タグ別アーカイブ: コリントⅡ

「押し出されて仕える」 コリントⅡ5:14前半

伝道者パウロは3回の伝道旅行をし、その働きによって多くの教会が誕生するに至ったのですが、その伝道の意欲についてパウロは「なぜならキリストの愛がわたしたちを駆り立てているからです」と言っています。

この「駆り立てる」と訳されているギリシア語の「スネコー」という言葉は日本語訳の聖書それぞれで違う日本語になっています。

口語訳では「なぜなら、キリストの愛がわたしたちに強く迫っているからである」、新改訳では「というのは、キリストの愛が私たちを取り囲んでいるからです」、岩波訳では「事実キリストの愛が、〔次のように判断している〕私たちをしっかりと捕えている」。「囲まれている」とか「強く迫っている」とかいうと何だか犯人が「お前は完全に包囲されている!武器を捨てて出て来なさい!」と言われているような感じです。

そしてもしかしたらそんな感じかもしれません。パウロはキリストの愛に観念して押し出されるままに伝道をしていったのでしょう。

けれども、それは嬉しい事ばかりではありません。

実際「スネコー」には「苦しむ」という意味もあり、パウロも伝道旅行について次のように語っています、「苦労したことはずっと多く、投獄されたこともずっと多く、鞭打たれたことは比較できないほど多く、死ぬような目に遭ったことも度々でした。

ユダヤ人から四十に一つ足りない鞭を受けたことが五度。鞭で打たれたことが三度、石を投げつけられたことが一度、難船したことが三度。一昼夜海上に漂ったこともありました。

しばしば旅をし、川の難、盗賊の難、同胞からの難、異邦人からの難、町での難、荒れ野での難、海上の難、偽の兄弟たちからの難に遭い、苦労し、骨折って、しばしば眠らずに過ごし、飢え渇き、しばしば食べずにおり、寒さに凍え、裸でいたこともありました」(11:23~27)。

こんなことがあったらうんざりして伝道しようなんて思わないでしょう。でも彼は進むのです。それはキリストの愛以上に自分を動かすものはないと思えたからです。

そしてもう一つ、彼は一人ではなかったからです。「スネコー」という言葉には「行動を共にする」という意味もあります。

パウロは様々な困難の中でも決して一人ではなく、キリストもまたこの困難の中に共におられます。そしてこの共に痛み、苦しみ、弱られ、空腹になられたキリストをパウロは伝えようとしたのです。(牧師:田中伊策)

「押し出されて仕える」 コリントの信徒への手紙Ⅱ5章14節前半

「日々新たにされて」コリントⅡ 4:16

聖書は語ります、「だから、私たちは落胆しない」。この「だから」という言葉には、「それでも」という強い気持ちがあるように思います。願っている方向とは別に進む現実、願っていることが出来ない体、そんな中で「それが私たちだよ、それが人間だよ」って妥協したくなります。あきらめたくなります。このパウロの手紙の時代、まだキリスト教は受け入れられず、諸外国の人々や白い目で見られ、支配者から取り締まられるようなものでした。

そんな現実の中で、それでもイエス・キリストの言葉と十字架の出来事を拠り所として生きる事は困難だったでありましょう。イエスの希望の言葉通りに生きようとする事が困難な中、社会はちっともよくならない中、世代は変わり元気だった先輩クリスチャンが衰える中、自分も思った通りに動けなくなる中、落胆し諦めそうになる。「やっぱり無理なのかな」なんて。今まで自分の希望だった言葉がなんだかみすぼらしく思えてきてしまう。体だけではなく、心も立ち止まってしまいそうになる。

でも、そもそもイエス様の十字架ってそういうものじゃないでしょうか。絶望の中にある人に希望を語り、悲しみの中にある人に慰めを語り、共に生きようとされたイエスだったけれども、世の中はそれを拒否し、支配者や指導者、そして群衆までもが、そのイエスの歩みを十字架に打ち付けることによって止まらせた。そんなの無理だよ、そんなのは理想だよ、幻想だよって。

けれども、その十字架にこそ希望があります。なぜなら、こうありたいという希望やこう生きたいという願いにとどかない現実や、思ったように動かない衰えゆく私たちの体を抱える中で落胆しそうになる私たちの心を誰よりも十字架に打ち付けられたイエスは知っているからです。そしてイエスの言葉は、その打ち付けられた肉体を超え、これ以上進めないと思えるような現実を超えて私たちに希望の言葉として語り掛けるからです。
(牧師:田中伊策)

「日々新たにされて」コリントの信徒への手紙Ⅱ 4章16節