タグ別アーカイブ: 創世記

「新しい出発へと」創世記12:1-4

本日は田隈教会の皆様と共に2016年度最後の礼拝を捧げられることに、そして説教のつとめを託してくださったことに心から感謝いたします。また田隈教会の皆様のお祈りとお支えによって、神学部初年度の歩みが終えられることにも、心から感謝申し上げたいと思います。来年度から私は早良教会へと研修の場を移しますが、田隈教会のことをいつも覚えて祈っていきたいと思っています。

子供たちは三月で去年の四月から始まった一年間の歩みが終わって、来月からまた新しい一年間の歩みが始まると思います。幼稚園の組が変わったり、卒園して小学校に行ったり、小学校の学年が上がったり、そして小学校を卒業して中学校に行ったり…。四月は新しい始まりのときです。新しいことが始まることにワクワクする気持ちもあれば、ちょっと不安だなぁとか、心配だなぁ思う気持ちもあると思います。

今日の聖書のお話の中にも、同じような不安や心配を抱えた人が出てきます。アブラムという人です。あるとき神様は、アブラムに言いました。「アブラム、今からあなたは自分の生まれたところから離れて、私の示すところに行きなさい」。神様から突然このように言われて、アブラムはきっと驚いたことでしょう。

アブラムはずっとその場所で暮らしてきて、周りは皆知ってる人ばかりだし、どこで食べ物が手に入るかも全部わかる。住み慣れたところから離れて、わざわざ誰も知らない、何もわからないところに行きたくない、と思ったかもしれません。目的地も知らされずに、どこかへ行くことほど、不安なことはありません。目的地に着くまではどのくらいの時間がかかって、その道のりはどんなものなのか、険しいのか、緩やかなのか、またそこにはどういう人たちがいるのか、そうゆうことが前もってわからないと私たちは不安になります。神様のこの呼びかけに、アブラムはとても不安で心配になったことでしょう。

でも神様はアブラムにこうも言われました。「わたしはあなたを祝福する。」祝福というのは、神様が恵みを与えてくださるということです。そしてよい方向に導いてくださるということです。この祝福するという約束を神様はアブラムに約束しました。神様がアブラムを祝福の中に招いてくださったから、アブラムは自分の知らない場所、何もわからない場所へと出発していくことができました。そしてその祝福の約束はイエス様を通して、今を生きる私たちにも届けられているのです。(川久保拓也神学生)

「新しい出発へと」創世記12章1-4節

「新しい言葉を求めて」 創世記11:1-9

創世記11章にある「バベルの塔」の物語は、神の地位に登り詰めようとしている人間に対して神様が言語をバラバラにして人々を世界に散らすという方法で裁いたという内容です。

この物語の最初に「世界中は同じ言葉を使って、同じように話していた」とあります。人はそんな世界にあこがれます。世界中が同じ言葉だったら誰とでも話せますから、どこにでも行けるような、そんな気がするからです。でも、それが錯覚であると聖書を読む中で思います。日本語に訳された聖書を読んでも、よくわからない事が多いからです。

歴史的な背景や人々も暮らしが分かって、やっと意味が分かる事も多いのです。イエス様は多くの譬え話をされました。「譬え話」はイエス様の周りにいる人々の生活の中にある出来事に置き換えて分かりやすく話されていますが、私たちの生活や常識とは違うので、読んだだけではその意味はなかなか分かりません。大切なのは、「同じ言葉を使う」事ではなく、対話しようとする相手を知ろうとする努力です。それがなければ言葉が同じであっても伝わらないのです。

「世界中は同じ言葉を使って、同じように話していた」、これは相手の思いではなく、自分の主張を押し付ける支配・被支配の物語です。支配者が他の人間を歯車のように使うために言葉を使っていたのです。その中で神は人が人として生きるように解放されているのです。

しかし、そこから私達の苦労が始まります。違う言葉(違う考え方)の人と、苦労しながら一緒に生きて行くのです。お互いと苦労して出会いながら、新しい言葉を探してゆくのです。ヨハネによる福音書では冒頭、「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」(1:14)とあります。神は人となられて、私たちと対話されようとしています。神と人との隔たりを神様が越えて下さって苦労して一緒に生きようとされているのです。私達が使う言葉には、人と人の思い、神と人の思いが重なり合っているかなぁ。 (牧師:田中伊策)

「新しい言葉を求めて」 創世記11章1-9節

「笑いを授ける神」 創世記17:15-22

「笑いを授ける神」 創世記17章15-22節

何で聖書ってこんなに常識外れなのでしょうか。新約聖書・ルカによる福音書1章では、おとめマリアに対して天使が「あなたは男の子を産む」と告げてイエスが誕生したかと思うと、この旧約聖書・創世記17章箇所では100歳と90歳の男女に対して神は「あなたがたに男の子を与えよう」と約束し、そのようになったと記されています。

そんな話、おかしくて笑っちゃいます。けれども正にこの「笑っちゃう」がこの箇所のキーワードなのです。 アブラハムは神様を信頼して旅を続け、そしてようやく住むべき場所を与えられます。しかし、もうその時にはアブラハムは高齢です。パートナーのサラも同じように高齢です。神様は子孫を繁栄させると約束しましたが、「自分たちにはもう無理!」と判断した二人はサラの身の回りの世話をするハガルという女性によって子(イシュマエル)を得ます。

しかし、神は言うのです、「サラによって子を得、サラは諸国民の母となる」。アブラハムは下を向いて笑いながらこっそり「そんな訳あるかい!」と言い、そして上を向いて「神様、もう子は与えられています。イシュマエルを跡取りにします」と言います。ところが神は「サラとの間に男の子が生まれるから、名をイサク(彼は笑う)と名付けなさい」と言って去ります。 大切なのは神があなたに「イサク(笑い)を与える」と言われた事です。

それはこの二人の計画とは違うものです。人間は様々な計画を立てます。計画通りに行ったり人並み(常識のまま)に暮らしたりする事が幸せだと思い、計画から離れると不幸のように思います。しかし、だとするとみんな不幸せです。何故なら人生とは思い通りに行かないものだからです。でも、この思う通りにならない人生に神は伴われます。「でも私はいる!きっとあなたを笑顔にする!」信仰とはこの笑顔が生まれる日を目指して進む事です。 (牧師:田中伊策)

「大胆に祈る」 創世記24:11-14

「大胆に祈る」 創世記24章11-14節

今日は創世記アブラハム物語の中から学びたいと思います。

旧約聖書はその内容とまたその量から敬遠されがちですが、実に豊かな人類の知恵と豊かな霊性の物語に満ちています。

まず、創世記ですが、天地創造物語に始まり、人類の創造、罪の起源、現代の原子力を思わせるバベルの塔、また人類の滅びの予言ノアの方舟物語、それにアブラハム、イサク、ヤコブ物語と、小さな物語の飽かせない豊かな物語に満ちています。

今日はその中からアブラハムのイサクの嫁選びの物語です。600キロの旅、砂漠の道を歩いて長旅をして来た、アブラハムに全権を託された、執事エリエゼルは途方に暮れています。

知らない土地、知らない人ばかりの中で、大事なアブラハムの長子イサクのお嫁さんをどう探した良いのでしょうか。エリエゼルは人々の集まる井戸のほとりで祈るのです。その祈りが今日の聖書の箇所です。なんと大胆な無鉄砲ともいえる祈りでしょうか。

しかしこの祈りは神様に全て御委ねした大胆なまでの、神を信頼しきった祈りの姿があります。しかもエリエゼルは大胆に神に信頼して祈るのです。そしてその祈りは神に聞かれ理想的な最善のお嫁さん探しになったのでした。神に信頼し祈る者には、神は真実に答えて下さると言う祈りの典型が此処にあります。私達もその祈りの内容は異なっても、神を信じ、大胆に神に信頼して祈りたいと思います (和白バプテスト教会:川野直人協力牧師)

 

「一緒に食べたら良かったのに」 創世記25:27-34

「一緒に食べたら良かったのに」 創世記25章27-34節

時々旧約聖書を「旧訳」と勘違いされる方がおられます。これだと旧い翻訳という事になってしまいます。「旧約」というのはイエス・キリスト以前の神様と人との約束(つまり旧い約束)について書かれています。「私(神)があなたがたを救い出すから、あなたがたは私に従って来なさい」という約束(契約)について書かれています。

それに対して「新約」とはイエス・キリストを通して与えられた新しい神と人との約束(だから新しい約束)です。「私(神)があなたがたを愛するから、あなたがたはこの私の愛を受け取りなさい(信じなさい)」というものです。

旧約聖書はイエス・キリスト以前のイスラエル民族に与えられた約束で、読み手はほぼイスラエル(ユダヤ)人です。つまりこれはユダヤ教の経典です。それに対して新約聖書はすべての人に与えられた約束で、キリスト教で読まれます。そしてキリスト教は旧約聖書も用いています。 けれども、旧約聖書と新約聖書の間には大きなギャップがあります。旧約聖書は血なまぐさく、そして律法を守るという事が非常に重んじられます。

このギャップを解消するためには、私達読み手が旧約聖書の限界を越えて読む必要があります。旧約聖書はイスラエル民族を中心として、イスラエル人の視点で「イスラエル人によって」書かれています。そうなると他の民族との間には壁があり、敵となる場合が多い訳です。

でも新約聖書においてイエスは、愛はその壁を壊すのだ、と示されます。イエスが与えられたのはその旧約聖書の限界を越えるために来られたのです。新約聖書と旧約聖書との間に隔たりを感じれば感じるほど、そこにイエス様の来られた意味を知ることが出来るのです。そして、イエス様が越えられたその限界を私達も越えて聖書を読み、そしてそのように生きるように促されています。 (牧師:田中伊策)

「人は良い種」 マタイ13:24ー30

聖書はこんな言葉で始まっています。「初めに、神は天と地を創造された」(創世記1:1)。

これはつまり、神様がすべてのものを作って、そこからすべては始まった、と聖書は教えているのです。「神は言われた『光あれ』こうして、光があった」(同1:3)と書かれています。「言われた」それはつまり、神様はこんなふうに思ったということです。

言葉というのは神様の気持ち、そしてその気持ちが形になった、「光あれ」それは真っ暗な人の世に光が欲しい、この真っ暗な中だとみんなが道に迷ってしまうから、光が欲しい、って、そうした神様の気持ちが、心が、言葉が形になったのがこの世界なんだ、と聖書は教えています。

悲しんでいる人、困っている人、ダメだって言われている人、そんな人たちに対して神様はこの人達に光があったら、って思われています。長い間、ずっと神様はその暗い中にいる人達と一緒の気持ちになっていました。そして、そこがパーって明るくなった。それがイエス様です。

イエス様は神様の「みんなのために光が欲しい」という気持ち、そして「光あれ」という言葉がそのまま命になった方です。だから、その光のところにたくさん悲しんでいる人たちが集まって来たのです。その「光あれ」と言われた聖書の始めのお話には、こんな事も書かれています。「神はご自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女とに創造された」(同1:27)。神様は人を作られた。私たちです。

そして私達は神様に似たものとして作られた、というのです。どこが神様と似ているのか。私達が神様の喜ばれる事を行う時に似て来るのです。この世の中に、そして悲しんでいる人たちの中に「光あれ」と言われたように、私達も悲しんでいる人達のそばに行って「光があったらいいのにねぇ」って思う時に、神様に似た姿になっているのです。

その神様は人をつくられた後で「それは極めて良かった」(同じ1:31)と言われます。神様は命を、そして私達人を良いものとして作られたのです。私たち一人一人は神様から蒔かれた良い種なのです。 (牧師:田中伊策)

「人は良い種」 マタイによる福音書13章24~30節