月別アーカイブ: 2017年3月

「新しい出発へと」創世記12:1-4

本日は田隈教会の皆様と共に2016年度最後の礼拝を捧げられることに、そして説教のつとめを託してくださったことに心から感謝いたします。また田隈教会の皆様のお祈りとお支えによって、神学部初年度の歩みが終えられることにも、心から感謝申し上げたいと思います。来年度から私は早良教会へと研修の場を移しますが、田隈教会のことをいつも覚えて祈っていきたいと思っています。

子供たちは三月で去年の四月から始まった一年間の歩みが終わって、来月からまた新しい一年間の歩みが始まると思います。幼稚園の組が変わったり、卒園して小学校に行ったり、小学校の学年が上がったり、そして小学校を卒業して中学校に行ったり…。四月は新しい始まりのときです。新しいことが始まることにワクワクする気持ちもあれば、ちょっと不安だなぁとか、心配だなぁ思う気持ちもあると思います。

今日の聖書のお話の中にも、同じような不安や心配を抱えた人が出てきます。アブラムという人です。あるとき神様は、アブラムに言いました。「アブラム、今からあなたは自分の生まれたところから離れて、私の示すところに行きなさい」。神様から突然このように言われて、アブラムはきっと驚いたことでしょう。

アブラムはずっとその場所で暮らしてきて、周りは皆知ってる人ばかりだし、どこで食べ物が手に入るかも全部わかる。住み慣れたところから離れて、わざわざ誰も知らない、何もわからないところに行きたくない、と思ったかもしれません。目的地も知らされずに、どこかへ行くことほど、不安なことはありません。目的地に着くまではどのくらいの時間がかかって、その道のりはどんなものなのか、険しいのか、緩やかなのか、またそこにはどういう人たちがいるのか、そうゆうことが前もってわからないと私たちは不安になります。神様のこの呼びかけに、アブラムはとても不安で心配になったことでしょう。

でも神様はアブラムにこうも言われました。「わたしはあなたを祝福する。」祝福というのは、神様が恵みを与えてくださるということです。そしてよい方向に導いてくださるということです。この祝福するという約束を神様はアブラムに約束しました。神様がアブラムを祝福の中に招いてくださったから、アブラムは自分の知らない場所、何もわからない場所へと出発していくことができました。そしてその祝福の約束はイエス様を通して、今を生きる私たちにも届けられているのです。(川久保拓也神学生)

「新しい出発へと」創世記12章1-4節

「愛する道を進みましょう」 コリントⅠ 10:13b

「神は真実な方です。あなた方を耐えられないような試練に遭わせられることはなさらず」とあります。私たちが生活する中で、困った事、苦しい事があったら、それは神様が「お前にはこれを耐えられはずだ。このわたしを超えて行きなさい!」っていう事なのでしょうか?そうだとしたら、神様ってイジワルだと思いませんか。わざと大変なことを起こして困らせようとするなんて。

じゃあ、どうして私たちには時々、困ったことや悲しい事が起こるのでしょうか。誰もケンカがしたい、人の悪口を言いたい、意地悪したい、なんて最初から思わない。でも、相手の事が分からなかったり、考え方が違ったり、なかなか思ったことが伝わらなかったりするから、だんだんイライラしたり、喧嘩したり、「もう知らない!」って思ったりするんですね。それは私とあなたは違うから。それは神様が一人ひとり違う人として神様が作られたから。私たちは神様の手作り。だから一人ひとり違う。私と違うあなただから、考え方も違う。出来る事も違う。だから、時々けんかもする。実は、試練というのは生きることそのものです。

でも神様は私たちがそれでも一緒に生きる道を作って下さっています。それが「愛する事」です。相手を大切に思う、仲良くしようとする、分け合って一緒に食べる、それが愛するって事です。そして光の園ってそういう所だったと思います。教会もそうです。神様は私たち一人一人を大切にしてくれている、愛してくれている。だから、私たちもそうしましょう。それが光の園幼稚舎、そしてそれが田隈バプテスト教会です。この教会に毎週集まって礼拝するのはそれが嬉しいから。光の園に毎日集まって来たのはそれが楽しいから。教会では、神様を礼拝して、そして礼拝から私たちが暮らしている場所に帰ってゆくのです。同じように、光の園からおうちに帰ってゆくのです。新しい一週間の始まりです。そして新しい歩みの始まりです。愛する道を進んでゆきましょう。(牧師:田中伊策)

「愛する道を進みましょう」
コリントの信徒への手紙Ⅰ 10章13節b

「起きていられるのなら...」マタイ24:42ー44

神の国(イエスさまがもう一度来てくれる時)も、いつ、どこに、どんな形でやってくるのかわかりません。イエスさまは、いつくるかわからない神さまの出来事を泥棒がやってくる譬えで語られます。神さまと泥棒は、まったくかけ離れた存在です。この話を聞いていた人たちは、神さま?泥棒?何だろう?と思ったにちがいありません。急に泥棒がやってくるように、きっと、神の国は、わたしたちのいつもの生活の真っ最中に急に来るということをイエスさまは言いたかったのかもしれません。

神の国は、いつ来るかわからないからこそ、いつ来てもよいように、「目を覚まして」おく必要があるのかもしれません。でも、私たちは、24時間365日、「目を覚まし」続けることはできません。眠らないと生きてはいけないのです。目を覚ましてないさいとイエスさまはおっしゃいますが、弟子たちだって、居眠りをしてしまうのですから、私たちはどれだけ頑張っても眠たくなってしまうのです。私たちは、イエスさまの言葉に忠実であろうとしても、その言葉をどうしても守れないときもあるのです。そんな弱いわたしたちに、イエスさまは、『忠実であろうとしても、どうしてもできないことがあるのだということを「わきまえて」いなさい』と教えてくださいます。

イエスさまは、「ず~っと起きておくことはできないことはわかっているよ。だから、自分の内にある弱さを認めることが大切だよ」と語り掛けてくださいます。弱い私たちが、いつも神さまに向き合い続けることができるために、イエスさまはわたしたちと共にいてくださるのです。そして、励ましてくださっています。イエスさまと一緒の歩みは、毎日の生活の中で神さまを感じる歩みでしょう。神の国がいつ来るかわからないからこそ、イエスさまとの歩みは、私たちにとって必要なものでありましょう。そして、イエスさまと歩むからこそ、「あ、これが神の国かなぁ~」と気付くことができるのです。

(広木愛神学生・長住バプテスト教会)

「起きていられるのなら...」マタイによる福音書24章42-44節

「人には手放せないものがある」マルコ10:23-32

私たちはいろんなものを人生の柱としています。仕事、経験、努力、知識、肩書、資格、そしてお金。それを支えにしてここまで生きて来たのだろうと思います。時には憎しみさえ支えとしている時さえあります。私たちは何かを握りしめていないと心配です。

それに対してイエス様は言われます、「お金、知識、経験、努力、肩書、資格、そして武器。そんなに抱えて、あなたはどこに行こうとしているの?その先に、本当に幸せはあるかなぁ。神の国はあるかなぁ。そんなに抱えては入る事は出来ないよ。手を開いてごらん。手放してごらん。大丈夫だよ。私はいる。そんなもの無くても私はあなたを愛している」。

しかしそれなら、あの金持ちはイエス様の言葉で手放す事が出来なかったのはどうしてでしょう。それはまだイエス様が十字架にかかられていなかったからです。このイエス様の十字架を知らなかったからです。イエス様は私たちの罪のために、十字架にかかって下さった。「罪」というのは「犯罪」ということだけではありません。必死に握りしめて、物に頼り、自分に頼り、愛を知らず、受け入れずにいる状態です。

恐れ怯えて必死に何かを抱えて自分を守り、怒り、悲しみ、裁く、そういう生き方に飲み込まれている事を罪というのです。イエス様はその十字架を通して「そのあなたの罪を私は抱えよう。わたしはあなたを愛しているよ。あなたは神様から愛されているよ」と伝えています。

「人間に出来る事ではないが、神には出来る」。愛だけが、その罪を手放す力になるのです。自分では手放すことの出来なかった私たちを神はイエス様を通して自由へと導かれます。
(牧師・田中伊策)

「人には手放せないものがある」マルコによる福音書10章23-32節