タグ別アーカイブ: 出エジプト

「恵みを通り過ぎないために」出エジプト16:15

神様はモーセという指導者を立てて、イスラエルを奴隷から解放します。民は自由を喜び、一路故郷を目指します。そんな中での事柄が今日の聖書個所に続きます。

「我々は自由だ、故郷を目指そう」と旅を始めるのですが、すぐに問題が起こります。三日目に「水がない」と人々は言い出します。荒野の旅です。水を探すのも一苦労です。そこはオアシスでしのぎますが、次に食べ物に困ります。

「腹減った。何とかならんのか。モーセは俺たちを荒野に誘い出してここで餓死させようとしているのか?奴隷の時は良かったなぁ。肉のたくさん入った鍋を囲んでパンを腹いっぱい食べられたのになぁ。死ぬんだったらこんなところで飢え死にするんじゃじゃなくて、エジプトで死にたかったなぁ」って。

モーセは思った事でしょう(ちょっと待てよ、お前たちが「助けてくれ!」って神に願ったから、神様は助けてくれたんだろ?)って。それに対して起こった出来事というのが今日の聖書の個所の前、13節14節に書かれています。

「夕方になると、うずらが飛んで来て、宿営を覆い、朝には宿営の周りに露が降りた。この降りた露が蒸発すると、見よ、荒れ野の地表を覆って薄くて壊れやすいものが大地の霜のように薄く残っていた。」うずらは分かりますが、朝、大地を覆う薄くて壊れやすい霜のようなものは見たこともありません。

それで今日の聖書の個所です、「イスラエルの人々はそれを見て、これは一体何だろうと、口々に言った。彼らはそれが何であるか知らなかったからである。」。「これは何だ?」ヘブライ語の聖書には「マーン・フー」と書かれています。この「マーン・フー」が転じてそれらは「マナ」と呼ばれることになります。彼らは「これは何だ?」を40年食べて暮らしたのです。

勿論、見たこともないから「これ、何?」と思っただけでなく、自分の願ったもの、自分の欲しいものとはちがったガッカリ感もあったと思います。彼らは体こそ自由になったけれど心はまだ自由とはなっていなかったのです。イスラエルは荒野で40年。自由への道は長く険しいものです。(牧師・田中伊策)

「恵みを通り過ぎないために」出エジプト記16章15節

「生きるための約束」 出エジプト20:1-17

エジプトを出たイスラエルの人たちは自分の国に向かって進んでいます。それは奴隷からから人間に戻るための道でもあります。そんな中で神様はイスラエルに十戒、十の約束を与えます。この約束は簡単に言うと二つの事だけが書かれています。一つは「あなたがたは人間です。神様である私が、あなたを心と体のある人間として創ったのです。そしてあなたを人間として生きるように助けたのです。『私はロボットでも、機械でもなく人間なんだ。神様は私達を人として生かして下さっているんだ』その事を忘れないようにしなさい。」ということです。「あなたには、わたしをおいて他に神があってはならない」(第一戒)という最初の約束は、「人だとか、物だとか、そんなものを神としたら、人間らしい生き方は出来ません。人間として生きるように命を与えた私だけが神なのだよ」ということです。

もう一つは、「人間として生きるためには、他の人と仲よくしましょう」ということです。「あなたの父母を敬え」(第五戒)という約束は、これは小さな子どもにお父さんお母さんを大切にしなさい、と言っているのではなく、大人に対して「年をとったお父さんやお母さんを大事にしなさい」と言っています。生きる、ということはそれだけで大変な事です。楽しい事も嬉しい事もたくさんあるけれど、困った事や、悲しい事もたくさんあります。そんな事を何度も越えて年をとった人を大切にする、ということは、生きるということの重さを感じるということです。「敬え」と言う言葉は「重い」という意味があります。一つ一つの命の重さを感じなさい。それは、機械のように働いたり働かせたりするエジプトから出たのだから、命ある人として一緒に生きるんだ、という神様の促しです。その後の戒めも、流される事無くしっかりと心と身体をもって人間として生きようよ、と神様は言われています。 (牧師:田中伊策)

「生きるための約束」 出エジプト記20章1-17節

「恵みが先にある」 出エジプト記20:2-3

先週、あるニュースでとても残念な思いになりました。もうご存知の方も多いと思いますが、キリスト教系の団体の幹部の人がお寺や神社に「清め」と称して油をかけていた(らしい)というニュースです。まだ裁判も行われていないので「らしい」なのですが、これが本当なら非常に残念です。

けれども、宗教というのはきっとこういう事の繰り返しだったのだと思います。きっとこの油をかけた人は「自分は正しいことをしている」と思っていたことでしょう。「日本の宗教は偶像礼拝だ、それを止めさせなければ。たとえそれで傷つく人がいても、が悲しむ人がいても、正しい事が分かれば、みんなが幸せになる、平和になるのだから結果的には良いのだ」と思っていた事でしょう。そう思って非常に熱心に活動していたのでしょう。

しかし、聖書にはこう書かれています、「あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす」(ヨハネ2:11)。神さまから恵みをもらっているはずなのに、その熱心さによって、もらうどころか神を食い物にしているというのです。イエス・キリストが私のために十字架にかかって下さった、その恵みによって救われたはずなのに、いつの間にかそれが「恵み」ではなく「自分の熱心」になってしまって、キリストの十字架の苦しみを増し加えさせている、ということです。

熱心さが先に行ってしまい他の宗教の建物を傷つけ、それを大切にする人の心を傷つけるのであれば、それは信仰ではありません。イエス様に従うのではなく、自分の熱心さに従っているのです。偶像を壊そうとしながら自分の中に熱心さという新しい偶像を作り、社寺仏閣に「清めの油を注ぐ」と言いながら自分自身が罪まみれになり、「信仰によって自由になった」と言いながら「自分の理想の奴隷」になっているのです。 (牧師:田中伊策)

「恵みが先にある」 出エジプト記20章2-3節

「生きるための命」 マルコ2:23-28

「生きるための命」 マルコによる福音書2章23-28節

出エジプト記20章の中にはこうあります。「安息日を心に留め、これを聖別せよ。」。これは「神様が6日かけてすべてのものを創られた、そして7日目は休まれた。7日目は安息の日なのだ。だから休みましょう」というものです。

もっと強い言葉じゃないか、と思うかもしれません。けれど、この十戒の語り口調は本来、「~してはならない」ではなく、「~するはずがないだろう」と訳すべきではないか、と言われています。

20章の最初に「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である」とあります。エジプトで奴隷だったイスラエル人を神様は救い出した、というのです。「その神様を知ったら…」ということで戒めが始まります。「あなたは、わたしをおいて他に神があってはならない」これは「その救ってくれた神様を知ったからには『もう他のもの神様とするはずがないだろう』」と言う意味です。

「他に偶像をつくるはずながないだろう」。そして「休まないはずがない、だって神様から救ってもらった命なのだから、大切にするだろう」ということなのです。決して「命令」ではなく、「当然」のこととして記してあるのです。助けてもらった命、救ってもらった命、大切にしろよ!それがこの戒めの本質です。

他の箇所にはさらにこうあります。23章12節、ここには面白い事が書かれています。「あなたは六日の間、あなたの仕事を行い、七日目には、仕事をやめねばならない。それは、あなたの牛やろばが休み、女奴隷の子や寄留者が元気を回復するためである」。あなたが休む事で、あなたよりも立場の低いものが休める、というのです。

それが本来良いものかどうかは別にして、忠実な僕は主人が休まなければなかなか休もうとしない、だからあなたがまず休みなさい。そうしたらあなたより立場の低い者が堂々と休める。これを神様の人間の関係に当てはめると、神様が7日目に休まれたのは、人間が休むことが出来るように、だったのではないか、と思うのです。 (牧師:田中伊策)

 

「そこで私を知るだろう」 出エジプト3:7-14

「そこで私を知るだろう」 出エジプト記3章7-14節

「わたしはある。わたしはあるという者だ。」(出エジプト記3:14)

私達は「あなたのお名前は?」と尋ねられたら、ちゃんと自分の名前を答えるでしょう。「鈴木○○と申します」とか「佐藤○と言います」とか「山本○○○です」とか。ところが神は、その名を尋ねられて「…?」と思うような返事をしています。それが、「わたしはある。わたしはあるという者だ。」です。

神はエジプトで奴隷だったイスラエル人を救おうと思い、モーセという人物にその働きへと促すのですがモーセは言います、「わたしは何者でしょう?私が行かなくてはならないのですか?」。すると神は「私は必ずあなたと共にいる!」と答えられます。けれどもモーセはまた「もし同胞から『あなたを遣わした神の名は何というのじゃ?』と聞かれたらどうしましょうか」と言って暗に断ります。そこで神の返された答えが「わたしは…」でした。

モーセは最初から断る理由を探しています。示された先で起こる事柄を予想して「これは私(モーセ)には無理」「これは私(モーセ)には出来ない」そう思っているからです。でも、神は「お前(モーセ)には出来る!」なんて一言も言っていません。神は「私(神)は必ずあなた(モーセ)と共にいる」と言っています。「わたしはある。わたしはあるという者だ。」も同じです。この言葉は原語では元々「未来形」の言葉です。未来とはこれから起こる事柄について語るものです。言い直せば「わたしはいるだろう、それがわたしだ。」、そしてそれは「踏み出して御覧よ。そこであなたは私をさらに深く知るだろう」という意味です。名は体を顕す。

「私がそれを成し遂げられるのか?」私達はいつもその問いを大切にします。そして立ち止まります。何故なら未来は見えないからです。でも本当に大切にしなければならない問いは「そこに神はおられるか?」です。そして「神は共におられる」という答えと共に一歩進み出す事を神様は求めておられます。未来は見えない、でも神は共におられます。そしてその一歩を踏み出す時、私達はさらに深く神を知るのです。その促しに応えて進む神学生の方々の学びとこれからの働きのために祈り捧げましょう。 (牧師:田中伊策)

「神を畏れて命を尊ぶ」 出エジプト1:15-21

「助産婦はいずれも神を畏れていたのでエジプトの王が命じた通りにはせず、 男の子もいかしておいた」 (出エジプト記1章17)

内田樹(うちだたつる・哲学研究者、思想家、倫理学者)という方は大学教育に関して、「教養課程」とは本来は「コミュニケーションの訓練」のためにあったと言っています。自分と他者(もしくは物や事柄)との関係においては自分が変わる、自分の狭さを打ち破る事を学んでゆくのです。

外国語の習得などはその典型的なもので、外国語や外国語を話す人という異質な存在に対して自分から変わってゆく事(学んでゆく事)を通して関係を作ろうとする大切さと技術を学ぶというのです。それに対して「専門課程」を「内輪のパーティ」と内田さんは語ります。知っている事を前提に専門用語を使う。その言葉を知らない者は自分で学び、それに加わってゆく。そしてさらに専門性を深めて行くというのです。

そして内田さんはこう言います、『ところが「内輪のパーティ」だけでは専門領域は成り立ちません。ある専門領域が有用であるとされるのは、別の分野の専門家とコラボレーションすることによってのみだからです。

『ナヴァロンの要塞』でも『スパイ大作戦』でも「チームで仕事をする」話では、爆弾の専門家とか、コンピューターの専門家とか、格闘技の専門家とか、変装の専門家とか、色仕掛けの専門家とか、そういう様々な専門家が出てきます。彼らがそれぞれの特技を持ち寄って、そのコラボレーションを通して、単独では成し遂げられないほどの大事業が実現される。』(内田樹『街場の教育論』ミシマ社、2008年、91-92ページ)

王はすべてを支配しようとしていました。力と権力エジプトという内輪のパーティを守ろうとしたのです。助産婦たちは一つの命が生み出されるという事柄が単独では成し遂げられない大事業である事を知っていました。生み出す母と生まれてくる命と助け手が揃って初めて成し遂げられる。そして人はいつの時も何かの、誰かの助けを借りなければ生きることは出来ないのです。私達はそのように神に創られたのです。その神を彼女たちは畏れるのです。(田中伊策牧師)

神を畏れて命を尊ぶ 出エジプト記1章15-21節