月別アーカイブ: 2016年12月

「人が人となるために」ルカ2:14

高校生の時の事。私は高校から親元を離れて寮生活をしていました。中学時代に勉強する習慣がなかったので、高校に入っても決められた勉強時間にはマンガを読んだり居眠りしたりしていました。そして1学期の試験、当然のように散々な成績でした。それでもあまり気にしないでいたら、寮監から呼ばれて「田中、お前は寮で一番成績が悪いぞ。恥ずかしくないのか。一番下なんだから、あとは上にいくしかない。がんばれ!」って言われてしまいました。

別に恥ずかしくありませんでしたし、焦る事もありませんでした。でも、寮監に対して「そんな言い方しなくてもいいじゃないか!」って反発からガムシャラに勉強するようになりました。毎日毎日、一生懸命勉強しました。すると2学期、ぐーんと成績が伸びました。結果が出るとやはり嬉しい。それでまた頑張る、するとまた上がる。最初が悪かったので結構とんとん拍子で上がってゆきました。

いつの間にか「もう落ちたくない」と思い勉強していました。成績の事ばかり考えて、睡眠時間を削って勉強しました。けれども無理したせいで体調を崩してドクターストップ。「勉強しないと追い越される、落ちる」そんな思いで何日も布団の中におりました。

そんな時、一つの聖句を見つけました、『人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのにどんな代価を支払えようか』(マタイ16:20)。この言葉を読んで、自分が上ばかり見て自分も周りも見えていなかった事に気づきました。そして、スーッと心が楽になったのを覚えています。

今日はクリスマス。神の子は家畜小屋の飼い葉桶の中。世の低みの極みに生まれました。神はその赤ん坊を通して上ばかり見て周りも自分も見えなくなっている私たちの視線を上から下に向けさせます。そして「お前は人なんだ。お前はここで生きよ。私も一緒に歩もう」と、語り掛けています。神を神とすることによって、人が人となるのです。『人の子は仕えられるためではなく仕えるために…』(マルコ10:45)。私たちもそのように。 (牧師・田中伊策)

「人が人となるために」ルカによる福音書2章14節

「平和の誕生」ルカ2:10-12

「天使は言った。『恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。』」(ルカによる福音書2章10-12節)

イエスの誕生についてルカによる福音書では、野宿しながら羊の群れの番をしていた羊飼いに救い主の降誕の知らせが届きます。どうして羊飼いに知らされたのでしょうか。

その答えは天使の言葉の中にあります。天使は「民全体に与えられる大きな喜びを告げる」と言っていますが、この言葉は口語訳聖書では「すべての民に与えられる大きな喜び」となっています。「すべて」というのは「一人残らず」ということです。一人でもこぼれていたら、一人でも除外されていたら「すべて」にはなりません。

つまり、羊飼いは社会において除外されていた、人の数に入れられない階層の人々だったということです。だから羊飼いのところにこのメッセージが届いたのです。「この社会は生まれた場所や話す言葉、皮膚の色や食べる物、知っている事や出来る事、仕事や行った学校、そんな違いで分けて仲間はずれをするけれど、神様は違うよ。一人として神様の愛から漏れることはない。だからあなたがたのところに来た。あなたのために救い主は生まれたのだよ」って。

「一人として神様の愛から漏れることはない」。その「一人として」を「この私が」と思えた時に救いは訪れます。そして、そこから新しい喜びの歩みが始まります。それは、私も仲間はずれをしない、敵を作らない、そういう生き方です。しかしそれはとても難しい事です。でも、それで良いのです。「愛するって難しいなぁ」と思ったらその度に「神様の愛は大きいなぁ」って気づくのですから。そしてまたそこからスタートです。(牧師・田中伊策)

「平和の誕生」ルカによる福音書2章10-12節

「恵みを通り過ぎないために」出エジプト16:15

神様はモーセという指導者を立てて、イスラエルを奴隷から解放します。民は自由を喜び、一路故郷を目指します。そんな中での事柄が今日の聖書個所に続きます。

「我々は自由だ、故郷を目指そう」と旅を始めるのですが、すぐに問題が起こります。三日目に「水がない」と人々は言い出します。荒野の旅です。水を探すのも一苦労です。そこはオアシスでしのぎますが、次に食べ物に困ります。

「腹減った。何とかならんのか。モーセは俺たちを荒野に誘い出してここで餓死させようとしているのか?奴隷の時は良かったなぁ。肉のたくさん入った鍋を囲んでパンを腹いっぱい食べられたのになぁ。死ぬんだったらこんなところで飢え死にするんじゃじゃなくて、エジプトで死にたかったなぁ」って。

モーセは思った事でしょう(ちょっと待てよ、お前たちが「助けてくれ!」って神に願ったから、神様は助けてくれたんだろ?)って。それに対して起こった出来事というのが今日の聖書の個所の前、13節14節に書かれています。

「夕方になると、うずらが飛んで来て、宿営を覆い、朝には宿営の周りに露が降りた。この降りた露が蒸発すると、見よ、荒れ野の地表を覆って薄くて壊れやすいものが大地の霜のように薄く残っていた。」うずらは分かりますが、朝、大地を覆う薄くて壊れやすい霜のようなものは見たこともありません。

それで今日の聖書の個所です、「イスラエルの人々はそれを見て、これは一体何だろうと、口々に言った。彼らはそれが何であるか知らなかったからである。」。「これは何だ?」ヘブライ語の聖書には「マーン・フー」と書かれています。この「マーン・フー」が転じてそれらは「マナ」と呼ばれることになります。彼らは「これは何だ?」を40年食べて暮らしたのです。

勿論、見たこともないから「これ、何?」と思っただけでなく、自分の願ったもの、自分の欲しいものとはちがったガッカリ感もあったと思います。彼らは体こそ自由になったけれど心はまだ自由とはなっていなかったのです。イスラエルは荒野で40年。自由への道は長く険しいものです。(牧師・田中伊策)

「恵みを通り過ぎないために」出エジプト記16章15節

「この人を見よ」イザヤ書52:13―53:12

今日の53章ですが、この時代はイスラエルがバビロニアに滅ぼされ、そして捕虜として連れて行かれている時代です。故郷を遠く離れて暮らす人々は自分たちの歩みを振り返り、悔い改めます。豊かさを求めて、強さを求めていた堕落し、そして戦いに負けてボロボロになった彼らは、「ああ、私たちは神から遠く離れた者となっていた。神の言葉をないがしろにして道を踏み外したんだ。私たちは神に立ち返ろう」と思うのです。「私たちは本当は小さな者だったのに、神の民などと言って、なにをしても神が守ってくれると思っていた」そう思うのです。「小さなまま神様に立ち返ろう。」

それはまるで70年前のこの日本のようです。アジアの片隅の小さな国が、その急激な発展の中で「天皇を中心とする神の国」みたいな勘違いの中で戦いに進み、そしてボロボロになったように。そんな中で作られたのが日本国憲法でありました。アメリカに作ってもらったか、日本人が作ったか、そんなことが問題ではなく、ここから私たちの国がどのように歩むべきか、日本国憲法はちゃんとその道筋を描いています。「平和を願い、共に生きよう」と。

捕囚の中にあった民もまた、自分たちが願うべき事、進みだすべき道を求め、そして言葉にしていったのです。今日の聖書の個所は正に、そのような言葉です。「見よ、わたしの僕は栄える。はるかに高く上げられ、あがめられる。」という言葉から始まるこの僕(しもべ)の姿はこれから新しく歩み出そうとしているイスラエルの姿そのものです。「わたしの僕(しもべ)」とは「神の民」ということ、イスラエルの姿そのものなのです。
(牧師・田中伊策)

「この人を見よ」イザヤ書52:13―53:12