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「この最後の者にも」マタイ20:14節b

「君と君と、それから君…は止めておこう。その二人、ついて来て。」

(俺は今日も仕事にありつけないのか)と彼は思った。その人は今日も仕事を求めて夜明け前から町の広場に来ていたけれど、誰も彼を雇ってくれない。(そりゃそうだ。こんなに顔色が悪く瘦せこけた俺を仕事に使おうなんて人はいないよ。誰だって体格が良く顔色の良い人を選ぶさ。こうやって選ばれた奴は働いてもらったお金で美味しい物を食べて元気になり、俺は今日も仕事にありつけずやせ細って行く。そして明日も選ばれない。俺は駄目だ)。

太陽は傾きかけあと一時間もすれば沈んでしまいそう。イスラエルの日付は日暮れで終わり、日が沈むと新しい一日が始まる。(何の食べ物も何の希望もないまま暗い明日がやってくるのか)と思った時、一人の人がこっちに向かって歩いてきた。(今頃、仕事でもなかろう)と避けようとするとその男は彼の前で立ち止まって言った。「君は何で一日中、仕事もしないでここで立っていたのか?」「誰も俺なんて雇ってくれる人がいないんですよ」「あの道の先にブドウ園があるのを知っているか?今からでいい。私のぶどう園に来い。」。彼は訳もわからず、言われた通りぶどう園に行き、そしてぶどうを摘んだ。(助かった、これで今晩は食べ物にありつけるだろう)と思った。

仕事を始めて30分。チリンチリ~ンと仕事の終わる合図が鳴り、労働者は監督の元に集まって来た。すると彼を雇った男が監督に「最後に来た者から順にみんなに賃金を払ってやりなさい」と言った。そこで監督は彼を見つけて「お前からだ。これを受け取って帰りなさい」と言って、1デナリ(一日働いてもらえる賃金)を渡した。「こんなにもらって良いんですか?」「お前も聞いたろ?ご主人様がそう言われるんだ」。彼はピカピカ光っている銀色の硬貨を握りしめて家に向かって踵を返した。

その時すぐ後ろで怒鳴り声が聞こえた、「こいつは30分しか働いていないのに1デナリ、俺は一日中働いて1デナリ。働いた分だけ貰えるのが当然だろ。不公平だ!」彼は怖くて振り返れなかった。すると彼を雇った男が返事をした「お前との約束は1デナリ、約束通りじゃないか。そして私は最後に来た彼にも同じように1デナリあげたかったのだ。『働いた時間がその人の価値』この社会では前の言う通りかもしれない。でも、私は違う。人間の価値はみんな同じだ。1デナリはそのしるしだ」。「お前は駄目じゃない。お前の命も等しく尊い。明日も生きるのだ」と聞こえた。喜びの中、彼の新しい一日が始まる。(牧師・田中伊策)

「この最後の者にも」マタイによる福音書20章14節b

「一緒に愛しましょう」

「児童期…は人としての土台を作る貴重な期間だ。社会的なルールを学んだり、基礎的な知識を学んだりすることも大事だが、それ以上にもっと根本的なものを身につける二度とない時期なのである。それは生きる事を楽しめる力、大切な存在を信じ愛する力、自分自身を大切にする力といった生きることの根本を支える力である。それらは、この時期にしか育むことのできないものである。

知識を教え込むことに熱心なあまり、この最も基本的な土台を育むことをおろそかにしてしまっては、何にもならないのである。そのためには、十分な愛情と保護を与え、見守り続ける必要がある。この子はしっかりしているから大丈夫、などと思ってはいけない。甘えるのが下手な、我慢する子ほど、気をつけておかねばならない。小さい頃に我慢して愛情をもらいそびれたツケが、思春期になって回ってくることは非常に多いのである。

子どもの頃、少々弱々しくても、大切にされ守られて育った子は、成熟を遂げ、大人になると、上手に世渡りするようになる。逆に、子ども時代に守られず、大切にされた経験が乏しいと、自分を安売りして、損な選択ばかりしてしまうことになりがちだ。子どもの頃、依存的で、甘えん坊で、泣き虫だった子が、泣き虫ゆえに、たっぷりと愛情をもらえ、物怖じしない性格になっている一方で、子どもの頃は、とてもしっかり者で、一番放っておかれた子が、不安の強い、自信のない性格に育ち、青年になっても親元から離れることができないというケースはよく出会うものである。 親の責任は重いと言えよう」。(岡田尊司著『子どもの「心の病」を知る』PHP新書,2005年,p115-116)

著者の岡田さんは精神科医で、特に親子関係や子どもの発達について深い知識を持ち、京都医療少年院でも働かれていました。その岡田さんが児童期には「生きる事を楽しめる力、大切な存在を信じ愛する力、自分自身を大切にする力といった生きることの根本を支える力」が大切であり、「十分な愛情と保護を与え、見守り続ける必要」だと訴えるこの言葉には説得力があります。それだけに最後の「親の責任は重い」という言葉は響きをもって迫ります。

しかし親自身が「生きることを楽しめ」なければ、そして親自身が「自分を大切に」していなければ、本当の意味で子どもに「生きることの根本を支える力」を伝えることは出来ません。それにはその「重さ」を一人や二人で負うのではなく、もっと多くの人で負っていくことが大事です。そうでないと、その重さに耐えられなくなる時が来てしまいます。

教会はその重さを一緒に抱えたいと思っています。それは私たちもまた「一人で背負わなくていいよ。私も一緒だよ」というイエス様の言葉を聞いたからです。その言葉から神様に愛されている実感を頂いたからです。一人で抱えちゃいけない、その命は重すぎる、その責任は重すぎる。だから一緒に生きましょう。愛の中で一緒に育てましょう。(牧師・田中伊策)

「あなたは諦めるのか?」マルコ9:14―29

今日の聖書の個所は、新共同訳聖書では「汚れた霊に取りつかれた子をいやす」という題がついています。「汚れた霊」と聞くと、ちょっと引きませんか。私はこういう言葉「汚れた霊」とか「悪霊」とか書かれていると、以前はちょっと引いちゃっていました。

何故かというと「霊」って得体のしれないものだからです。そして、ここから一体何を伝えたらよいのか、と思ってしまうのです。けれども最近私はある人からいわゆる「障がい者」という言葉についてのお話を聞いて変わったんです。その人は「障がい者」というのはその人についての言葉じゃない、って言われたんです。

「目が見えない人」とか「耳が聞こえない人」とか「体が不自由な人」とか「物事を理解するのが困難な人」とか、そういう人たちを生きづらくしている人や社会が「障害」を作っている。例えば、車いすの人は少しの段差でも越えるのが困難だったり、越えられなかったりします。障害というのは、段差そのものです。その段差を作ってしまっている社会や、手助けをしない人こそが、車いすの人の障害なのです。

そういう言葉を聞いたとき、本当にそうだな、と思いました。同時に「悪霊」と呼ばれるものもそうじゃないか、と思いました。自分たちと同じじゃない人に対して、また病気に人に対して「悪霊につかれている」とか聖書には書かれているけれど、「みんなと同じじゃないのはおかしい」とか「ダメ」とかそういう心こそ「悪霊」に憑かれている、そう思うようになりました。

おそらく聾唖だろうと思われる息子との間で悩み、絶望しかけた父親がイエスのところに来て「おできになるなら、わたしどもを憐れんでください」と言います。それに対して「『できれば』というのか?」とイエスは言います。それは「お前は諦めるのか?」と問うているのです。「私は諦めないよ。私はその断絶に橋をかけ、いや私が橋となってつなごう。私が希望となろう。だから諦めるな。私に従って来なさい」そうイエス様は語っておられます。(牧師・田中伊策)

「あなたは諦めるのか?」マルコによる福音書9章14―29節

「新しい土台の上に」マルコ9:2―13

主の祈りの中に「私たちの負い目を赦してください。私たちも自分に負い目のある人を赦しましたように」という祈りがあります。この祈りの言葉が「私たち」ではなく「私」だったら、つまり「私の負い目を赦してください。私も自分に負い目のある人を赦しましたように」だったら、私はこの言葉を祈ることは出来ないでしょう。いくらイエス様が「このように祈れ」と言われても、私は祈れません。

何故なら私は「自分に負い目のある人」「自分に危害を加える人」「自分にいじわるする人」「自分を無視する人」「自分をバカにする人」を簡単には赦せない人間だ、って知っているからです。多分だからなのです、「私たち」って祈れ、とイエス様が言われたのは。「一緒に生きるんだ、一緒に礼拝するんだ。一緒に神様を見上げるんだ。そうしたら、赦せないあなたのために執り成してくれる人がいる。あなたの代わりに赦してくれている人がいる。

もし、誰も許せなくても、私が赦す。何しろ、あなたがたの交わりの真ん中には私がいるから。あなたが私を見失っても、私があなたを見失わないから。『私たち』って祈るその真ん中で、先頭で私が祈っている、そして赦している。だから、ほかの人を赦せなくても、赦してください、って祈っていいんだ」とイエス様は言って下さっているのです。

私たちはイエス様から赦されている。そして、教会の交わりの中で赦されている。清く正しく、みたいな自分を高めるようなしかも不確かでいつ転げてしまうか分からない土台ではなく、イエス様の愛と赦しという変わらない確かな土台の上で、赦されながら赦しながら、共に礼拝しながら歩んでゆきたいと思います。(牧師・田中伊策)

「新しい土台の上に」マルコによる福音書9章2―13節