学生アンネの学校での出来事や勉強のことが書き記されるはずでした…。しかし実際に書かれたのは、アドルフ・ヒトラー率いるナチスが実行した「ユダヤ人絶滅計画」の魔の手から逃れるため移り住んだオランダ、それも「隠れ家」で過ごした2年余りの日々の出来事でした。限られたスペースから一歩も外に出られず、窓から街ゆく人の姿をながめることも許されません。トイレの水の音にも神経を使い、限られた食料を分け合って食べる-しかも、家族だけでなく父の会社の同僚一家と「あとひとりならここに住まわせてあげる余地もある」と迎えた中年男性との計8人での共同生活!

この秋、西南学院中高で開催する「アンネ・フランク展」に備えて読んだ『アンネの日記』は、ただ「ユダヤ人である」というだけの理由で、あらゆる自由を奪われ、命を狙われ、息をひそめて過ごさざるを得なかった稀有な<二度と繰り返されることがあってはならない>人種差別・戦争の悲惨を現代に伝え、平和とはどのように生きることであるかを問いかける貴重な資料です。

明日は71回目の8.15-折しも過去最多205の国が参加しての「平和の祭典」(リオオリンピック)が行われ、テレビは連日、肌の色も話す言葉も異なる選手たちが同じフィールドに立って競い合う姿を伝えています。アンネには想像することもできなかった光景でしょう。戦争の悲惨を身をもって体験された人々の声を聞くことが難しい-かつての戦争は遠い過去の出来事となりましたが、多くの人々の生活・未来・生命を奪った「ヒトラーの思想」は消えたと言い得るのでしょうか?アンネたちが願い求めた「平和」は実現しているでしょうか?あの「隠れ家」で過ごした8人の中で唯一、強制収容所での死をまぬかれて生き延び、娘アンネが残した日記の出版を通して平和の実現のため働くことを「アンネの仕事」と呼び、後半生をささげたアンネの父オットー・フランクはこう語っています。

「平和は相互理解から生まれます。アンネたちの悲劇的な死に同情するだけではなく、平和を作り出すために、何かをする人になって下さい。」

聖書の語る「平和」(シャローム)は、単に戦争のない状態を意味するのではなく、“社会を構成する一人一人の人間性が尊重される状態”を指します。あの日記は、理不尽な時代状況の中、さらにストレス多き隠れ家での共同生活の中、平和に生きようと努めた少女アンネの姿を伝えています。“シャローム”を実現するために、私が、また教会に求められている「アンネの仕事」はどんなことでしょうか?
「平和な人には未来がある。」(詩編37:37)(協力牧師 坂東資朗)

「アンネの仕事」を!-71年目の8.15を前に 詩篇37編37節

「この言葉を支えにして進め」マルコ7:24-30

この聖書の個所の前、7章の1~23節でイエスはゲネサレトという場所におりましたが、そこにエルサレムから律法の専門家たちがやってきて、イエスや弟子たちの様子に文句を言っています。ゲネサレトという片田舎に中央の学者さんがやってきたというのは、「何やら危険思想の持ち主が活動しているらしい」ということで調べに来たのです。

それはつまり国家的にイエスは危険人物だと判断するような時期に来ていたということです。それで、イエス様はがっかりするやら疲れるやらで、この国から逃れようか、ということでイスラエルの国を出て北西のティルスというところに来たというのです。一人になりたかった。しかし、見つかってしまいます。

やってきたのはギリシア人の女性。彼女は「娘から悪霊を追い出してくださいと頼」みます。しかしイエスは次のように答えたと書かれています、「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない。」「子供たち」というのは同胞イスラエル人のことです。そして「小犬」というのは異邦人の事です。

つまりこういう事です、「私はイスラエルの人々を愛し、慰めを語り、癒し、救わなくてはならないのだ。イスラエルの人々に向けて行わなければならない事柄を、異邦人に行う訳にはいかない」というのです。このままだと、とても感じの悪いイエス様ということになりますが、この時のイエス様の状況を考えると、少し違った意味に考えることが出来ます。

イエス様はこの時、がっかりしている訳です。福音が伝わらない、それどころか危ない人物としてブラックリストに載るような状況です。そんな状況に打ちひしがれたイエスは、こんな風に女性に語ったのではないでしょうか「イスラエルの民ですら救えていない。私の言葉は踏みつけられている。そんな状況の中で異邦人のあなたがたを癒すことなんて今の俺には考えられないよ」って。

それでもこの女性は言います、「主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます。」彼女は言うのです、「でも、受け取られていないあなたの言葉を私たちが拾っても誰も文句は言わないんじゃないでしょうか?その踏みつけられたあなたの言葉は私にとって命の言葉です。捨てられても、踏みつけられても、あなたの言葉は私を生かす命の糧です。娘の命を救う光です」って。

その言葉を聞いてイエスは言います「それほど言うなら、よろしい。家に帰りなさい。」(直訳:この言葉の故に、行きなさい)。娘のために一生懸命になる女性の信仰にイエスも呼応して希望の言葉を語ります。この世の不条理に一緒に痛み座り込む私たちと一緒に主は痛み、そして一緒に立ち上がるのです。  (牧師:田中伊策)

「この言葉を支えにして進め」マルコによる福音書7章24-30節