「あなたは諦めるのか?」マルコ9:14―29

今日の聖書の個所は、新共同訳聖書では「汚れた霊に取りつかれた子をいやす」という題がついています。「汚れた霊」と聞くと、ちょっと引きませんか。私はこういう言葉「汚れた霊」とか「悪霊」とか書かれていると、以前はちょっと引いちゃっていました。

何故かというと「霊」って得体のしれないものだからです。そして、ここから一体何を伝えたらよいのか、と思ってしまうのです。けれども最近私はある人からいわゆる「障がい者」という言葉についてのお話を聞いて変わったんです。その人は「障がい者」というのはその人についての言葉じゃない、って言われたんです。

「目が見えない人」とか「耳が聞こえない人」とか「体が不自由な人」とか「物事を理解するのが困難な人」とか、そういう人たちを生きづらくしている人や社会が「障害」を作っている。例えば、車いすの人は少しの段差でも越えるのが困難だったり、越えられなかったりします。障害というのは、段差そのものです。その段差を作ってしまっている社会や、手助けをしない人こそが、車いすの人の障害なのです。

そういう言葉を聞いたとき、本当にそうだな、と思いました。同時に「悪霊」と呼ばれるものもそうじゃないか、と思いました。自分たちと同じじゃない人に対して、また病気に人に対して「悪霊につかれている」とか聖書には書かれているけれど、「みんなと同じじゃないのはおかしい」とか「ダメ」とかそういう心こそ「悪霊」に憑かれている、そう思うようになりました。

おそらく聾唖だろうと思われる息子との間で悩み、絶望しかけた父親がイエスのところに来て「おできになるなら、わたしどもを憐れんでください」と言います。それに対して「『できれば』というのか?」とイエスは言います。それは「お前は諦めるのか?」と問うているのです。「私は諦めないよ。私はその断絶に橋をかけ、いや私が橋となってつなごう。私が希望となろう。だから諦めるな。私に従って来なさい」そうイエス様は語っておられます。(牧師・田中伊策)

「あなたは諦めるのか?」マルコによる福音書9章14―29節