「名前は付けてもらうもの」ヨハネ1:35-42

『イエスは彼を見つめて、「あなたはヨハネの子シモンであるが、ケファ(『岩』という意味)と呼ぶことにする」と言われた。』(42節)

「自分の名前は自分では付けられない」これは私が子どもの頃から宿命的に思っていた事でした。子どもの頃、私はこの名前が大嫌いでした。それは「いさく」を逆から読むと「くさい」だからです。「逆から読んだらどうなるか?」子どもの名前をつけるのにそんな事まで考える親はいませんが、小学生は考えます。「こいつの名前、反対から読んだら“く・さ・い”だ!上から読んでも下から読んでも“いさくはくさい”」。それで、何度嫌な思いをしたことか。でも、やがて「よく考えると悪い事ばかりでもないなぁ」と思うようになりました。ありきたりな「田中」という苗字ではなく特徴のある「いさく」と呼ばれる事で人との距離が近づくこともあります。また聖書では“彼は笑う”という意味の名前を神様がつけてそれが真実になった事、聖書に出て来るイサクが掘った井戸で争いが起きそうになった時にはその井戸を譲ってまた別の場所での井戸掘りを何度も繰り返した事、段々と好きになって行きました。

自分で自分の名前を付ける人もいます。改名だったりペンネームだったり役者名だったり。そういうのも良いでしょう。なりたい自分を目指す。でも、私としては付けられた名前で生きることも悪くないように思います。それは自分という人間を作るのは「私」ではなく「他者」だからです。「私」という人格は「他者」との出会いや関りにおいて形成されてゆくからです。勿論、良い事ばかりではないけれど。

シモンはイエス様と出会って、イエス様から「お前をケファ(岩)と呼ぶ事にする」と言われます。そしてこの名は実現します。彼は初期キリスト教における土台(岩)となるのです。イエス様との出会いが彼の名を彼自身に変えたのです。(牧師:田中伊策)

「名前は付けてもらうもの」ヨハネによる福音書1章35-42節