月別アーカイブ: 2017年2月

「握った手を開く」マルコ10:17-22

イエス様が旅に出かけようとしていましたら、ある人が走ってきます、「まってくださ~い!」。そしてイエス様のところまで来ますと彼はイエス様の足元にひれ伏して「善い先生…、永遠の命を…、受け継ぐには…、何をすれば…、よいでしょうか」、息を切らしながらと尋ねます。きっと一生懸命に走ってきたのでしょう。まじめな人だったのだろうと思います。「永遠の命を受け継ぐ」なんだか難しい言葉です。

「受け継ぐ」というのは、例えば「先祖代々受け継いできたこの家」とか言ったりします。お父さんも、おじいちゃんも、そのまたおじいちゃんも住んできたこの家が今度は私が大切にする、次、次と手渡しして私にたどりつく、そういうことを「受け継ぐ」と言います。何を受け継ぐか、というと「永遠の命」。永遠ということは終わらない、ずーっと続くということです。ずーっと続くのであれば、ずーっと自分が持っているはずですから、手渡ししないはずなのですが、それを引き継ぐ、つまり、ここで言う「永遠の命」というものは自分ひとりで持っているものではなく、お父さんが大事にした気持ちを、私が大事にし、そして子どもにも大切にしてもらいたい、この場所でこれからもずっとずっと、私の子どもも、その子どもも、そのまた子どもも暮らして欲しい。命がいつまでも永遠に受け継がれてゆく、それが「永遠の命を受け継ぐ」ということです。

私が幸せになり、私の子どもも幸せにここで暮らして欲しい、そのためにはどうしたら良いのでしょうか?と尋ねているのです。非常に家族思いの優しいひとなのですね。

それに対してイエス様は「行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい」と言われます。受け継いだものを売り払い施せ、それは分かち合うという事です。もし、本当にあなたの子に「命」を手渡したいなら、それは富を手渡すのではなく、共に生きる事を手渡しなさい。助け合う関係を作って、その中で子どもが安心して生きられるようにしなさい、そうイエス様は語られるのです。人間は神との関係、人との関係に生きる生き物だからです。(牧師・田中伊策)

「握った手を開く」マルコによる福音書10章17-22節

「春にして君を想う」ルカ3:1-6

二月になると、あちらこちらで蕾の綻んできた梅の花を見かけるようになります。寒空の下で可憐に咲く梅の花のいじらしさに、心惹かれる人も少なくないでしょう。私もその一人であります。永い冬の寒い日々に飽き飽きしてくるこの季節の中で、梅の花が咲き始めるのを見ますとき、もう春も近いのだな、と感じます。梅の花は私たちに、冬の終わり、春の近きを教えてくれます。

私は梅の花を見る度に、毎年、洗礼者ヨハネのことを思い出します。ヨハネは人々に、神の御国が間もなく訪れること、神の御子イエス・キリストが間もなくやって来られることを告げ知らせました。神の御国、神の御子がもう近くまで来ている、と。神の御子をお迎えし、神の御国の到来に備えるために、罪を悔い改め、バプテスマを受けることを人々に語り伝えたのでありました。それはまるで、冬の終わり、春の近きを告げ知らせる梅の花のようだと、私はいつも想うのであります。そして、神の国、神の御子イエス・キリストの到来は、花盛りの春の訪れのように感ぜられるのです。

春は命の季節、復活の季節であります。今まで、永い冬の寒さを耐え忍んできた生き物たちが、春の訪れと共に目覚め、芽吹き、その蕾を綻ばせ、花開きます。冬には枯れているように見えた木々もまた、再び若葉の爽やかな緑を取り戻し、生き生きとした姿を見せてくれるようになります。苦しみの中にある人たち、悲しみの中にある人たち、孤独の中にある人たち—永い冬を耐え忍んできたすべての人たちにとって、イエス・キリストの到来は、冬の終わり、春の訪れを意味しています。イエスは冬を耐え忍んできた人たちのかじかんだ手を温め、ほぐし、永遠に共に居てくださることを約束してくださっています。

どうか、寒い冬のように心細く、頼りない想いで日々を過ごしておられる方々の上に、春の如きイエスの温かな愛が訪れ、その心の雪を溶かしてくださいますように。アーメン。(香月太郎神学生)

「春にして君を想う」ルカによる福音書3章1-6節

「神の国の懐」マルコ10:13-16

イエス様は「子供のように神の国を受け入れる人でなければ、けっしてそこに入ることはできない」(15節)と言われます。この言葉をこれまでキリスト教は「子どもが神の国を受け入れるようにあなたも神の国を受け入れなさい」つまり「神様を受け入れる」という観点から読んできたように思います。しかし、この言葉は「子どもを受け入れるように神の国を受け入れなさい」という、「小さなものを受け入れる」事の大切さから読んでゆく言葉なのだと思います。その小さな者を受け入れる時にそこに神の国は生まれるということ。

漫才のコンビで中川家という人たちがいます。お兄さんの剛さんと弟の礼二さんの兄弟で漫才をしているので中川家。この二人が舞台で漫才をしていたのですが、その時に前の方の席にお父さんと赤ちゃんがいたそうです。で、その子が泣きだしてしまいます。

お父さんがあやしても泣き止まない。それで邪魔になるということで席を立ったのですが、その時に舞台の上で漫才をしていた中川家の礼二さんが「出て行かなくていいよ。そんな良い席なのに。赤ちゃんは泣くのが仕事だから」って声をかけ、ステージに呼んで赤ちゃんを抱っこして、お兄さんの剛さんが犬や猫のものまねをして泣き止ませたそうです。

インターネットで「中川家 神対応」で検索したらわんさか出てきます。まさに神対応だと思います。きっとその時、そこに神の国があったのだろうなぁ、って思います。その子どもの泣き声が受けいれられたとき、そこにいたすべての人が神の国を経験したのだと思います。それは一緒にその場所にいなければ経験できない神の国です。

一緒に礼拝するってそういう事なのだと思います。幼子が受け入れられるということは、お母さんやお父さんが受け入れられるということ、そしてそれはそのまま小さな私が受け入れられる、ということ。一緒に神の国の懐の広さ、深さ、温かさを喜びたいと思います。(牧師・田中伊策)

「神の国の懐」マルコによる福音書10章13-16節

「破れの先にある赦し」マルコ10:1-12

朝日新聞の一面には鷲田清一さんが見つけた言葉とそれについてのコメントを載せた「折々のことば」という欄があります。2017年2月3日(金)にはこんな言葉と文章が掲載されていました。

『畏れると恐れるとのちがいを若い人は知っていない。(遠藤周作)
若い人というより時代の問題なのだと思う。「恐れる」とは、強大な威力を前にして怯え、縮こまること。「畏れる」とは、自分をはるかに凌駕する存在を目の当たりにして震撼し、おののくこと。人々はいつ頃からか、自分を超えたものがなす審判に身をさらすことを拒むようになった。が、そのことで自らに厳しい要求を課すこともなくなった、作家の「勇気ある言葉」から。』2017・2・3

キリスト教ではよく「赦し」という言葉が出てきます。特に言われるのは「あなたの罪を赦すためにイエス様は十字架にかかられました」という言葉。この言葉にあるように「赦し」と「罪」とはセットです。つまり「罪」とか「弱さ」があって初めて「赦し」があるのです。ここで上記の「畏れ」とつながって来るのですが、「自分を超えたものがなす審判に身をさらす」事をした者、つまりその審判によって罪や弱さが露わにされ、そしてその罪や弱さを認めた者が初めて赦される(赦しに気づく)のです。

イエスは時に厳しい事を言います。『妻を離婚して他の女を妻にする者は、妻に対して姦通の罪を犯すことになる。夫を離婚して他の男を夫にする者も、姦通の罪を犯すことになる』(マルコ10:12)。こんな言葉があるからキリスト教の中でも離婚の禁止を主張するグループがある訳ですが、むしろ、今の行き詰まり(もう一緒に歩めない事)を認め、「自分を超えた者の審判に身をさら」し、神の赦しの中で新しく歩みだすんだ、って言っておられるのだと思います。こんなプライベートの中にも神様の光を当ててゆくことが求められているのだと思うのです。(牧師・田中伊策)

「破れの先にある赦し」マルコによる福音書10章1-12節