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「私のためにあなたが立てられた」サムエル上24:21

イスラエルの最初の王様はサウルという人物でした。イスラエルでは王や大祭司が立てられるときにその頭に油が注がれることになっており、サウルは油を注がれて王となりました。ところが、その在位中にサウルとは別に油を注がれた者がおりました。それがダビデという少年でした。このことは内密に行われたのですが、本来そんな紛らわしい事はあってはなりません。国の乱れるもとです。

けれどもそれとは別に国は乱れます。サウル王の配下であったダビデの人気が高まってサウル王はダビデを殺そうとするようになったからです。ダビデは逃げ、サウルは追います。ところがその立場が逆転する状況が起こります。ダビデを追いかけたサウルが洞窟で用を済ませようとするのですが、その洞窟にダビデが隠れていたのです。ダビデの部下は「いまがチャンスだ!」というのですが、ダビデは「神様が油を注がれた者に私が手をかける訳にはいかない」とその言葉に耳を貸しません。

やがて用を済ませたサウルが洞窟から出てくると、ダビデもまた後を追って洞窟を出て、ひれ伏して「王様!どうして私のような小さなものを追いかけて殺そうとなさるのですか?私にはあなたを殺そうとする思いはありません。どうして神様が立てられたあなたを撃つことが出来ましょうか」。その言葉にサウロは涙を流して「お前が正しい。私は確信する。お前は王となる」そう言って二人は分かれます。

サウルが在位中にダビデに油が注がれた、それは神様がサウルの足らなさや弱さを補うため、サウルの罪を罪で終わらせないためだったのではないか、少なくてもサウルはダビデの内に王にあるべき資質「神と人とを敬い従順であろうとする心」を見、自分の足らなさが彼によって補われると確信したのではないか、そう思います。「油注がれた者」は旧約聖書の書かれたヘブライ語で「メシア」、新約聖書の書かれたギリシア語で「キリスト」という言葉が使われているのは決して無関係ではないと思うのです。(牧師:田中伊策)

「私のためにあなたが立てられた」サムエル記上24章21節