月別アーカイブ: 2018年12月

「マルタとマリアの信仰」ルカ10:41-42,ヨハネ11:17-27

2018年も明日をもって終わります。12月は、何かと慌ただしい時でもあります。聖書の中で、「忙しい女性」といえば、マルタが、まず浮かんでくるのではないでしょうか。マルタとマリアの姉妹の二つの物語は、私たちに何を問いかけているのでしょうか。

 ルカによる福音書(10:38~42)では、イエス様をもてなすために、一所懸命に食事の準備をするマルタに対して、マリアは、イエス様の足もとに座って、話しを聞き入っています。マルタは、イエス様にマリアに手伝うようにとお願いします。それに対して、イエス様は、「あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない」とマルタを諭します。

 ヨハネによる福音書(11:1~37)では、ラザロが亡くなった後に来られたイエス様を迎えたマルタは、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。」と文句を言います。しかし、続けて「あなたが神にお願いすることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」とイエス様からの慰めがあることへの期待と願いを込めます。そして、イエス様から、「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」の問いかけに、「主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております」と信仰告白します。一方、マリアは、イエス様に会うと、マルタと同じ言葉で、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と文句をいって、後は、一緒にいた人達と泣くばかりです。

 この二つの物語から私たちは、マルタとマリアの姉妹をどう見たらよいのでしょうか。マリアは、何よりもまず、イエス様の御言葉を聞こうするとする人です。信仰者として大切な姿勢であることは間違いありません。一方マルタは、イエス様を信頼し、この世の煩いに積極的に立ち向かう人です。そして、いつもイエス様を迎えいれ、仕えているのです。

私は、マルタのように、イエス様を積極的に迎え入れてこそ、神様との生き生きとした対話ができるのだということに気づかされました。そして、イエス様に仕えるように、小さい人々にも積極的に仕えていくことが必要なのだと。イエス様は、私たちに大事な掟として、「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」「隣人を自分のように愛しなさい」と示されました。イエス様は、常に自分を迎え、仕え、対話をするマルタと、イエス様の話を何よりも聴こうとするマリアを愛されたのです。私たちもこの姉妹のように、イエス様の御言葉を聞き、迎え入れ、仕えていこうではありませんか。アーメン
(篠田裕俊)

「マルタとマリアの信仰」
ルカによる福音書10章41~42節
ヨハネによる福音書11章17~27節

「明るいからこそ見えなくなるものがある」マタイ2:4-12

イエス・キリストの誕生の出来事についてマタイによる福音書では「占星術の学者」が大きな役割を果たします。東の国で新しい王の誕生を示す星を見つけてイスラエルにやってきます。しかし、そのことを首都エルサレムの人々は誰も知りません。むしろ「不安に抱いた」(3節)と記されています。それでも祭司や律法学者から「聖書によるとそれはベツレヘムです」という言葉を聞き出発しようとするのですが、その時に王ヘロデは「見つかったら教えてくれ。私も拝みに行きたいから」と言います。しかし、「この国に二人の王はいらん。私だけが王なのだ。見つけたら殺してやる」というのが本意なのですが、そんなことは知らずに占星術の学者は星に導かれて幼子を探します。

しかし、ヘロデはどうしてわざわざ占星術の学者の帰りを待ったのでしょう。結果、この学者たちは天使のお告げによって占星術の学者は別の道を通って帰ってしまい、待っている間にイエスとヨセフ・マリアはエジプトに脱出してしまいます。外国人がこの幼子を見つけられるくらいだから、ヘロデ王だったら自分の部下や兵士を総動員してすぐに幼子イエスを見つけられただろうに、と思ってしまいます。

ところがそうではありません。占星術の学者だからこそ幼子イエスを見つけられたのだと聖書は語っています。東の国とは今のイラン・イラク辺り、旧約時代にはバビロニア帝国とかアッシリア帝国があった国です。戦いに明け暮れ、没落した場所です。彼らは闇の時代を迎えた中で光を求めていたのです。占星術の学者はそんな闇の中で星(光)を見つけます。逆にエルサレムの人々は煌びやかで賑やかな世界にいました。権力・名声・富・力、そんな眩しい光の中にいる人々が小さな光を見つける事など出来ません。

明るい中では決して見えない、闇の中でこそ見ることができる光。守ってもらわなくては育たない、それも泣く事でしか助けを求められない小さな命、実はそれは私も同じ。そしてそれを尊いとする神。そのしるしこそがイエス・キリストです。(牧師:田中伊策)

「明るいからこそ見えなくなるものがある」マタイによる福音書2章4-12節

「休日、突然の来客に慌てる」マタイ2:1-3

東の国から三人の占星術の学者がイスラエルの首都エルサレムにやってきます。彼らは「見慣れない星を見つけ、調べたらイスラエルに新しい王様が生まれたと出たので拝みにやって来た」と言っています。それに対して王や町の人の反応について聖書は「これを聞いてヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった」(3節)と記しています。

ヘロデ王(現在の王様)が不安になるというのはよく分かります。「自分はどうなってしまうのか。王でなくなってしまうのか!嫌だ、俺は王様のままでいたい」って思うでしょう。そして、信仰っていうのはそういう事です。今まで「自分で考えて」「自分で決めて」「自分で責任を取って」と人生の真ん中に自分を置いていた、つまり自分の人生の王様に自分を据えていたけれども、神様を信じるってことは「神様に信頼し」「神様に委ね」「神様に責任を取ってもらう」事であり、新しい王様を迎えるということなのです。

勿論、「自分で考え」「自分で行動する」という事には変わりありません。神様を信じてお祈りしているだけでテストで100点取れるなんてことはないのですから。大切なのは、神様の示す道、イエス様が進まれた道の中にこそ私たちの人生の「幸い」があるって信じて進む事です。それが信じる事なのです。

でも、それがなかなか難しいし怖い、不安になって当然です。さて、ヘロデ王については分かりましたが、町の人まで不安を抱くってどういう事でしょう。これは譬えるならこういう事です。休日ということで家でラフな格好でくつろいで(さらに昼間っからビールなど飲んで)いたら突然「ピンポ~ン!(とかブー!とか)」と呼び鈴が鳴ったら「えっ?何?誰?なんで?」って慌てますよね。

宅配便とかならまだいいですけど、お客さんとなったら(来るんだったら連絡くらい頂戴よ。片付けだってしておいたのに)って思いますよね。そういうことです。「来るんだったら連絡くらい頂戴よ」というのは、普段着からよそ行きの服に着替えるということ、言い換えると見られても構わない自分になる、ということです。

ところがその準備もしていない時にお客さんが来るから慌てるのです。これも同じで信仰というのはそういう自分を神様に隠さない、という事でもあります。でも、すべてを知って下さり、かつ愛して(赦して)下さっているのが神様です。このよそ行きでない普段着の自分、本当の自分に神様をお迎えする、つまり客間でなく自分の部屋にイエス様をお招きする事が信じるということです。

ただ、それが難しいから「不安を抱く」のだけれど、それが出来たら人生豊かになるのだけどなぁ。(牧師:田中伊策)

「休日、突然の来客に慌てる」マタイによる福音書2章1-3節

「愛が勝っちゃった」マタイ1:18-25

ヨセフは婚約者であるマリアの妊娠を知ります。それはヨセフにとっては身に覚えのない婚約者の妊娠でした。彼は「正しい人」だったと聖書には書かれています(1:19)。

「正しい」というのは「旧約聖書の戒めに忠実」だったということです。ヨセフは「私と婚約したマリアは既に結婚していると同じ扱いとなる。そうしたらマリアの妊娠は姦淫の証拠とされてしまう。そうなればマリアは死刑だ(レビ記20:10)。

話が広まる前に婚約を破棄すれば、彼女の妊娠は姦淫とはならない。婚約破棄にしよう」そう思いました。そう決心した日の夜、ヨセフは夢を見ます。「ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである」。

この夢によってヨセフは考えを変え、マリアとの結婚とそのお腹の子を自分の子として受け入れる決心をしました。

しかし、これだけだとヨセフとマリアの結婚は「神様が結婚しなさいと言ったから」とか「その子は救い主だから」という理由になり、ヨセフはただただ「正しく」「真面目な」だけの人間でしかありません。「だからヨセフがイエスの父として選ばれたのだ」と言われればそうかもしれません。

しかし、私はヨセフが父として選ばれた理由は真面目さではなかったと思うのです。夢は夢として重要な意味としてあったでしょう。しかし、それは彼の内にあった真面目さや正しさ以外の思いに突き刺さったのだと思います。

それはマリアへの愛です。ヨセフは考えて真面目さや正しさを選ぼうとした。

でも、それ以上にマリアを愛していた。彼に与えられた夢は「お前はマリアを愛しているんだろ?だったら律法なんて越えちゃって、正しさなんてすっ飛ばしちゃって結婚しろよ。愛するマリアを子どもごと包んでやれよ!」って夢だったのだと思うのです。

天使の言葉はマリアへの愛があったから響いたし、結婚へと踏み出させたのです。正しさよりも愛が勝っちゃったヨセフ。それはそのまま私たちの愚かさよりも神の愛が勝っちゃって私たちが救われるのと同じです。(牧師:田中伊策)

「愛が勝っちゃった」マタイによる福音書1章18-25節

「名もなき意味」 マタイ1:1~6

マタイによる福音書1章1節には次のようにあります。「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図」。

「アブラハム」というのはイスラエル民族の始まりの人物です。そして、そこからイスラエルの最も偉大な王と言われたダビデとつながり、そしてイエス様へとつながっている、そういう系図。そして、1章6節「エッサイはダビデ王をもうけた。ダビデはウリヤの妻によってソロモンをもうけ、」はその偉大な王ダビデの事が書かれている個所です。しかし、ちょっとややこしい書き方をしています「ダビデはウリヤの妻によってソロモンをもうけ」。このややこしい一文は、このイエス・キリストの系図に波紋をおこします。そもそも、系図の意味は「由緒正しい血筋の証明」です。しかし、この一文はその意味を否定しているからです。

ダビデ王はある日、一人の美しい女性を見初めます。ダビデは部下にその女性の素性を調べさせ、彼女がウリヤという兵士の妻のバト・シェバという人物であると聞き、部下を使って彼女を王宮に連れて来させ、我が物としてしまいます。しかし、問題はそれで終わりません。彼女は妊娠してしまうのです。それを知ったダビデはウリヤを戦いの激しい場所に送り、戦死させてしまいます。その後、ダビデは彼女を妻として迎えるのです(サムエル記下11章)。

あえて系図にこのスキャンダルを想起させる書き方をしたのは、「由緒正しい血筋の証明」をするためではなく、系図では見えないものが人生の中、人の世にはあるということを語り、一人ひとりの人生は多かれ少なかれ、破れや解れがあるのだと語っています。系図なんてそんなもの、人の世というのはそういうものだ、って語っているのです。

では、それでも記す系図の意味はどこにあるのでしょうか。そのような悲しみ多い、罪に満ちた人の名の記された系図に何の意味があるのでしょうか。大切なのはここです。「何の意味があるの?」「何の価値があるの?」と思うような人の世を貫いて神はそれでも人を愛し、その人の世にイエスを与えられた、そこにこの系図の意味はあるのです。この系図は「由緒正しき血筋の証明」ではなく「にもかかわらず変わらない神の愛の証明」(名もなき者を見捨てず、目を注ぎ愛を注ぐ神の愛の証明)なのです。そして、「バト・シェバ」をあえて「名もなき女性」(ウリヤの妻)とした系図は、権力者がどれだけこのバト・シェバの人権を無視してその人生を蹂躙したかを表すと共に、歴史の中に微塵も出てこない一人ひとり、世界の歴史には何の意味も持たない一人ひとりの人生のエピソードを捨てずに抱えて下さる方の誕生を意味しています。(牧師:田中伊策)

「名もなき意味」 マタイによる福音書1章1節6節