月別アーカイブ: 2019年4月

「私も一緒に喜ぶために」ヨハネ2:1-12

「三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、イエスの母がそこにいた。イエスも、その弟子たちも婚礼に招かれた。」(1-2節)

イエスがお祝いの席についている、というのは聖書では見かけることのない姿です。聖書でよく見る悲しむ者、傷んでいる者、虐げられている者、病を負っている者、そういう人と共におられるイエスの姿とは違った姿のように思えます。けれども、イエスはよく人々と食事を共にしています。ただ一緒に悲しむだけでなく、一緒にいる中に喜びや希望を共に見出そうとされていたのです。

イエス様の時代、結婚のお祝いは一週間にも及ぶことがあったそうです。それは単にお祭り好きだったのでも、ただのしきたりでもなく、大きな意味があったように思います。これだけ嬉しい事に一生懸命になったのは、辛い毎日、過酷な現実の裏返しだったからではないでしょうか。世界的に有名なブラジルのリオのカーニバルもまた何日にもわたってサンバが踊り続けられます。きらびやかな衣装に身をまとって踊り、巨大な山車を引いているのは庶民です。貧しい中から生活費を削って衣装や山車の費用とします。貧しく厳しい生活だからこそ、喜びが必要であり、その喜びのために一所懸命になるのです。

その結婚のお祝いでぶどう酒が底をついた!そんな時にマリアが、イエスが、召使いたちが二人のため、そして私も一緒に喜ぶために人知れず苦労する物語がこの聖書の箇所です。私の苦労や努力を誉めてもらうためではなく、私も一緒に喜ぼうとするその出来事に 神様の大きな祝福が与えられるのです。(牧師:田中伊策)

「私も一緒に喜ぶために」ヨハネによる福音書2章1-12節

「悩むより早く 逃げるより早く」マルコ16:1-8

イエスが十字架にかけられて死なれてから三日目、女性たちはイエスの遺体が傷まないように油を塗りに出かけます。しかし、彼女たちには悩みがありました。お墓は大きな石で閉ざされていたのです。どうやってそれをどけようか?それでも彼女たちはイエスの元に向かったのです。

「悩みながらも行ってみた」そこに彼女たちの信仰があります。どうせ駄目だと諦めるのではなく、良い方法が見つかるまでじっとしているのでもなく、それでも進みだす。信仰という事柄も同じなのだと思います。私たちの人生は一歩先にどんなことがあるか分かりません。だから進まないか、だから諦めるか、そういう訳には行きません。それでも進みます。そんな時に信仰があるって強いと思います。この見えない先にも必ず神様はいて下さる、それが新しい一歩を進みだす力を与えてくれます。彼女たちは悩みながらも進みだしたのです。

さて、お墓に行ってみると、既に石はわきに転がしてあったと聖書には書かれています。その見えない一歩先で、彼女たちが悩むより先に既に神様の働きは備えられていたのです。

しかし、彼女たちは更に驚きます。遺体はなく、そして一人の若者が「あの方は復活した」と語ったからです。信じて進みだしたはずの彼女たちですが、この言葉にさすがに恐れ、逃げ出し、そして「だれにも何も言わなかった」とあります。しかし、誰にも言わなかった話がどうして記事として記されているのでしょう。それは、彼女たちが語りだしたからに違いありません。それはとりもなおさず、逃げ出した先で復活したイエスと出会ったからです。主は彼女達が逃げるより早く待っておられ、彼女たちの恐れを取り除かれたのです。信仰は人間の業ではなく神の業によるのです。(牧師:田中伊策)

「悩むより早く 逃げるより早く」マルコによる福音書16章1-8節

「直線だけがまっすぐではない」箴言3:5-6

心を尽くして主に信頼し、自分の分別には頼らず 常に主を覚えてあなたの道を歩け。

そうすれば 主はあなたの道筋をまっすぐにしてくださる。」(箴言3章5-6節)

「あなたの道を歩け」と書かれていると、「あなたらしく進め」と思う人が多いと思います。「あなたらしく」とか「私らしく」とか、魅力のある言葉ですね。でもこの「あなた(私)らしく」には落とし穴があります。人がなんて言おうと私は私、という他者との隔てが生まれがちになるところです。むしろこの聖書の個所では「自分の分別に頼らず」と書かれています。そこには「あなたはあなたのままでいい」とか「ありのままの私」とか「あなたはあなた 私は私」とか、人と自分を分ける事への否定が記されています。

人間も含め、命というものはすべからく外部や他者からの刺激によって成長するものです。その刺激と命そのものが持っている個性とが重なり合って「私」が「私」になってゆくのです。

「私は私の道を行く」それは一見、直線であり「まっすぐ」な生き方のように思えます。しかし「私」は一人では生きられないのです。この聖書の個所には「心を尽くして主に信頼し」とあります。神様でなくても信頼に値する存在や誰かを信頼して進む生き方へと促しています。誰かと生きるというのは自分の思った通りには進めません。速くなったり遅くなったり、右に行ったり左に行ったり時には後戻りしたり、そういうこともあるでしょう。でも、それこそが人としてまっすぐな生き方なのだよ、と聖書は語っています。直線だけがまっすぐではない、くねくね曲がったまっすぐだってあるのです。そんな生き方を神様は「それで良し!」と言われます。それが「主はあなたの道筋をまっすぐにしてくださる」ということです。            (牧師:田中伊策)

「直線だけがまっすぐではない」箴言3章56節

「いと小さき者への福音」ヨハネ1:43-51

ナタナエルという人がいました。彼は友人フィリピから「私たちを救ってくれる人に会ったよ。その人はナザレ出身のイエスって人だ」と言われます。しかし、ナタナエルは言います「ガリラヤのナザレから立派なそんな人が出る訳ないだろ」。ナザレは小さな田舎の村、彼が言うのも分かります。でも、フィリポは「会って見ろよ」というのでナタナエルはイエスに会って見る事にしました。

ナタナエルがイエスのところに行くとイエスはナタナエルを見て「この人こそ純粋なイスラエル人だ。彼には偽りがない」と言います。ナタナエルは「どうして私を知っているのですか?」と聞くとイエスは「私はあなたがフィリポに声をかけられる前、既に無花果の木の下にいる(聖書の勉強をしている)のを見ましたよ」と答えます。ナタナエルは、自分が人知れず聖書の勉強をしていたことをこの人は知っていてくれた、と驚きます。そこでナタナエルはイエスに「あなたは神の子です」と言います。

ナタナエルの出身もイエスと同じくガリラヤでカナという村でした(ヨハネ21:2)。ガリラヤ地方はどの村も小さく貧しく似たり寄ったりです。ですからナタナエルが「ガリラヤのナザレから立派なそんな人が出る訳ないだろ」と言ったのは、イエスへの文句というよりも、自分の小ささ弱さを嘆く言葉だったのです。しかし、ナタナエルはそれだけの人間ではありませんでした。それでもその小ささの中でもがき苦しみ聖書を読み、必死に神様に頼ろうとしていたのです。

そんなナタナエルにイエスは「自分の出身や知識を鼻にかける都会のイスラエル人なんかよりも、ずっとイスラエル人のあるべき姿で生きている」そして「私はそんなあなたを知っているよ」と言われるのです。それも高い所からではなくナザレという小さく弱く低くされた村から語るのです。福音とは人の弱さに寄り添うように語り掛けられる神の愛であり、その姿であるイエスそのものです。(牧師:田中伊策)

「いと小さき者への福音」ヨハネによる福音書1章43-51節