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「この人を見よ」イザヤ書52:13―53:12

今日の53章ですが、この時代はイスラエルがバビロニアに滅ぼされ、そして捕虜として連れて行かれている時代です。故郷を遠く離れて暮らす人々は自分たちの歩みを振り返り、悔い改めます。豊かさを求めて、強さを求めていた堕落し、そして戦いに負けてボロボロになった彼らは、「ああ、私たちは神から遠く離れた者となっていた。神の言葉をないがしろにして道を踏み外したんだ。私たちは神に立ち返ろう」と思うのです。「私たちは本当は小さな者だったのに、神の民などと言って、なにをしても神が守ってくれると思っていた」そう思うのです。「小さなまま神様に立ち返ろう。」

それはまるで70年前のこの日本のようです。アジアの片隅の小さな国が、その急激な発展の中で「天皇を中心とする神の国」みたいな勘違いの中で戦いに進み、そしてボロボロになったように。そんな中で作られたのが日本国憲法でありました。アメリカに作ってもらったか、日本人が作ったか、そんなことが問題ではなく、ここから私たちの国がどのように歩むべきか、日本国憲法はちゃんとその道筋を描いています。「平和を願い、共に生きよう」と。

捕囚の中にあった民もまた、自分たちが願うべき事、進みだすべき道を求め、そして言葉にしていったのです。今日の聖書の個所は正に、そのような言葉です。「見よ、わたしの僕は栄える。はるかに高く上げられ、あがめられる。」という言葉から始まるこの僕(しもべ)の姿はこれから新しく歩み出そうとしているイスラエルの姿そのものです。「わたしの僕(しもべ)」とは「神の民」ということ、イスラエルの姿そのものなのです。
(牧師・田中伊策)

「この人を見よ」イザヤ書52:13―53:12

「私達の希望でいてください」 イザヤ書46:3-4

「あなたの父母を敬え」(出エジプト記20章12節)という戒めは、家族を、家を大切にしなさい、ということ以上に、様々な悲しみも、失敗も、悩みも、迷いも、病も抱えながらここまで歩んできたであろう、その人生を重く受け止めなさい、という意味です。

そしてこの「あなたの父母を敬え」、「その命、その人生を重く受け止めよ」と言う言葉を神は決して他人事のように語りません。「わたしに聞け、ヤコブの家よ/イスラエルの家の残りの者よ、共に。あなたたちは生まれた時から負われ/胎を出た時から担われてきた。同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで/白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す。」(イザヤ書46章3-4節)まず、神ご自身が抱え背負って下さる、と聖書は語っています。

イスラエルの人々はこの言葉をバビロニアという国で聞きます。イスラエルはこの時、戦争に負けて奴隷状態にありました。バビロニアという国に負けてしまったのです。武器を取り、また大きな国に助けを求めた結果、そのようになってしまったのです。多くの人たちは、奴隷としてバビロニアに連れて行かれ、そこで暮らしていました。連れて行かれた人々は全部で15,000人程だったと言われています。彼らは国の発展、経済成長、強い国、そういう事を願って努力し、一生懸命に生きて来たのです。けれども間違った道を進んでしまった。

そんな中で彼らは神からの「わたしが担い、背負い、救い出す」という言葉を聞くのです。そこから人々は新しい歩みを彼らは始めます。神様を光として、神様を希望として。 様々な悲しみや痛みや過ちを経験しながら、それでも神様を希望として歩む、その姿は後を進む者たちの希望でもあります。これからも私達の希望でいてください。主がその命の重さを受け止めてくださるように、私達も敬ってゆきたいと思います。 (牧師:田中伊策)

「私達の希望でいてください」 イザヤ書46章3-4節

「荒地に水、闇に光、切り株にひこばえ」 イザヤ6:1-13

創世記1章1節には「初めに神は天と地とを創造された」と書かれています。天地の始まりですから、聖書全部を通しても一番古い時代のお話です。けれども、この天地創造の物語がまとめられたのは、実は旧約聖書の中で一番新しい時代、と言われています。

新しいと言っても紀元前500年の中ごろですが。この時代は、イスラエルという国にとって闇の時代でした。バビロニアという国によって滅ぼされ、多くの人々が奴隷として連れて行かれました。

バビロニアに連れて行かれた人々は、奴隷生活の中で思うのです。「ああ、私達は神様から離れていた。私達の国はイスラエル、『神は戦われる』という意味じゃないか。それなのに、私達は神ではなく人間の力に頼っていた。神様の光から遠ざかり、自ら闇の中を進んでしまったのだ。」そのような悔い改めの中で「私たちは神様に帰ろう!」と思いまとめられたのが天地創造の物語です。

ここには、また神様の秩序によって生きよう、神様の光の中を歩もう、そういう思いが溢れています。神様の創られた世界、神様に与えられた命、そこに立ち返るために書かれたからです。初めに神は天と地とを創造された。「初めは神だ。神が基準だ」そういう宣言から始まり、神の言葉によってすべてのものが命を得て行きます。ここには6日間ですべての秩序が定められたと書かれています。その一日の終わりは同じ言い回しです。「夕となり朝となった。第○日である」。夕となり、朝となった。

私達は一日は陽が昇って一日が始まり、日が沈んで一日が終わる、というように考えますが、イスラエルは夕暮れを一日の始まりと考えます。「日が暮れて一日が終わるだが、それは同時に次の日の始まり」という考え方です。しかし、それだけでなく、この「夕となり朝となった。第○日である」には、バビロニアでの奴隷生活にある人々の思いがあります、「今は闇の時代だけれど、神様は必ず新しい朝を与えてくれる」という希望の言葉です。闇の時代にあって光を待ち望む、そういう信仰の言葉でもあります。 (牧師:田中伊策)

「荒地に水、闇に光、切り株にひこばえ」 イザヤ書6章1-13節

「神の言葉 イエス・キリスト」 イザヤ書55:8-11

時に神のすべてを知った気になることがある。あたかも、神の全体像(神の思い・計画)を、すべて隅から隅まで見ているように錯覚してしまうことがある。しかし、まったくの逆である。圧倒的な神の恵みの下に、私たちがいるのであり、私たちが見ているのは、神の全体像のほんの一部である。その全体像を私たちは知らない。

今日の聖書の言葉、「天が地を高く超えているように わたし(神)の道は、あなたたちの道を わたし(神)の思いは あなたたちの思いを、高く超えている」。この言葉を受けたのは、預言者イザヤである。捕囚末期、解放の時が近いことを告げ知らせ、絶望し、あきらめていた人々に、エルサレムへの帰還を強く促し、慰めの言葉として語られた預言である。

しかし、のちの時代を知る私たちは、歴史がこれらの預言(40-50章)にあるように、実現したとはいいがたいということを知っている。エルサレムは大国の脅威にさらされ続け、ローマの支配にのみこまれてしまう。 重要なのは、神の言葉である。神の言葉は活動する言葉であり、神が語られるところでは、何事かが起こされるのである。「わたし(神)の言葉も むなしくは、わたしのもとに戻らない。

それはわたし(神)の望むことを成し遂げ わたしが与えた使命を必ず果たす」。神の言葉は、必ず神の望むことを成し遂げ、神の使命を果たす。人間の思いを超えた神の思いを、神の言葉は「必ず」果たす。そのことは、イエス・キリストによって、実現した。神の思いは人間の思いを超える。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである(ヨハネ3:16)。」神の言葉、イエス・キリストが、昨日も今日も明日も共にいてくださり、私たちを慰め、励まし、力づけていてくださる。 (青木紋子神学生)

神の言葉 イエス・キリスト イザヤ書55章:8-11節