タグ別アーカイブ: ヨハネ

「透明な私がイエスを映す」ヨハネ1:19-28

「わたしは水で洗礼を授けるが、あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる。」(26節)この言葉は聖書ごとに違う訳がなされています。別の訳ではこんな言葉になっています、「あなたがたの中に、あなたがたの知らない方が立っています」(聖書協会共同訳)。ちょっと聞くと何だか怖い言葉ですよね。「ほら、あなたがたの間に知らない人が立っていますよ~」なんて言われたら「キャー!」ってなりそうです。でも、そういう話ではなくて、あなたがたまだ知らないけれど、あなたがたのただ中にあの人はもうおられるんです。

その方はね、あなたがたが生まれた時から共におられ、あなたがたと共に歩まれ、あなたがたとともに逝かれる、決してあなた方から離れられることのない方なのですよ。既にあなたがたと共におられるその方を、もうすぐあなたがたは知る事になる。私はその方に遠く及びません。ただ、透明になってその方を映し出そうとするだけです。ヨハネはそういうのです。

そしてそれこそが、ヨハネがバプテスマを授ける意味です。祭司たちはどうしてヨハネがバプテスマを授けるのか?と言う。その資格がお前にあるのか?と問います。でも、大事なのは誰が授けたかではないのです。

ヨハネは「あなたがたの中にはあなたがたの知らない人が立っています」と言いました。その方はいつも共におられ、人々の嘆きや悲しみや怒りや弱さを知っておられます。それは、私にはどうしようもないものです。内からふつふつと湧いてくる。蓋をしたら別のところから爆発するような、人を傷つけ、自も傷つけるようなそんなもの。そして共におられるその方は私の中にあるそんなものすら知っておられます。そして、そんな私たちの嘆きや悲しみや怒りや弱さ、そんなもの一切を抱えて自分の罪として十字架にかかられた。私達を愛され、私達を赦し、「私が引き受けるよ。もう大丈夫だよ。ここから新しく生きよう」って私たちを救って下さった。

「大事なのは誰が授けた」ではなく「誰と共に受けるか」ということです。バプテスマというのは水槽の中に腰か胸まで入って、それから全身浸ります。それは罪の自分はここで死んで、イエス様と共に新しい命に生きるということです。そう、大事なのは私のために十字架にかかられて死なれたイエス様と共に罪の自分も死に、死から復活された主と共に新しい命に生きる、それこそが大事なのです。誰に授けてもらったかではなく誰と共につまり、主と共に受ける、ということこが大事なのです。(牧師:田中伊策)

「透明な私がイエスを映す」ヨハネによる福音書1章19-28節

「私達の間に宿られた恵み」 ヨハネ1:14-18

ヨハネは、この方について証しをし、声を張り上げて言った。「『わたしの後から来られる方は、わたしよりも優れている。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのはこの方のことである」」(15節)とあります。バプテスマのヨハネはイエス様よりも先に人々に神の国を語り、やがて私よりも優れた方が来る、と言いながら、同時にこの方は私よりも先におられたと言います。

「後から来る方は、わたしよりも前におられた」というのは不思議な言葉です。これはつまり、神様は私たちよりも前におられる。私たちの命よりも先にあり、愛し、選んで命を与えられた方です。このすべてに先立っておられる神様を正しく伝えるのは私よりも後から来るイエスだ、と言っているのです。

この「わたしの後から来られる方は」「わたしより先におられた」、この言葉は「わたし」の後と先を挟んでいます。つまり、私たちは神様の恵みに挟まれている。生まれる前から死に至るまで、いえ、その先まで私たちは神様の恵みの中にある。私たちを後ろからささえ、私たちを前から導く方。私たちの真ん中におられる方は私たちを恵みによって挟んでいます。

それだけではありません。「わたしたちは皆、この方のみち溢れる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた」とあります。わたしたちの上にてんこ盛りに恵みを加えて下さる方だ、というのです。私たちは神を知らなかった時から神様に愛され、恵みを受けていたけれど、その方を知った時、イエス・キリストによってその恵みの大きさに圧倒されます。

私たちのうちにイエス・キリストが宿る時、前にも後ろにも神の愛に挟まれている事を知り、そして上にも神様の恵みが積み重なるように与えられた、というのです。私たちの内におられる神は、前にあり後ろにあり、そして上におられる。私たちは恵みに「囲まれている」というのです。(牧師:田中伊策)

「私達の間に宿られた恵み」ヨハネによる福音書1章14-18節

「光だけが残る」ヨハネ1:6-13

バプテスマのヨハネという人物について、マタイによる福音書3章1-3節ではこう書かれています。“そのころ、洗礼者ヨハネが現れて、ユダヤの荒れ野で宣べ伝え、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言った。これは預言者イザヤによってこう言われている人である。「荒れ野で叫ぶ声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ』」”

ここにはヨハネの事を「荒れ野で叫ぶ声」だと言っています。声というものは通り過ぎてゆくものです。今は録音とか出来ますけれど、声自身は発せられて響いて消えてゆくものです。そして心の中に言葉だけが残るのです。同じようにヨハネはイエス様を指示し、そして通り過ぎてゆく、去ってゆく。残るのはイエス様だけ。聖書がヨハネを「荒れ野で叫ぶ声」と言う表現は見事だと思います。この「荒れ野で叫ぶ声」はヨハネの人となり、ヨハネの生き方をそのまま表す言葉です。

そして、それこそが「証し」だと思います。証し、というのは、私たちの生活の中の出来事を通して神様がこのように働いて下さった、神様の愛を知ることが出来た、というそういうお話です。教会関係の集まりの中で、また教会員同士の中で「証し」がなされることがあります。でも、聞いていたら証と言いながら「私こんな経験をしたんです」とか「この間、こんなことがあったんです」で終わる話も少なくありません。そういう時は「私が、私が」というところに中心があるのです。「私の」一生懸命さを、「私の」熱心さを、「私の」祈りを神様は聞いて下さった。しかし、証と言うのは、最終的には私は消え、神様の恵みだけが残る、そういうものを証と言うのです。神の言葉だけが残る、イエス様だけが残るヨハネの声のようなものが。そうでないと私を誇ることになり、最終的には、こんなに祈ったのだからこうなるべき、と知らず知らずのうちに私が神になってしまいます。証というのは私が「通り過ぎる声」になる事、そして神様の言葉だけが、神様の愛だけが、注がれた光だけが残ることを喜ぶ事です。(牧師:田中伊策)

「光だけが残る」ヨハネによる福音書1章6-13節

「愛の目印」ヨハネ1:1-5

1:1 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。
1:2 この言は、初めに神と共にあった。
1:3 万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。
1:4 言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。
1:5 光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。

「初めに言があった」、この「言」という字は「言の葉」ではなく「言」という一文字で記してあります。これは、単に「原語」とか「言葉」という意味ではありません。

新約聖書が書かれたギリシア語では「ロゴス」という単語が使われているのですが、このロゴスにはたくさんの意味があります。「言葉」「理性」「真理」「論理」「調和」、外にもいろいろ訳される言葉です。この言葉にはいろんな意味が溢れています。

つまり、この「初めに言があった」という言葉には、神様の溢れんばかりの思いが詰まっています。その溢れんばかりの思い、溢れんばかりの愛が神様の創造の業の原点です。そして、その神様の思いが言葉になり、神様の創造の業となっています。

万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった」。神様の「愛」、神様の「良し」、神様の「満足」の中にすべてのものはあるのだ、と語っています。そして、その愛を最も受けているのが私たち人です。

しかし、その愛の中にある私たちは、同時に闇を抱えています。その闇を照らすために神様はその愛の形として一つの命を与えられた。それがイエス・キリストです。「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった」とはそういう意味です。

 (牧師:田中伊策)

「愛の目印」ヨハネによる福音書1章1-5節

「マルタとマリアの信仰」ルカ10:41-42,ヨハネ11:17-27

2018年も明日をもって終わります。12月は、何かと慌ただしい時でもあります。聖書の中で、「忙しい女性」といえば、マルタが、まず浮かんでくるのではないでしょうか。マルタとマリアの姉妹の二つの物語は、私たちに何を問いかけているのでしょうか。

 ルカによる福音書(10:38~42)では、イエス様をもてなすために、一所懸命に食事の準備をするマルタに対して、マリアは、イエス様の足もとに座って、話しを聞き入っています。マルタは、イエス様にマリアに手伝うようにとお願いします。それに対して、イエス様は、「あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない」とマルタを諭します。

 ヨハネによる福音書(11:1~37)では、ラザロが亡くなった後に来られたイエス様を迎えたマルタは、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。」と文句を言います。しかし、続けて「あなたが神にお願いすることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」とイエス様からの慰めがあることへの期待と願いを込めます。そして、イエス様から、「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」の問いかけに、「主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております」と信仰告白します。一方、マリアは、イエス様に会うと、マルタと同じ言葉で、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と文句をいって、後は、一緒にいた人達と泣くばかりです。

 この二つの物語から私たちは、マルタとマリアの姉妹をどう見たらよいのでしょうか。マリアは、何よりもまず、イエス様の御言葉を聞こうするとする人です。信仰者として大切な姿勢であることは間違いありません。一方マルタは、イエス様を信頼し、この世の煩いに積極的に立ち向かう人です。そして、いつもイエス様を迎えいれ、仕えているのです。

私は、マルタのように、イエス様を積極的に迎え入れてこそ、神様との生き生きとした対話ができるのだということに気づかされました。そして、イエス様に仕えるように、小さい人々にも積極的に仕えていくことが必要なのだと。イエス様は、私たちに大事な掟として、「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」「隣人を自分のように愛しなさい」と示されました。イエス様は、常に自分を迎え、仕え、対話をするマルタと、イエス様の話を何よりも聴こうとするマリアを愛されたのです。私たちもこの姉妹のように、イエス様の御言葉を聞き、迎え入れ、仕えていこうではありませんか。アーメン
(篠田裕俊)

「マルタとマリアの信仰」
ルカによる福音書10章41~42節
ヨハネによる福音書11章17~27節

「互いに足を洗い合う」 ヨハネ13:14

キリスト教用語で「受肉」と言う言葉があります。日本語ではほとんどキリスト教でしか使われない言葉です。ギリシア語では「エンサルコーセー」、英語では「incarnation」という単語が使われています。この英語の言葉には、「化身」とか「具体化」とか「権化」という意味もあります。ドラマとかでとても悪い奴のことを「悪の化身」なんて言います、あの「化身」です。

「悪というものに形があり、それが人間となったらきっとこんな姿形なのだろう」というそういう意味です。「受肉」というのも正にそういう事で、「神様は見えないけれど、イエス・キリスト、この方こそ見えない神の形、人となった神だ」ということです。「神が姿、肉体をとって現われたという出来事」それが「受肉」という意味です。神様は私達を愛して下さっている、その愛が形に、愛が姿になった、というのです。聖書を読むと、時々「イエスは深く憐れんで」と言う言葉が出てきます。「憐れむ」というのは上から「お可哀そうに」と下々の者に情けをかける、と言う意味ではなく、相手の痛みを自分の痛みとする、という事です。

私の友人の子どもが子どもの頃にテレビを見ていて、誰か人が血を流しているのをみて「いたい、いたいが出ている」と言ったそうです。人が血を流している、その姿に、自分が血を流した時の痛みと重なったのでしょう。その人の痛みが自分の痛みとなったでしょう。イエスはその他者の痛みを自分の痛みとして行った。相手の痛みに自分の心も体も痛む、正にそれが「憐み」なのです。イエスは更にその人の悲しみ、弱さ、罪さえも自分の事柄として行った。その罪を自分の事として背負って行った。それが十字架です。だからキリスト教では、十字架が掲げられています。私の弱さや罪を背負ってイエスは十字架にかかられたそこに神様の愛を見る、見えない神の愛をイエスを通して見る「受肉」なのです。 (牧師:田中伊策)

「互いに足を洗い合う」 ヨハネによる福音書13章14節

「重症児者と共に生きる」 ヨハネ3:16 ヨハネⅠ4:11

ご 挨 拶 久山療育園 理事長山田雄次

久山療育園は、1976年に開園し39年が経過しました。それに先立つ重症児者と共に生きる久山療育園運動の開始(1967年のバプテスト心身障害児者を守る発足のための第1回会議)からカウントすると約50年の歩みとなります。 試練とも言える厳しい課題に直面させられたことも多々ありました。50名規模の入所施設が94名(長期入所者88名、短期入所者6名)と利用者が倍化し、在宅支援サービスにも積極的に取り組む開かれた施設としてその歩みが導かれたことはバプテスト教会、特に福岡地区にある教会の皆様のお祈りとご支援の賜物と感謝しています。全国にある多くの重症児者施設にあって久山療育園のような強い支持基盤を持つことは稀有な例であり、感謝の極みです。40年という時代の区切りにあたって久山療育園と教会とのつながりを一層強化し、重症児者のいのちと暮らしを守るため、更なる課題の拡充を期してゆきたいと願い、教会訪問のお願いをさせて頂きました。受け入れを頂きましたことを心より感謝申し上げます。

「重症児者と共に生きる」 ヨハネによる福音書3章16節 ヨハネの手紙Ⅰ4章11節

「愛される事を怖れない」 ヨハネ13:34

「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」(ヨハネによる福音書13章34節)

この聖書の箇所は最後の晩餐の出来事の中で語られたイエス様の言葉です。このあと、イエス様は十字架にかかられます。人の心の中にある弱さや悩みや悲しみや、そして罪、そういうものを背負って下さった。どうしようもないこの私の闇の中に来て下さり、その闇を担って下さった、それこそが光であり、栄光です。私達の信仰は、まず神様が愛して下さって、その愛を受け取ってそこから始まるのです。信仰とは恵みに対する応答なのです。

そんな中で「互いに愛し合いなさい」そう聞くと、「今度は私の番、私が愛さなくてはならない」という事ばかり考えてしまいますが、「愛し合う」ということは一方通行ではありません。イエス様が語っておられるのは、「あなたがたの関係の中で愛すると共に愛されなさい」ということです。それはつまり、「あなたが生きるその場所で、お互いに自分の弱さや小ささを受け止めてもらう関係を作りなさい」ということなのです。「互いに」です。

本当は愛するよりも愛される方が難しいのかもしれません。自分の弱さなんて人に見せたくないし、自分の足らないところなんて知られたくない。だから、人は本当の自分を隠してその上に富だとか名誉だとか知識だとか力だとか、そういうものをかぶせてしまう。時には善意や親切という行為さえも、自分を隠す道具にしてしまいます。伝道者パウロは言います、『全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしには何の益もない』(第一コリント13:4)。

愛し合うということは、互いに相手を信頼し、自分の小ささや弱さを受け止めてもらうことの出来る関係です。互いに愛される事を怖れないことです。 (牧師:田中伊策)

「愛される事を怖れない」 ヨハネによる福音書18-19節

「弱い所を大事に」 ヨハネ13:3-8

ヨハネによる福音書を読む人からよく「ヨハネによる福音書は難しい!」という言葉を聞きます。この「むずかしい」というのは、イエス様のお話される言葉も難しく書いてあるのですが、それだけではありません。イエス様がどんな気持ちなのか、分かりにくいのです。ここでイエス様が怒っているのか、悲しんでいるのか、笑っているのか、よく分からないのです。

何考えているんだろう?って思うのです。だからヨハネによる福音書は難しいのです。そしてヨハネさんはわざとイエス様がわからないようにしているのです。神様が「こうお話しなさい」と言われた言葉をそのまま語り、神様が「しなさい」と教えられたことをする、イエス様を見たら神様が見えてくる、そのためにわざとそう書いているのです。

笑いながら話してくれたら楽しいんだ、って分かる。泣きながら話してくれたら悲しいんだ、って分かる。真っ赤な顔をして話してくれたら怒っているんだ、って分かる。でもヨハネの福音書のイエス様は顔が見えないのです。だから難しい。

でも、それは「この時、イエス様はどんな顔をしていたか考えてご覧。想像してご覧」と言っているようにも聞こえます。テレビやマンガ、絵本もそうですが、絵があると表情や気持ちが分かりやすい。でも文字だけの本とか、読み聞かせとかには自分の頭で想像する楽しみもあります。ワクワクします。「聖書ももっとワクワクして読んで御覧」。そうヨハネによる福音書は伝えようとしているように思うのです。そうしたら、無機質に思えるヨハネによる福音書のイエス様がイキイキして、私達に語りかけて来るように思います。 (牧師:田中伊策)

「弱い所を大事に」 ヨハネによる福音書13章3-8節

「風と調べと新しい命」 ヨハネ3:1-15

「風と調べと新しい命」 ヨハネによる福音書3章1-15節

イエス様の歩みや言葉、そして十字架と復活が書かれています福音書には時々「律法学者」とか「ファリサイ人」とかいう名前が出て参ります。この律法学者とかファリサイ人という人々は、イエス様のおられたイスラエルでは一目置かれる存在でした。律法学者は聖書の教えに精通し、それを教えている先生達でした。そしてファリサイ人は、その戒めを特に厳格に守る人々です。

「ファリサイ」という言葉の語源はよく分かっていないのですが、「分離する」という意味の言葉から来ているという説があります。汚れに染まりやすい大衆からの分離なのか、それとも罪や汚れそのものからの分離か、それだけ厳格に律法を守る人々でした。それもそのはず、彼らは旧約聖書の戒めについて「神が律法をユダヤ民族に与えた以上、それは遵守可能なはずである」と考えていたのです。守ろうと思えば守れるのだ、守れないのはその人が弱いからか、堕落しているからだ、と思っていたのです。そして自ら厳格に律法を守っていたのです。

ニコデモもファリサイ派のユダヤ人で議員までしていました。そんな彼がイエス様の所にゆきます。イエス様は彼の悩みを見抜いて言います、「はっきり言っておく。人は新たに生まれなければ、神の国を見る事は出来ない」。ニコデモの悩みとはファリサイ派の人々が「遵守可能」と語っていた律法の限界だったと思われます。律法通りに生きられない事への苛立ちと後悔、悩み、それを打ち明けようとしたら、「新しく生まれなければ…」とイエス様が言われます。

それでニコデモは「年を取った者が、どうして生まれる事が出来るでしょう」と言います。「生まれ変われるものならそうしたいよ。でもそんな事できないだろ」と食ってかかるのです。けれどもイエス様は、自分の努力(律法遵守)によってではなく、神によってであることを語ります。自分で進む事をやめ、風を受けて進む舟のように歩むのです。 (牧師:田中伊策)