月別アーカイブ: 2016年9月

「今、私にできること」マルコ8:11-13

「ファリサイ派の人々が来て、イエスを試そうとして、天からのしるしを求め、議論をしかけた」(11節)

ファリサイ派の人たちは、無理難題を吹っ掛けようとしてやってきました。それが「試す」という言葉です。「試す」という言葉は「試験をする」という意味です。試験をするというのは先生が生徒をテストするということ、「お前が分かっているかどうか私が調べる」ということです。問題に答えられたら合格、答えられなかった失格、ダメということになります。偉い人は、〇か×をつけるだけです。イエス様にはそれがとても残念でした。

悲しんでいる人たちが笑顔になった、それはとても嬉しいことです。お友達が泣いていたら、「どうしたの?」っていうでしょ?そして元気になって欲しいと思うでしょ?そんな気持ちが大事なのに、この人たちは、お友達の事ではなくて、自分の事ばかり考えていたからです。自分が人気者になりたい、ってそればかり。どうしたら自分のところに人が集まってくるか、ばかり考えていたからです。

でも、イエス様は歩き回って、悲しんでいる人のところに行って話を聞いて「そうか、それは悲しいね」と一緒に泣き、困っている人のところに行って話を聞いて「そうか、それは困ったね。一緒にお祈りしようか」と祈ったり、病気の人のところに行って「ここかなぁ、痛いのは」ってさすったり、そうして、その人たちが「ああ、私のことなんて誰もわかってくれないと思っていたのに、この人は私の悲しみも、つらい気持ちも、痛い場所も分かってくれる。私はひとりぼっちじゃない」、そう思って「よし、もういちど頑張ってみよう」とか「なんだか、元気が出てきた」とか。

状況は何も変わっていないのに、悲しんでいる人の心が元気になったり頑張ろうと思ったり、そういう事が起きたらすごいでしょ。それこそが「奇跡」です。そして、そのためにイエス様はあちらにゆき、こちらに行き、一生懸命いろんな人と出会おうとされたのです。「また舟に乗って向こう岸へ行かれた」(13節)。新しく出会いに行かれたのです。私たちもついてゆきましょう。(牧師 田中伊策)

「今、私にできること」マルコによる福音書8章11-13節

「天に宝を積みなさい」マタイ6:19-24

今の世の中は不安で満ちています。疑いで満ちています。怒りで満ちています。それは二つの理由から起こっているのだと思います。一つは、神や他者に委ねることをせず自分で握りしめようとしているからです。自分で何とかしようと頑張るあまり、他者との関係を閉ざしてしまうのです。その隔たりが争いをもたらします。

本当に大切にしなければならないなら、自分で何とかしようと思わない、それが出来る存在に委ねる事が大切なのです。もう一つは、神様に委ねられない物を大切にしようとするからです。富とか知識とか名誉とか、そういうものを必死に守っているために、他の人を見下したり、自分が正しいと言い張ったり、人のものまで奪って蓄えようとしたり。

そう考えると、「天に宝を積みなさい」ということは、「神様に預けられるもの、神様に委ねられるもの、天に積むことが出来るものをこそ宝にしなさい」と言い換えることが出来ます。そして、その視点がなくなる時の事について22-23節で「体のともし火は目である。目が澄んでいればあなたの全身は明るいが、濁っていれば、全身が暗い。だからあなたの中にある光が消えれば、その暗さはどれほどであろう」とイエスは語っています。何を宝とするか、信仰の目で吟味しなさい、とイエスは言います。

自分で握りしめる事をやめなさい。無力になって神にゆだねなさい。そして委ねられるものをこそあなたの宝としなさい。それが天に宝を積むということだ、そうイエスは語ります。そしてそれこそがイエスの歩んだ道でもあります。人々を愛し、弟子たちを愛して、十字架にかかって死なれたイエスの姿は、大切な物のために無力になり委ねた姿です。自分を無力にしてまでイエスが宝にしようとしたのは人々であり、弟子達であり、そして私たちです。それは神様にとって私たち一人一人は宝だからです。(牧師 田中伊策)

「天に宝を積みなさい」マタイによる福音書6章19-24節

「生きているからお腹は減るのです」マルコ8:1-10節

マルコ8章で、イエスは多くの群衆を前にして弟子達に「群衆がかわいそうだ。もう三日もわたしと一緒にいるのに、食べ物がない。空腹のまま家に帰らせると、途中で疲れきってしまうだろう。中には遠くから来ている者もいる。」(2・3節)と言います。それに対して弟子たちは「こんな人里離れた所で、いったいどこからパンを手に入れて、これだけの人に十分食べさせることができるでしょうか。」(4節)と当たり前な返事をします。けれど、少し前の6章では同じ状況の中でイエスは五つのパンと二匹の魚を祈って弟子たちに分けるように言い、それを弟子達が分けると、そこにいた多くの群衆が満腹した、ということが書かれています。
例えば、何人かで車でドライブに行っていたら、途中で車が故障した。すると友人の佐藤君が「僕に任せて」といって修理してくれたのでまたドライブを続けることが出来た、とします。それから一か月後、また同じメンバーでドライブに行ったら、また同じ個所が故障した。そうしたら「佐藤君、またお願いできるかな?」って真っ先に言う。当たり前の話です。同じように弟子たちは前回の事を思い出して「イエス様、お願いします」と言ってよいはずなのにそうは言わなかったのです。イエス様が目の前にいるのに、弟子達は常識に流されてしまった、それもまた当たり前のことです。何故なら私たちは人間ですから。
神様を信じたから不安がなくなるとか、すべての事を信仰的に考えられるとか、なかなかなれないものです。そしてそんな不信仰な姿にがっかりしてしまう。けれども、それが人間なのです。満腹してもまたおなかが減るように、信じていても疑い、常識に頼ってしまう、それが人なのです。
この出来事の中でイエスは「パンを取り、感謝の祈りを唱えてこれを裂き」(6節)弟子達に分けるように言います。再びイエスは同じことをされます。そして、再びみんなで満腹します。忘れてしまう弟子たちにイエスはこの分かち合う恵みを思い出させてくれます
私達も何度でも思い出さなくてはなりません。毎月行う主の晩餐でも「パンを取り、感謝の祈りを唱えてこれを裂き」という言葉が読まれます。忘れてしまう私達、世の常識、世の当たり前に絡み取られてしまう私たちに、すべての人に与えられている神の恵みの当たり前を思い起こすためにパンを頂きます。そしてその神の恵みの当たり前を生き、そして神の愛の当たり前を伝えるために十字架にかかられたイエスを思い起こすために杯を頂くのです。
(牧師 田中伊策)

「生きているからお腹は減るのです」マルコによる福音書8章1-10節