「光だけが残る」ヨハネ1:6-13

バプテスマのヨハネという人物について、マタイによる福音書3章1-3節ではこう書かれています。“そのころ、洗礼者ヨハネが現れて、ユダヤの荒れ野で宣べ伝え、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言った。これは預言者イザヤによってこう言われている人である。「荒れ野で叫ぶ声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ』」”

ここにはヨハネの事を「荒れ野で叫ぶ声」だと言っています。声というものは通り過ぎてゆくものです。今は録音とか出来ますけれど、声自身は発せられて響いて消えてゆくものです。そして心の中に言葉だけが残るのです。同じようにヨハネはイエス様を指示し、そして通り過ぎてゆく、去ってゆく。残るのはイエス様だけ。聖書がヨハネを「荒れ野で叫ぶ声」と言う表現は見事だと思います。この「荒れ野で叫ぶ声」はヨハネの人となり、ヨハネの生き方をそのまま表す言葉です。

そして、それこそが「証し」だと思います。証し、というのは、私たちの生活の中の出来事を通して神様がこのように働いて下さった、神様の愛を知ることが出来た、というそういうお話です。教会関係の集まりの中で、また教会員同士の中で「証し」がなされることがあります。でも、聞いていたら証と言いながら「私こんな経験をしたんです」とか「この間、こんなことがあったんです」で終わる話も少なくありません。そういう時は「私が、私が」というところに中心があるのです。「私の」一生懸命さを、「私の」熱心さを、「私の」祈りを神様は聞いて下さった。しかし、証と言うのは、最終的には私は消え、神様の恵みだけが残る、そういうものを証と言うのです。神の言葉だけが残る、イエス様だけが残るヨハネの声のようなものが。そうでないと私を誇ることになり、最終的には、こんなに祈ったのだからこうなるべき、と知らず知らずのうちに私が神になってしまいます。証というのは私が「通り過ぎる声」になる事、そして神様の言葉だけが、神様の愛だけが、注がれた光だけが残ることを喜ぶ事です。(牧師:田中伊策)

「光だけが残る」ヨハネによる福音書1章6-13節