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「言葉が暗闇を照らす」マタイによる福音書10章27節

「わたしが暗闇であなたがたに言うことを、明るみで言いなさい」

もうすぐ6年になろうとしている東日本大震災。その震災直後に北九州の東八幡キリスト教会の奥田知志牧師は東北に入り、「もっとも小さくされた者、谷間に置かれた人々へ偏った支援を行う」という方針で蛤浜(はまぐりはま)という小さな集落に行かれました。

『蛤浜は九軒しかない小さな浜で自衛隊も来ていませんでした。当時、支援は大きな街を中心に行われていたので、蛤浜のような小さな集落には誰も来ていなかったのです瓦礫だらけの集落でした。その集落の一番奥に集会所があって、二〇人ほどの方々がみを寄せ合いながら避難生活をされていました。九軒のうち五軒が津波で流されて、二人が亡くなっているという状況でした。(中略)

亀山夫妻が九州から訪ねた私を迎えて下さいました。亀山さんは、この集落の区長さんです。「私たちは今回の津波ですべてを失いました」と肩を落としておられました。その時、お連れ合いの昭子さんが、「ちょっと見てほしいものがある」と言って奥の部屋から絵手紙を持って出てこられました。それは九州から届いた荷物に入っていた絵手紙でした。巻物の手紙で、墨の字でいろいろと書かれていました。その真ん中にはクリスマスローズが描いてありました。そしてその絵の脇に、「今は涙が尽きませんが、いつか必ず笑える日が来ます」と書かれていたのです。

亀山さん夫妻は、「私たち、届いた荷物からこれを見つけて集会所でみんなで読みました。で、みんなで泣きました「わたしたちはすべてをこの津波で失いました。船も全部流されたんです。けれども今はこれで生きています」とその手紙をみせられるのですね。』
〔奥田知志『「助けて」と言おう』日本基督教団出版局,2012,p14-15〕

悲しくて立ち上がれない、先が見えなくて怖い、越えられない課題がある、そんな人生の闇を迎える時があります。そしてそんな闇の中で言葉が生きる力になる時があります。その時、既に言葉はともし火となり道の光となっています。(牧師・田中伊策)

「言葉が暗闇を照らす」マタイによる福音書10章27節

「そのけしからんがけしからん」マルコ9:38-50

「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、私たちに従わないので、やめさせようとしました」(38節)と弟子のひとりヨハネはイエス様に言います。イエスの名を騙っていけない事をしているように聞こえます。でも、きっとこの「悪霊を追い出している者」はイエス様が病気の人を癒しているのに感動したか、自分もイエス様に癒された経験があったか、した人だったのでしょう。それで、自分の周りにいた病人になんとか治ってもらいたいと思って「イエスの名によって命令する。悪霊よ、この人から出て行け!」と言ったんでしょうね。それを聞いていたヨハネが、「おいおい、お前なんぞ知らんぞ。誰から許可を受けてそんなことをしているんだ。それがしたかったら、まず俺たちの仲間になる事だな。それが出来ないなら、もうしないことだ」と言ったというのです。

それを聞いたイエス様は「ちょっと待てよ。良いじゃない。私の名前で癒そうとしてくれたんだから。それよりもなあ、ちょっと気になるんだけど『私たちに従わないので』というのはどういうこと?その『私たち』の中にボクは入っている?ボクはそんなこと言わないから、きっと『私たち』の中にボクは入っていないよね。ヨハネ君、君は彼をけしからんと思っているようだけど、そうやって誰かのために一生懸命になっている人の姿や癒された人の気持ちを大事にしない君がけしからんと思うよ」と言います。

「従うということは、そういうプライドだとか権威だとか、そういうものを脱ぎ捨てて私の道を進むということだよ。そういうものはなかなか脱ぎ捨てられないものさ。でも、新しく生きるんだろ?それなら断念しようよ。痛みと共に自分で切り捨てるんだ。それが従うって事だよ。自由になるってことだよ。そうでなければあなたはいつまでも苦しまなきゃならない。人を悪く思うその気持ちに自分が苛まれる。人に向ける刃で自分も傷つく。そういうものだよ。出会う人の喜びを共に喜ぶ。そうやって生きようよ。」(牧師・田中伊策)

「そのけしからんがけしからん」マルコによる福音書9章38-50節

「隠れたところに真実がある」マルコ9:33-37

「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである」(35節)
「私を信じる、私に従うってことは、そのまま小さなものを受け入れる。小さな者に仕えるということなんだよ。信仰っていうのはね、そこにおいて表されてゆく事であって、信仰的熱心さだとか、奉仕の量だとか、社会的地位の高さだとか、そんなことじゃない」イエス様ははっきり言われた、というのです。けっこうすごい事を言っています。

信仰とは神様に対しての熱心ではなく、小さな者に対しての熱心だ、って。でも本当だと思うんですね。イエス様は時々そういわれています、マタイによる福音書5章23-24節「あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。」礼拝に行く途中で、誰かとケンカしたままだったな、と思ったら、捧げ物をいちど祭壇の前において、仲直りに行って、それから戻ってきて捧げなさい、って。

これって、捧げ物よりも捧げる心が大事だよ、って言われていますよね。教会は教会、生活は生活、神様は神様、私は私、そんな信仰に何の意味があるの?って言われていますよね。信仰というのは生活から現れる、日常からあふれ出すものじゃないかって。

幼稚園で時々、避難訓練をします。火事とか地震とか。でも大事なのは訓練ではなくて、実際にそういう時に訓練通りに行えるかどうか、ってことです。訓練して安心していてはダメなんです。私たちが礼拝をするのは、神と共に日常を生きるためです。大事なのは神様に熱心になるんじゃなくて、愛と共に日常を生きる事です。「神は愛です」って聖書に書いてあります。だから、愛を持って歩むとき、そこに私たちは信仰を携えている。それが問われているのです。逆に言うと私たちが日常をどう生きているかが、信仰ににじみ出て来るということです。(牧師・田中伊策)

「隠れたところに真実がある」マルコによる福音書9章33-37節

「再び会うために遠い約束」マルコ9:30-32

イエス様の受難告知(31節)に対して「弟子たちはこの言葉が分からなかったが、怖くて尋ねられなかった」(32節)という言葉は、イエス様の受難の告知が、弟子たちとイエス様とが決定的に引き離された出来事だったということを伝えています。言い換えると、この受難告知はイエス様からの別れの言葉だったのです。ここから私とあなた方は別の道を進むよ「さようなら」という別れの言葉です。

しかしそれは決して弟子たちを捨てる出来事ではなく、むしろもう一度、彼らと再び会うための約束の言葉です。そしてその再会の場所こそがエルサレムのはずれ、ゴルゴタの丘の十字架です。彼らはそこで自分の闇と出会う事になります。それは同時に光との出会いでもあります。闇を闇と認識させるのは光の存在が必要だからです。エルサレムの闇、弟子たちの闇、そして私たちの闇を照らすために、イエス様は来られました。闇の中でうずくまるのではなく、その闇に光を当て、私たちを迎えられる光としてイエス様は来られました。

言葉は不自由です。愛という言葉すら自分中心で考え、信仰という言葉すら自分を高めるものとしてしまう私たちに対して、神は言葉を越えて、イエス様の姿を通して、歩みを通して、十字架を通して、その愛の大きさを示して下さったのです。

「さようなら、ここで私はあなたがたと別の道を進みます」。でもそれは十字架で出会うための約束の言葉です。その約束さえ分からない弟子たちとイエス様との距離は遠い、あまりにも遠い。しかし、その遠い約束を越えて、隔たりを越えて、私たちの闇に光を注がれる神様の愛の大きさに出会えた時「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する」というイエスの言葉が成就するのです。

(牧師・田中伊策)

「再び会うために遠い約束」マルコによる福音書9章30-32節

「鶏が告げる朝」ルカ22:54-62

「クリスマスが終わったら正月」これは毎年のことなのですが、今年は本当にそうですね。12月24日が土曜日、12月25日が日曜日、1月1日も日曜日。教会関係の人はみんな言っています、「今年は日程が悪い」。でも、それは非常に疲れるという意味であって、本当はとても良い日程だと思います。何故ならクリスマスの日に礼拝が出来て、新しい年の始まりも礼拝が出来るからです。

聖書の箴言19章21節には「人の心には多くの計らいがある。主の御旨のみが実現する。」とあります。口語訳という訳では「人の心には多くの計画がある、しかしただ主の、み旨だけが堅く立つ。」とあり、私はこの訳が好きです。

「こうなったらいいな、こういう年にしたいな」と私たちはいろんな計画や理想を描きます。それはそれで大事です。目標とか希望とかを持って進む方が良い。でも、なかなか、願った通り、思った通りにいかないものです。それは神様を信じていてもそうです。

教会の歩み、幼稚園の歩みを振り返ってもそうだったと思いますし、個人や家族、学校や職場での歩みもそうでしょう。なかなかうまくゆかない。そして、そういう時にこそ、私たちの信仰が問われます。そしてこの「人の心には多くの計画がある、しかしただ主の、み旨だけが堅く立つ。」という言葉は響いてきます。

この一年の始めに、いつ帰ってきても良い場所、いつも「おいで」と言ってくれる場所、日曜日のこの時間に来たら誰かいてくれる場所、そして神様を礼拝する場所で私たちは共に私たちの歩みの基、生活の土台を確認して歩み出したいと思います。

(牧師・田中伊策)

「鶏が告げる朝」ルカによる福音書22章54-62節