月別アーカイブ: 2019年2月

「かみさまのいうとおり」 ルカ10:38-42

有名なマルタとマリアのお話です。

イエス様をもてなそうとしていたマルタでしたが、イエス様の足元でイエス様のお話を聞いていたマリアを見て、マルタはイエス様に言います、「何ともお思いになりませんか?」。ここにはマルタの「私を手伝うことが正しい事」という思いと「それをイエス様は促すべきだ」という思いがあります。言い換えると「マリアが話を聞くままにさせ、マリアを手伝うように促さないイエス様は間違っている」と彼女は思っているのです。そしてイエス様を「わたしのいうとおり」にさせようとしています。でも、従うとか仕えるとかいうことは「かみさまのいうとおり」にすることです。純粋な「仕える思い」と「忙しさ」、「マリアへの思い」「イエス様への不信感」そのような様々な思いを持ったマルタにイエス様は「多くの事に思い悩み、心を乱している」と諭されるのです。

たくさんの箱を持とうとしたら前が見えなくなります。横しか見えなくなります。きっとね、マルタは最初「イエス様のために」という一つの箱だけ持っていたのです。その時はイエス様がちゃんと見えました。でも、忙しい、大変だ、寂しい、マリアったら、って箱を重ねて持ってちゃんとイエス様が見えなくなっちゃったのです。

でも、それをイエス様はちゃんと分かっています。だからイエス様はマルタさんに「マリアが持っている箱は一つだけ。だからちゃんと私を見ている。マルタさん、その重ねた箱を下ろしてごらん。そして最初に持ち上げた箱だけ大事になさい。大丈夫だよ。私はあなたの心をちゃんと知っている。あなたの尊い私への気持ちは届いているよ」って言っておられます。イエス様は「私の前のその荷物を下ろしなさい。そしてしっかり私を見なさい」そう言っておられます。(牧師:田中伊策)

「かみさまのいうとおり」 ルカによる福音書10章38-42節

「私達の間に宿られた恵み」 ヨハネ1:14-18

ヨハネは、この方について証しをし、声を張り上げて言った。「『わたしの後から来られる方は、わたしよりも優れている。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのはこの方のことである」」(15節)とあります。バプテスマのヨハネはイエス様よりも先に人々に神の国を語り、やがて私よりも優れた方が来る、と言いながら、同時にこの方は私よりも先におられたと言います。

「後から来る方は、わたしよりも前におられた」というのは不思議な言葉です。これはつまり、神様は私たちよりも前におられる。私たちの命よりも先にあり、愛し、選んで命を与えられた方です。このすべてに先立っておられる神様を正しく伝えるのは私よりも後から来るイエスだ、と言っているのです。

この「わたしの後から来られる方は」「わたしより先におられた」、この言葉は「わたし」の後と先を挟んでいます。つまり、私たちは神様の恵みに挟まれている。生まれる前から死に至るまで、いえ、その先まで私たちは神様の恵みの中にある。私たちを後ろからささえ、私たちを前から導く方。私たちの真ん中におられる方は私たちを恵みによって挟んでいます。

それだけではありません。「わたしたちは皆、この方のみち溢れる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた」とあります。わたしたちの上にてんこ盛りに恵みを加えて下さる方だ、というのです。私たちは神を知らなかった時から神様に愛され、恵みを受けていたけれど、その方を知った時、イエス・キリストによってその恵みの大きさに圧倒されます。

私たちのうちにイエス・キリストが宿る時、前にも後ろにも神の愛に挟まれている事を知り、そして上にも神様の恵みが積み重なるように与えられた、というのです。私たちの内におられる神は、前にあり後ろにあり、そして上におられる。私たちは恵みに「囲まれている」というのです。(牧師:田中伊策)

「私達の間に宿られた恵み」ヨハネによる福音書1章14-18節

「光だけが残る」ヨハネ1:6-13

バプテスマのヨハネという人物について、マタイによる福音書3章1-3節ではこう書かれています。“そのころ、洗礼者ヨハネが現れて、ユダヤの荒れ野で宣べ伝え、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言った。これは預言者イザヤによってこう言われている人である。「荒れ野で叫ぶ声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ』」”

ここにはヨハネの事を「荒れ野で叫ぶ声」だと言っています。声というものは通り過ぎてゆくものです。今は録音とか出来ますけれど、声自身は発せられて響いて消えてゆくものです。そして心の中に言葉だけが残るのです。同じようにヨハネはイエス様を指示し、そして通り過ぎてゆく、去ってゆく。残るのはイエス様だけ。聖書がヨハネを「荒れ野で叫ぶ声」と言う表現は見事だと思います。この「荒れ野で叫ぶ声」はヨハネの人となり、ヨハネの生き方をそのまま表す言葉です。

そして、それこそが「証し」だと思います。証し、というのは、私たちの生活の中の出来事を通して神様がこのように働いて下さった、神様の愛を知ることが出来た、というそういうお話です。教会関係の集まりの中で、また教会員同士の中で「証し」がなされることがあります。でも、聞いていたら証と言いながら「私こんな経験をしたんです」とか「この間、こんなことがあったんです」で終わる話も少なくありません。そういう時は「私が、私が」というところに中心があるのです。「私の」一生懸命さを、「私の」熱心さを、「私の」祈りを神様は聞いて下さった。しかし、証と言うのは、最終的には私は消え、神様の恵みだけが残る、そういうものを証と言うのです。神の言葉だけが残る、イエス様だけが残るヨハネの声のようなものが。そうでないと私を誇ることになり、最終的には、こんなに祈ったのだからこうなるべき、と知らず知らずのうちに私が神になってしまいます。証というのは私が「通り過ぎる声」になる事、そして神様の言葉だけが、神様の愛だけが、注がれた光だけが残ることを喜ぶ事です。(牧師:田中伊策)

「光だけが残る」ヨハネによる福音書1章6-13節

「愛の目印」ヨハネ1:1-5

1:1 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。
1:2 この言は、初めに神と共にあった。
1:3 万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。
1:4 言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。
1:5 光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。

「初めに言があった」、この「言」という字は「言の葉」ではなく「言」という一文字で記してあります。これは、単に「原語」とか「言葉」という意味ではありません。

新約聖書が書かれたギリシア語では「ロゴス」という単語が使われているのですが、このロゴスにはたくさんの意味があります。「言葉」「理性」「真理」「論理」「調和」、外にもいろいろ訳される言葉です。この言葉にはいろんな意味が溢れています。

つまり、この「初めに言があった」という言葉には、神様の溢れんばかりの思いが詰まっています。その溢れんばかりの思い、溢れんばかりの愛が神様の創造の業の原点です。そして、その神様の思いが言葉になり、神様の創造の業となっています。

万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった」。神様の「愛」、神様の「良し」、神様の「満足」の中にすべてのものはあるのだ、と語っています。そして、その愛を最も受けているのが私たち人です。

しかし、その愛の中にある私たちは、同時に闇を抱えています。その闇を照らすために神様はその愛の形として一つの命を与えられた。それがイエス・キリストです。「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった」とはそういう意味です。

 (牧師:田中伊策)

「愛の目印」ヨハネによる福音書1章1-5節