高校生の時の事。私は高校から親元を離れて寮生活をしていました。中学時代に勉強する習慣がなかったので、高校に入っても決められた勉強時間にはマンガを読んだり居眠りしたりしていました。そして1学期の試験、当然のように散々な成績でした。それでもあまり気にしないでいたら、寮監から呼ばれて「田中、お前は寮で一番成績が悪いぞ。恥ずかしくないのか。一番下なんだから、あとは上にいくしかない。がんばれ!」って言われてしまいました。
別に恥ずかしくありませんでしたし、焦る事もありませんでした。でも、寮監に対して「そんな言い方しなくてもいいじゃないか!」って反発からガムシャラに勉強するようになりました。毎日毎日、一生懸命勉強しました。すると2学期、ぐーんと成績が伸びました。結果が出るとやはり嬉しい。それでまた頑張る、するとまた上がる。最初が悪かったので結構とんとん拍子で上がってゆきました。
いつの間にか「もう落ちたくない」と思い勉強していました。成績の事ばかり考えて、睡眠時間を削って勉強しました。けれども無理したせいで体調を崩してドクターストップ。「勉強しないと追い越される、落ちる」そんな思いで何日も布団の中におりました。
そんな時、一つの聖句を見つけました、『人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのにどんな代価を支払えようか』(マタイ16:20)。この言葉を読んで、自分が上ばかり見て自分も周りも見えていなかった事に気づきました。そして、スーッと心が楽になったのを覚えています。
今日はクリスマス。神の子は家畜小屋の飼い葉桶の中。世の低みの極みに生まれました。神はその赤ん坊を通して上ばかり見て周りも自分も見えなくなっている私たちの視線を上から下に向けさせます。そして「お前は人なんだ。お前はここで生きよ。私も一緒に歩もう」と、語り掛けています。神を神とすることによって、人が人となるのです。『人の子は仕えられるためではなく仕えるために…』(マルコ10:45)。私たちもそのように。 (牧師・田中伊策)
「人が人となるために」ルカによる福音書2章14節