タグ別アーカイブ: マルコ

「支えられて生きている」マルコ8:34―9:1

イエスはよく旅をされています。そして癒されたという事が聖書に書かれています。それは正に、取り残された、おいて行かれた人々のところに自ら分け入って出会われた、という歩みだったのではないでしょうか。ルカによる福音書2章で、イエスの誕生の際に、天使たちが行ったのは街中ではなく、野原でした。当時、人口調査のために、人々が皆自分の故郷で登録していた最中、羊飼い達は何も変わらず羊の群れの番をしていた。それは、彼らが人の数に入っていなかった、人として認められていなかった、という事です。

そんなところに天使たちがやってきて「すべての民に与えられる大きな喜びをあなたがたに告げる。今日ダビデの町にあなた方のために救い主がお生まれになった」と告げる。忘れられ、取り残され、捨てられたあなたがたのためだ、って天使は言う。それが嬉しくて羊飼いたちは、イエスに会いに行ったのです。イエスが旅をしたのはそんな忘れられ、取り残された人々と出会うためであり、神はあなたを忘れていないよ、愛しているよ、って語り、そしてそれを嬉しいと思う人たちが、イエスの周りに集まった。3000人、5000人、10000人の人たちが食べ物も持たずにイエスのところにやってきた。そんなことが書かれているのです。


イエスは忘れなかった、イエスの思いはそんな人たちに向けられていた。それは人間性の回復、命の回復のためです。自分を守るために他者を捨て、進んでゆくような社会や宗教になんの意味があるのか、という問いを投げかけているのです。ユダヤ教社会では律法を守る者が立派で、守られない人は駄目、そしてそれはその人の責任だと思われていました。自分に火の粉が掛からないように、人を切ってゆく、そういう社会に成り下がっておりました。けれども、イエスはそんな社会から切り離され、忘れられた人を再びつなぎ、共に生きてゆく中にこそ、人間の生きる道があり、命の意味があるとしていったのです。(牧師 田中伊策)

「支えられて生きている」マルコによる福音書8章34節―9章1節

「断念から始まる自由」マルコ8:27-33

フィリポ・カイサリアという町を巡った時、イエス様は弟子たちに「人々は、わたしのことを何者だと言っているのか」(27節)と尋ねます。それに対して弟子たちは「洗礼者ヨハネ(が生き返ったの)だ」とか「(預言者)エリヤ(が天から下ってきたの)だ」とか「(神の言葉を伝える)預言者の一人だ」とか言っています、と伝えます。

その返事を聞いてイエス様は、「それではあなたがたは私を何者だというのか」(29節)と尋ねます。イエス様の一番弟子のペトロは答えて言います、「あなたは、メシアです」。新共同訳聖書ではこのペトロの返答をこの記事の表題にして「ペトロ、信仰を言い表す」と書かれています。けれども、それに対してイエス様は「御自分の事を誰にも話さないようにと弟子たちを戒められた」(30節)と書かれています。信仰を言い表したペトロを褒めるのではなく「誰にも言うな!」と戒めたとはどういう事でしょう?その答えは、少し先の33節にあります。

イエス様はこれから自分は苦しみを受け、指導者たちから排斥されて殺され、三日目に復活する事を語ると、ペトロはイエスをわきに連れて行って諫めようとします。するとイエスは「ペトロを叱った」(33節)と書かれています。この「叱った」という言葉と先ほどの「戒められた」(30節)は、ギリシア語の聖書ではどちらも「エピティマオウ」という単語が使われています。そこから考えると、ペトロの「メシア」という言葉に対してイエス様が「誰にも言うな」と言われたのは、その言葉が的外れだったからだと考えることが出来ます。

「メシア」という言葉を私たちはすぐに「キリスト」「救い主」と変換してしまいますが、元々の意味は「油注がれた者」(=王様)という意味です。ペトロは、イエス様はこの国を政治的に統治し、ローマ帝国を打倒してくれる新しい王様だ、と言ったのです。だからこそ、イエス様はその後で自分は殺されるというのです。周りの人も、そして弟子たちでさえも、そして時に私たちもイエス様を偶像化しようとしてしまいます。自分の思い通りの王しか認めない、そんな思いこそがイエス様を十字架につけるのです。信仰とはそんな偶像から離れる事です。そんな思いを断念してイエスに従う、それが信仰です。それは自分から自由になる事でもあります。(牧師 田中伊策)

「断念から始まる自由」マルコによる福音書8章27-33節

「新しい歩みへの招き」マルコ8:22-26

「一行はベトサイダに着いた。人々が一人の盲人をイエスのところに連れて来て、触れていただきたいと願った。」(22節)。この人々の行為は愛にあふれた行為です。目が見えない人に関わるということは、当時の考え方である「目が見えないのは罪のせい。神様の罰だ」という考え方に真っ向から反対する行為です。下手をすると、周りの人まで罪びと扱いです。それはまるで、いじめられている人の仲間になったら、今度はその人がいじめの対象になるようなものです。でも、彼らはこの盲人をイエスのところに連れてきた。そして触って欲しいと願うのです。


「触れる」つまり、その人に手を置く、という行為は「神様の祝福があるように」と祈って欲しい、という意味があります。光の園の誕生会でいつも私はマルコによる福音書10章13節からの言葉を読みます。そこにはこう書かれています。「イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。しかし、イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。『子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。』そして、子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された。」人々もまた彼に神様の祝福があるように祈って欲しい、として連れてきたのです。「病気やハンディキャップは神様の罰だ」という社会のルールや常識に真っ向から立ち向かい、イエスに「罰ではなく祝福を」と願う人々の気持ちがここにあります。


しかし、それだけではありません。目の見えない人にとって触れられるということは、ほかの人との距離がゼロであることを感じられる事柄だからです。耳で声や音を聞いて距離や方向は感じられます。でも直接触られること以上にその近さを感じる事の出来る事柄はありません。「神様は共におられるよ、あなたのすぐそばに」触れるということはその距離の近さでもあるのです。(牧師 田中伊策)

「新しい歩みへの招き」マルコによる福音書8章22-26節

「噛み合わないパンの話」マルコ8:11-13

「噛み合わないパンの話」マルコ8:11-13

昨日(10/1)、熊本の地震で被災された方々の新しい生活の場である仮設住宅に食器をお渡しに行きました。避難所暮らしの時は紙やプラスチックの容器や食器で食事をされていたので、新しい生活に入るにあたって自分の陶器の食器で食べることで少しでも普段の営み、日常を取り戻して頂けたらと思います。陶器市のように並べた食器の中から、皆さん自由に手に取って好きな物を選んでかごや袋にいれて喜んで帰ってゆかれました。一人のおばあちゃんが熱心に茶碗を選んでおられました。「どんなの食器を探しているんですか?」と一緒にボランティアに行った方が声を掛けると「かわいいの」とのこと。そして言葉を続けられました。「この仮設に私一人で住むんだけど、ほら、後ろにいる孫達がここに来た時に一緒にご飯が食べられるように」。後ろには二人の小さな女の子。少ししてみるとその子たちも一緒に探し出しました。器を選ぶ、それは自分のこれからの生活を思い描く事でもあるんだな、と思いました。このおばあちゃんは、このお孫さんと一緒に食べることが出来るのを楽しみにしているんだなと思いました。お孫さんもそうしたいと思ったようです。食べるということは生きるということです。だから何を食べるかということはとても大切です。でも、同時に誰と食べるか、ということも大切です。それは誰と生きるかということだからです。そして人は一人では生きられないからです。
私達は月に一度、主の晩餐でパンと葡萄ジュースを頂きます。これはイエス様の歩みや言葉を思い起こし、そしてイエス様の十字架を思う事でもあります。そのことを思い浮かべながら食べます。この出来事をとても大切な事柄として記念として私達は行います。同時にイエス様の事だけ、つまり何を食べるか、だけでなく誰と食べるかということも私達にとって大切です。そうでなかったら教会で一緒に食べる意味ないからです。むしろこっちの方が大切かもしれません。何故ならケンカしながら食べたら、後から「何食べたっけ?」みたいになるからです。誰と食べているか、ここに誰がいて欲しいか。クリスチャンも一人では生きられないのです。「互いにかみ合い、共食いしているのなら、互いに滅ぼされないように注意しなさい。」(ガラテヤ5:15)(牧師 田中伊策)

マルコによる福音書8章11-13節

「今、私にできること」マルコ8:11-13

「ファリサイ派の人々が来て、イエスを試そうとして、天からのしるしを求め、議論をしかけた」(11節)

ファリサイ派の人たちは、無理難題を吹っ掛けようとしてやってきました。それが「試す」という言葉です。「試す」という言葉は「試験をする」という意味です。試験をするというのは先生が生徒をテストするということ、「お前が分かっているかどうか私が調べる」ということです。問題に答えられたら合格、答えられなかった失格、ダメということになります。偉い人は、〇か×をつけるだけです。イエス様にはそれがとても残念でした。

悲しんでいる人たちが笑顔になった、それはとても嬉しいことです。お友達が泣いていたら、「どうしたの?」っていうでしょ?そして元気になって欲しいと思うでしょ?そんな気持ちが大事なのに、この人たちは、お友達の事ではなくて、自分の事ばかり考えていたからです。自分が人気者になりたい、ってそればかり。どうしたら自分のところに人が集まってくるか、ばかり考えていたからです。

でも、イエス様は歩き回って、悲しんでいる人のところに行って話を聞いて「そうか、それは悲しいね」と一緒に泣き、困っている人のところに行って話を聞いて「そうか、それは困ったね。一緒にお祈りしようか」と祈ったり、病気の人のところに行って「ここかなぁ、痛いのは」ってさすったり、そうして、その人たちが「ああ、私のことなんて誰もわかってくれないと思っていたのに、この人は私の悲しみも、つらい気持ちも、痛い場所も分かってくれる。私はひとりぼっちじゃない」、そう思って「よし、もういちど頑張ってみよう」とか「なんだか、元気が出てきた」とか。

状況は何も変わっていないのに、悲しんでいる人の心が元気になったり頑張ろうと思ったり、そういう事が起きたらすごいでしょ。それこそが「奇跡」です。そして、そのためにイエス様はあちらにゆき、こちらに行き、一生懸命いろんな人と出会おうとされたのです。「また舟に乗って向こう岸へ行かれた」(13節)。新しく出会いに行かれたのです。私たちもついてゆきましょう。(牧師 田中伊策)

「今、私にできること」マルコによる福音書8章11-13節

「生きているからお腹は減るのです」マルコ8:1-10節

マルコ8章で、イエスは多くの群衆を前にして弟子達に「群衆がかわいそうだ。もう三日もわたしと一緒にいるのに、食べ物がない。空腹のまま家に帰らせると、途中で疲れきってしまうだろう。中には遠くから来ている者もいる。」(2・3節)と言います。それに対して弟子たちは「こんな人里離れた所で、いったいどこからパンを手に入れて、これだけの人に十分食べさせることができるでしょうか。」(4節)と当たり前な返事をします。けれど、少し前の6章では同じ状況の中でイエスは五つのパンと二匹の魚を祈って弟子たちに分けるように言い、それを弟子達が分けると、そこにいた多くの群衆が満腹した、ということが書かれています。
例えば、何人かで車でドライブに行っていたら、途中で車が故障した。すると友人の佐藤君が「僕に任せて」といって修理してくれたのでまたドライブを続けることが出来た、とします。それから一か月後、また同じメンバーでドライブに行ったら、また同じ個所が故障した。そうしたら「佐藤君、またお願いできるかな?」って真っ先に言う。当たり前の話です。同じように弟子たちは前回の事を思い出して「イエス様、お願いします」と言ってよいはずなのにそうは言わなかったのです。イエス様が目の前にいるのに、弟子達は常識に流されてしまった、それもまた当たり前のことです。何故なら私たちは人間ですから。
神様を信じたから不安がなくなるとか、すべての事を信仰的に考えられるとか、なかなかなれないものです。そしてそんな不信仰な姿にがっかりしてしまう。けれども、それが人間なのです。満腹してもまたおなかが減るように、信じていても疑い、常識に頼ってしまう、それが人なのです。
この出来事の中でイエスは「パンを取り、感謝の祈りを唱えてこれを裂き」(6節)弟子達に分けるように言います。再びイエスは同じことをされます。そして、再びみんなで満腹します。忘れてしまう弟子たちにイエスはこの分かち合う恵みを思い出させてくれます
私達も何度でも思い出さなくてはなりません。毎月行う主の晩餐でも「パンを取り、感謝の祈りを唱えてこれを裂き」という言葉が読まれます。忘れてしまう私達、世の常識、世の当たり前に絡み取られてしまう私たちに、すべての人に与えられている神の恵みの当たり前を思い起こすためにパンを頂きます。そしてその神の恵みの当たり前を生き、そして神の愛の当たり前を伝えるために十字架にかかられたイエスを思い起こすために杯を頂くのです。
(牧師 田中伊策)

「生きているからお腹は減るのです」マルコによる福音書8章1-10節

「その声は心に響いた」マルコ7:31-37

8月の日々を過ごしています。平和ということを深く考えさせる月です。でも、テロは起こり、争いは止まず、日本の首相は先制攻撃で核を使わないと言うアメリカを批判する、「つまり先制攻撃に核を使え!」と言っている、原子爆弾を落とされた国の首相が。さらに、防衛費をあげよ、と言う。対話ではなく武力こそが大切なのだ、と言っている。選挙は負け、シールズは解散する。どんどん平和への道が遠ざかります。どんどん国と国との間の距離が広がり、人と人との間の隔てが高くなる。この距離、この隔てを前にして対話でなんてつながらない、そう思う中で、それでも私たちが愛そうとする、つながろうとする時その思いと業をイエスは愛しみ、「開け」と語られ、その隔てを崩し、そしてつながれます。

平和のために武器を使うのは試験のカンニングや運動選手のドーピングと同じです。努力の方向を間違い失格になってしまうような行為です。大切なのは過程です。福音書に書かれているイエスの姿は、人と人とを愛でつなぎ、神と人とを愛でつなぐことにひたむきに進まれた姿です。「耳が聞こえず舌の回らない人」と人々をつなぐために「指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられた」イエス、そして正しく歩めず、神を忘れ、すぐに絶望してしまいそうになる私たちと神とをつなぐためにその弱さを担い十字架にかかられたイエス、その姿が福音書のイエスです。手を伸ばしても平和に届かない私たちの先でイエスは「開け」と語り、そして結んで下さいます。私たちがイエスを信じるという事は、単に心で信じるにとどまらず、歩みだすその先に働いてくださり、つないで下さる事を信じるということです。イエスは私たちの共に生きようとする小さな一歩を、愛そうとする一歩を愛しまれ、つないでくださいます。 (牧師 田中伊策)

「その声は心に響いた」マルコによる福音書7章31-37節

「この言葉を支えにして進め」マルコ7:24-30

この聖書の個所の前、7章の1~23節でイエスはゲネサレトという場所におりましたが、そこにエルサレムから律法の専門家たちがやってきて、イエスや弟子たちの様子に文句を言っています。ゲネサレトという片田舎に中央の学者さんがやってきたというのは、「何やら危険思想の持ち主が活動しているらしい」ということで調べに来たのです。

それはつまり国家的にイエスは危険人物だと判断するような時期に来ていたということです。それで、イエス様はがっかりするやら疲れるやらで、この国から逃れようか、ということでイスラエルの国を出て北西のティルスというところに来たというのです。一人になりたかった。しかし、見つかってしまいます。

やってきたのはギリシア人の女性。彼女は「娘から悪霊を追い出してくださいと頼」みます。しかしイエスは次のように答えたと書かれています、「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない。」「子供たち」というのは同胞イスラエル人のことです。そして「小犬」というのは異邦人の事です。

つまりこういう事です、「私はイスラエルの人々を愛し、慰めを語り、癒し、救わなくてはならないのだ。イスラエルの人々に向けて行わなければならない事柄を、異邦人に行う訳にはいかない」というのです。このままだと、とても感じの悪いイエス様ということになりますが、この時のイエス様の状況を考えると、少し違った意味に考えることが出来ます。

イエス様はこの時、がっかりしている訳です。福音が伝わらない、それどころか危ない人物としてブラックリストに載るような状況です。そんな状況に打ちひしがれたイエスは、こんな風に女性に語ったのではないでしょうか「イスラエルの民ですら救えていない。私の言葉は踏みつけられている。そんな状況の中で異邦人のあなたがたを癒すことなんて今の俺には考えられないよ」って。

それでもこの女性は言います、「主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます。」彼女は言うのです、「でも、受け取られていないあなたの言葉を私たちが拾っても誰も文句は言わないんじゃないでしょうか?その踏みつけられたあなたの言葉は私にとって命の言葉です。捨てられても、踏みつけられても、あなたの言葉は私を生かす命の糧です。娘の命を救う光です」って。

その言葉を聞いてイエスは言います「それほど言うなら、よろしい。家に帰りなさい。」(直訳:この言葉の故に、行きなさい)。娘のために一生懸命になる女性の信仰にイエスも呼応して希望の言葉を語ります。この世の不条理に一緒に痛み座り込む私たちと一緒に主は痛み、そして一緒に立ち上がるのです。  (牧師:田中伊策)

「この言葉を支えにして進め」マルコによる福音書7章24-30節

「腹に入りて厠に落つるなり」マルコ7:1-23

18-19節に「すべて外から人の体に入るものは、人を汚すことができないことが分からないのか。それは人の心に中に入るのではなく、腹の中に入り、そして外に出される」とあります。人に対して「汚れている」と言って裁くけれど、その「汚れ」なんて大したことない。

汚れた食べ物と呼ばれている物だって、おなかに入れてもやがては外に出てゆく。それはただのに日常の営みじゃないか。むしろやっかいなのは、体に入る食べ物よりも心の中に巣食う人を悪く言って自分を正しいとしようとする気持ちだよ、イエスはそう言っているのです。

この言葉の後半を文語訳では次のように書かれていました、「汝らもしか悟りなきか、外より人に入る物の、人を汚しえぬを悟らぬか、これ心には入らず、腹に入りて厠におつるなり』」。私は聖書を日本語に訳された方は皆ギリシア語を専門とされている方ですので、聖書の訳の良し悪しは言わないのですが、この文語訳の方が格段に良いと思います。

イエス様ははっきり「おなかに入ったものは便器にドスンとうんことして出てゆくだけだ」と言われているのに、新共同訳ではそれを「外に出される」とオブラートに包むように上品な表現になっているからです。それは訳す人が「厠」を「下品だ」と思ったからです。

言い換えるとイエス様の言葉を上品に、キリスト教を上品にしようとしている、お高くとまろうとしているのです。イエス様は「小さな者として生きよ、神は共におられる」と言っているのに、そのイエスを信じる者が自分を偉い者、立派な者、上品な者にしようとしているところに人間の罪が見え隠れします。誰だってトイレに行く、クリスチャンになったってトイレに行く。それは毎日の営み、私たちの日常です。

この日々の生活、毎日の営みにイエス様を迎える事が大切なのです。上品に見せなくていい。強く見せなくていい。そんなもの、ドスンと捨てちゃいましょう。この小さな私の傍らにおられる神の愛が表されたら、私の罪のために十字架にかかられたイエス様が表されたらそれでいい。そんな歩みをしてゆきたいと思います。(牧師:田中伊策)

「腹に入りて厠に落つるなり」マルコによる福音書7章1-23節

「愛する者へと変えられる」マルコ6:53-56

「一行が舟から上がると、すぐに人々はイエスと知って、その地方をくまなく走り回り、どこでもイエスがおられると聞けば、そこへ病人を床に乗せて運び始めた。」(54・55節)

アメリカのプロ野球、メジャーリーグにかつてジャッキー・ロビンソンという選手がおりました。彼は1945年にアメリカのアフリカ系の黒人がプレーする野球のリーグの選手になりましたが、その活躍が目に留まり、メジャーリーグのチームに誘われます。

ところが当時は黒人に対するひどい差別があり、そのため彼はひどい仕打ちを受けます。観客からは暴言と共に卵を投げつけられたり、打席に入ると相手のピッチャーがジャッキーの頭めがけてボールを投げたり、同じチームの選手の中には黒人と一緒のチームでは野球は出来ない、とチームを去ったり。それでも、彼はふてくされずに、また暴力的にならずにプレーを続けます。自分の野球人生だけでなく、後に続く黒人の選手の道を閉ざすことになるからです。

それで彼は、どんなに差別されても、どんなに危険なプレーをされても、紳士的にプレーをし、結果を出します。そんなジャッキーの姿に、少しずつ周りが変わり始めます。監督は「肌が黄色でも黒でも構わない。チームのためになる選手を起用する。従えない奴は去ってくれ!」と言い、チームメイトも観客の心無いヤジや相手チームの危険な行為に対して抗議をしたり、彼を守ったりするようになります。

そして彼のチームは優勝し、ジャッキーも新人王を取ります。その後も彼は活躍し、引退し、亡くなります。やがて彼の背番号42番はメジャーリーグで永久欠番となり、彼がメジャーリーグでデビューした4月15日は「ジャッキーロビンソンデー」となり、その日は選手は全員42番の背番号をつけてプレーをしています。彼の生きざまに触れ、彼に出会った人達が少しずつ変わり、そしてその変化が広がって行ったのです。出会いは人を変えます。

「一行が舟から上がると、すぐに人々はイエスと知って」、この「人々」がイエスを見ただけでイエスをイエスと判別できたということは、この人々が既にイエスと出会っていたということです。その出会いの中で愛され救われた人々は、イエスがしたように悲しむ者、悩む者を探し出します。そしてイエスの元に連れてゆこうとします。イエス様と触れあってその愛を知った彼らは愛する者へと変えられていたのです。出会いは人を変えるのです。(牧師:田中伊策)

「愛する者へと変えられる」マルコによる福音書6章53-56節