「再び会うために遠い約束」マルコ9:30-32

イエス様の受難告知(31節)に対して「弟子たちはこの言葉が分からなかったが、怖くて尋ねられなかった」(32節)という言葉は、イエス様の受難の告知が、弟子たちとイエス様とが決定的に引き離された出来事だったということを伝えています。言い換えると、この受難告知はイエス様からの別れの言葉だったのです。ここから私とあなた方は別の道を進むよ「さようなら」という別れの言葉です。

しかしそれは決して弟子たちを捨てる出来事ではなく、むしろもう一度、彼らと再び会うための約束の言葉です。そしてその再会の場所こそがエルサレムのはずれ、ゴルゴタの丘の十字架です。彼らはそこで自分の闇と出会う事になります。それは同時に光との出会いでもあります。闇を闇と認識させるのは光の存在が必要だからです。エルサレムの闇、弟子たちの闇、そして私たちの闇を照らすために、イエス様は来られました。闇の中でうずくまるのではなく、その闇に光を当て、私たちを迎えられる光としてイエス様は来られました。

言葉は不自由です。愛という言葉すら自分中心で考え、信仰という言葉すら自分を高めるものとしてしまう私たちに対して、神は言葉を越えて、イエス様の姿を通して、歩みを通して、十字架を通して、その愛の大きさを示して下さったのです。

「さようなら、ここで私はあなたがたと別の道を進みます」。でもそれは十字架で出会うための約束の言葉です。その約束さえ分からない弟子たちとイエス様との距離は遠い、あまりにも遠い。しかし、その遠い約束を越えて、隔たりを越えて、私たちの闇に光を注がれる神様の愛の大きさに出会えた時「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する」というイエスの言葉が成就するのです。

(牧師・田中伊策)

「再び会うために遠い約束」マルコによる福音書9章30-32節