月別アーカイブ: 2019年3月

「御言葉には力がある」ルカ24:28-35

ルカによる福音書24章13-35節には十二弟子ではない二人の弟子たちの物語が記されています。二人の内の一人はクレオパ、ここでしか出て来ません。もう一人は名前すら出て来ません。

二人の弟子はイエス様が捕まって、十字架にかかって、そして死なれた事で心の目が閉じてしまいました。しかし、その二人にイエスは寄り添い、聖書にはそれこそがメシアの姿だと書かれていると告げ、聖書全体から説き明かす、夕暮れ時になり一緒に食事の席に着いた時、イエスがパンを取り、讃美の祈りをし、パンを裂いて渡そうとした時、二人は初めてイエスだと気づいた、けれどもその時にイエスの姿が見えなくなります。そして「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と言って他の弟子たちのところに向かうという、出来事です。

こんな大きな出来事が十二弟子以外の名もない弟子達に起こった事そのものが私たちへのメッセージなのだと思います。私たちはイエスを見たことがありません。だからイエス様の事は聖書からしか知ることが出来ません。しかしその聖書の言葉、御言葉を、私達一人ひとりの与えられた神様からのお手紙として読む時に、私たちはイエス様と出会うことが出来ます。二人の弟子は「聖書のお話をしてもらった時、私たちの心は熱くなって燃えているようだったよね」と語ります。まだ、話をしているのがイエスと気づく前に既に彼らの心は熱くなった嬉しくなっています。その後にイエス様に気づいたのです。御言葉には私たちの心を熱くする力があるのです。

きっと今週も、きっと新しい年にも困難はやって来るでしょう。悩みもやって来るでしょう。悲しみもやって来るでしょう。しかし、御言葉には力があります。二人の弟子達の歩みに寄り添い、語り掛けて下さったイエス様は、私たちの歩みにも寄り添い、語り掛けて下さっています。御言葉によって力を得、何度でも新しく、歩み出しましょう。(牧師:田中伊策)

「御言葉には力がある」ルカによる福音書24章28-35節

「名前は付けてもらうもの」ヨハネ1:35-42

『イエスは彼を見つめて、「あなたはヨハネの子シモンであるが、ケファ(『岩』という意味)と呼ぶことにする」と言われた。』(42節)

「自分の名前は自分では付けられない」これは私が子どもの頃から宿命的に思っていた事でした。子どもの頃、私はこの名前が大嫌いでした。それは「いさく」を逆から読むと「くさい」だからです。「逆から読んだらどうなるか?」子どもの名前をつけるのにそんな事まで考える親はいませんが、小学生は考えます。「こいつの名前、反対から読んだら“く・さ・い”だ!上から読んでも下から読んでも“いさくはくさい”」。それで、何度嫌な思いをしたことか。でも、やがて「よく考えると悪い事ばかりでもないなぁ」と思うようになりました。ありきたりな「田中」という苗字ではなく特徴のある「いさく」と呼ばれる事で人との距離が近づくこともあります。また聖書では“彼は笑う”という意味の名前を神様がつけてそれが真実になった事、聖書に出て来るイサクが掘った井戸で争いが起きそうになった時にはその井戸を譲ってまた別の場所での井戸掘りを何度も繰り返した事、段々と好きになって行きました。

自分で自分の名前を付ける人もいます。改名だったりペンネームだったり役者名だったり。そういうのも良いでしょう。なりたい自分を目指す。でも、私としては付けられた名前で生きることも悪くないように思います。それは自分という人間を作るのは「私」ではなく「他者」だからです。「私」という人格は「他者」との出会いや関りにおいて形成されてゆくからです。勿論、良い事ばかりではないけれど。

シモンはイエス様と出会って、イエス様から「お前をケファ(岩)と呼ぶ事にする」と言われます。そしてこの名は実現します。彼は初期キリスト教における土台(岩)となるのです。イエス様との出会いが彼の名を彼自身に変えたのです。(牧師:田中伊策)

「名前は付けてもらうもの」ヨハネによる福音書1章35-42節

「光の射す方へ」詩編119:105

「あなたの御言葉は、わたしの道の光、わたしの歩みを照らす灯」

人生、上手に生きてゆきたいと誰しも思うものです。時には「困難が自分を成長させてくれる。だから敢えて難しい道を選ぶ!」という人もいるでしょうが、なるべくなら困難は避けて通りたいでしょう。でも、なだらかな道、明るい道ばかり進む事は出来ません。そして時にはその困難の中でどうしたら良いか分からなくなります。

以前、テレビを見ていたらサーフィンの選手がこんな事を言っていました、「大きな波に巻き込まれてしまい、荒れ狂う海の中でどっちが上なのか下なのか分からなく時があります。どんどん息が苦しくなってきます。でもそんな時は、ジタバタしないで流れの中でまず空気の泡を見極めます。泡がどっちに向かってゆくかを見るのです。そして泡が行く先に向かいます。そちらが上だからです」。泡が水面に導いてくれるというのです。

ここから教えられることは二つ。一つは高く強い波を越えてボードを操るプロのサーファーだって波に飲み込まれる事はあるって事。そしてもう一つ、大事なのはその時にどうするか、という事。

困難はやって来る、困ったことは起こるのです。そんな時に何を頼みとするか、それが大事です。この詩篇119編の作者は、「それは御言葉(聖書の言葉)だ」と語ります。波の上のある時には泡など見えません。同じように人生がうまくいっている時に聖書の言葉はなかなか心に入ってきません。でも、もし困った時が来たなら、道に迷ったら、聖書を開くなり、御言葉を思い出すなりして欲しいと思います。そこに光があります。泡が「上はこっちだよ」と教えるように聖書の言葉は「あなたの道はこっちだよ」ってあなたの道を照らしてくれるはずです。光の射す方へ! (牧師:田中伊策)

「光の射す方へ」詩編119編105節

「来た 見た 知った」ヨハネ1:29-34

旧約聖書の世界で昔から守られてきた戒めの中に次のようなものがあります、『初めに胎を開くものはすべて、わたしのものである』(出エジプト記34:19)。これはつまり「人であれ家畜であれ、最初の子(男の子・雄に限る)は神様のものだから捧げなくてはならない」という事になります。ただし、人の場合は一度神様の捧げはするけれど小羊と交換することが赦されていました。この「代価(小羊)を支払って(子の命を)買い取る」ことを「贖う(あがなう)」と言います。

バプテスマのヨハネはイエスが自分の方に来るのを見て『見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ』(ヨハネ1:29)と言いますが、この「小羊」とは前述の贖いの小羊のことです。バプテスマのヨハネという人物は人々に「悔い改めよ」(人生の方向転換をせよ。神に向かいなさい)と迫り、それは『斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる』(マタイ3:10)と脅しまがいの強さを見せています。ヨハネは「神に向かう」「神に近づく」事を人々に求めるのです。

しかしイエスは違ったのです。人々に対して神に向かう事を求めるのではなく、自ら人々の方へ向かわれたのです。ヨハネは人々に向かい、そして自分の方にも来るイエスを見て「私は人の視点で神を語っていた。神に向かって行く者(立派な行為をした者・正しくなった者)が救われる)。しかし、神の視点は違うことがイエスの姿から分かった。人間が神の方に向かうのではなく、まず神自らが来られ、私達の罪を自ら背負われることで救われるのだ。そして救われた者が神に向かって行くのだ」。

ヨハネはイエスが自らの方にこられるのを見て神の視点、神のまなざしを知ったのです。「世の罪を取り除く神の小羊」、私達がどれだけのことをしようとも、自分の罪を取り除く代価とは決してなり得ません。それは溺れている自分を自分で助けようとするような行為です。救いというのは人間の側の事柄ではなく、神の側の事柄であることをヨハネはイエスが来るのを見て知ったのです。(牧師:田中伊策)

「来た 見た 知った」ヨハネによる福音書1章29-34節

「透明な私がイエスを映す」ヨハネ1:19-28

「わたしは水で洗礼を授けるが、あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる。」(26節)この言葉は聖書ごとに違う訳がなされています。別の訳ではこんな言葉になっています、「あなたがたの中に、あなたがたの知らない方が立っています」(聖書協会共同訳)。ちょっと聞くと何だか怖い言葉ですよね。「ほら、あなたがたの間に知らない人が立っていますよ~」なんて言われたら「キャー!」ってなりそうです。でも、そういう話ではなくて、あなたがたまだ知らないけれど、あなたがたのただ中にあの人はもうおられるんです。

その方はね、あなたがたが生まれた時から共におられ、あなたがたと共に歩まれ、あなたがたとともに逝かれる、決してあなた方から離れられることのない方なのですよ。既にあなたがたと共におられるその方を、もうすぐあなたがたは知る事になる。私はその方に遠く及びません。ただ、透明になってその方を映し出そうとするだけです。ヨハネはそういうのです。

そしてそれこそが、ヨハネがバプテスマを授ける意味です。祭司たちはどうしてヨハネがバプテスマを授けるのか?と言う。その資格がお前にあるのか?と問います。でも、大事なのは誰が授けたかではないのです。

ヨハネは「あなたがたの中にはあなたがたの知らない人が立っています」と言いました。その方はいつも共におられ、人々の嘆きや悲しみや怒りや弱さを知っておられます。それは、私にはどうしようもないものです。内からふつふつと湧いてくる。蓋をしたら別のところから爆発するような、人を傷つけ、自も傷つけるようなそんなもの。そして共におられるその方は私の中にあるそんなものすら知っておられます。そして、そんな私たちの嘆きや悲しみや怒りや弱さ、そんなもの一切を抱えて自分の罪として十字架にかかられた。私達を愛され、私達を赦し、「私が引き受けるよ。もう大丈夫だよ。ここから新しく生きよう」って私たちを救って下さった。

「大事なのは誰が授けた」ではなく「誰と共に受けるか」ということです。バプテスマというのは水槽の中に腰か胸まで入って、それから全身浸ります。それは罪の自分はここで死んで、イエス様と共に新しい命に生きるということです。そう、大事なのは私のために十字架にかかられて死なれたイエス様と共に罪の自分も死に、死から復活された主と共に新しい命に生きる、それこそが大事なのです。誰に授けてもらったかではなく誰と共につまり、主と共に受ける、ということこが大事なのです。(牧師:田中伊策)

「透明な私がイエスを映す」ヨハネによる福音書1章19-28節