タグ別アーカイブ: ルカ

「生きる力に応える」 ルカ6:21

命はいろんな形で誕生します。生まれて30分ほどで立ち上がる動物があるかと思うと、立ち上がるのさえ1年を要する動物もいます。30分で立ち上がるのは、いつ敵が襲ってくるか分からないからです。逃げなくてはならないからです。立ち上がるのさえ1年もかかるという動物は人間のことです。人間は未発達のまま生まれます。その未発達のまま生まれても成長し発達出来るのは、育ててくれる人の存在と環境があって初めて成り立ちます。しかし、人間の赤ちゃんは本当に何も出来ないか、というとそうではありません。何もできないからこそ発達した力があります。それは泣く力と笑う力です。

人間の赤ちゃんは生まれてすぐ大きな声で泣きます。お腹にいる時にはへその緒を通してお母さんから酸素も栄養ももらっていた赤ちゃんは、誕生と共に肺が開いて呼吸を始めます。大きな声で泣いて誕生するのは呼吸をしている証拠です。しかしそれだけでなく大きな声で「未発達な私を助けて!」って伝えているのです。他者に助けを求めるためのコミュニケーション手段に長けているのが人間の赤ちゃんの大きな力です。人間の赤ちゃんのもう一つの力、「笑う」という力はほぼ人間だけに備わったものだと言われています。欲求が満たされ、快い状態である時に赤ちゃんは笑います。それを見て周りは可愛いと思ったり、欲求が満たされたと分かったりします。そしていつの間にか、助ける人にも笑顔が生まれます。

笑う、泣く、それは子どもだけに与えられた物ではありません。大人になっても悲しい時や辛い時に泣きますし、嬉しい時には顔が綻び大声で笑います。それは恥ずかしい事ではなく、私達に与えられた力です。「悲しい時には泣いてご覧。きっとその涙、その泣き声に心動かされ、寄り添ってくれる人がいる。そしてやがて笑顔になる日が来る」。人の涙と叫びに最も心動かされたイエスはそう語るのです。 (牧師:田中伊策)

「生きる力に応える」 ルカによる福音書6章21節

「あなたに触れたのは誰か」 ルカ8:45-46

群衆が押し合いへし合いする中でイエス様は「わたしに触れたのは誰か?」と尋ねます。病気で苦しむ一人の女性がイエス様に触ったら治るんじゃないか、と触れたのです。そして、彼女はその病から解放されたのです。その時に、イエス「わたしに触れたのは誰か?」と言われたのです。群衆がいる中でしたが人々は「私ではない」と言い、お弟子さんは「こんなに人がいるのだから…」と言います。

朝、テレビをつけると昔でいう所のワイドショー的なものばかりやっています。「こんな事故がありました」「こんな事件がありました」ととても痛ましい事故、残虐な犯罪ばかり伝えます。「可哀そうに」とか「ひどい」とか「許せない」とか思いながら見ている人がたくさんいるのでしょう。しかしテレビは見る人にその感情を与えるだけで去ってゆきます。それで終わりです。そして見る側もチャンネルを変えるように、気持ちを変えます。「さあ、朝ご飯を食べよう」とか「行ってきます」とか、「洗濯物、干さなくっちゃ」とか。目の前での事は私とは関係のない事柄だからこそ見る事が出来る、そういうものだろうと思います。もし自分に降りかかるようなものだったら、とても見られない、そう思うのではないでしょうか。

この群衆もそうでしょう。自分とは関係ない、ただイエス様のするのを見に行こうって。本当は目の前にイエス様がいて、本当はもう触れているのに、「いや違うんです。私はあなたとは関係ない」そう言うんですね。それが「自分ではない」というのです。「こんなにたくさん人はいる、こんなにいろんなことが起こる、それにいちいち関わっていられないでしょ」それが「こんなに人がいるのだから…」という弟子の言葉です。

でもイエス様は受け止められるのです。彼女の病、そして痛みを受け止められるのです。自分の痛み、悲しみを知っている人がいる、そう知った時彼女は救われたのです。(牧師)

「あなたに触れたのは誰か」 ルカによる福音書8章45-46節

「全部受け止めるから降りておいで」 ルカ19:1-10

イエス様の言葉の中に「あなたがたのうちのだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。」(ルカ12:25)というものがあります。今は医療が進んでいますので「寿命」は延ばすことが出来るように思えます。

しかし、この「寿命」という言葉、ギリシア語ではヘリキアと言って「身の丈」「身長」「背」という意味でも使われています。私達はどう頑張っても身の丈は変わりません。背伸びをすれば少しくらい高くなりますが、フラフラしてしまい、長続きしません。寿命も同じなのかもしれません。延ばそうと努力している間にも時間は過ぎて行く。その命を延ばそうと努力している時、本当にあなたは生きているか?そういうことが問われているのかもしれません。

ザアカイは「背が低かった」(3節)。ここで使われている「背」もヘリキアです。それがコンプレックスだったのか、彼はお金儲けに精を出します。税金を取る仕事をしていましたが、多く取り上げて懐に入れていたようです。そうやって一生懸命に背伸びをしたのです。

さて、彼の町、エリコにイエス様が来たという声を聞いたザアカイはどうしてもその姿を見たくなり、駆けつけます。もしかしたら背伸びした暮らしに疲れていたのかもしれません。しかし、イエス様の周りには人だかり。背の低いザアカイには見えません。そこで彼は先回りして木に登ります。するとイエス様はその木の下に来て、「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、あなたの家に泊まりたい」と言われました。

ザアカイには、その言葉が、木登りからではなく、背伸びした人生から降りておいで、と聞こえたのではないでしょうか。そうでなくても木登りは究極の背伸びです。「背伸びしないと心配かもしれないけど、私が全部受け止めるから降りておいで。あなたの身の丈で生きなさい。私はあなたと共にいるから。」イエス様は私達にもそう語りかけておられます。 (牧師)

「全部受け止めるから降りておいで」 ルカによる福音書19章1-10節

「きっと幸せになれる」 ルカ6:21

『今飢えている人々は、幸いである。あなたがたは満たされる。 今泣いている人々は、幸いである。あなたがたは笑うようになる。』

今泣いている人やお腹が空いている人は幸せ、とはどういうことでしょう?ちっとも意味が分からないので、他の訳(田川建三訳)の言葉で読んでみると、こうありました。『幸い、今飢える者。汝らこそ満ち足りよう。幸い、今泣く者。汝らこそ笑うであろう。』「幸いである」ではなく「幸い」とだけ書かれていました。これは、祈りの言葉です。「今お腹が空いている皆さん、あなたに幸せがありますように、きっとお腹いっぱいの日が来るから」「今泣いている皆さん、あなたに幸せがありますように、きっと笑える日が来るから」とイエス様は言われているのです。「お腹が空いている今」と「お腹いっぱいの未来」その間に「幸せを願う」という祈りがあるのです。

では幸せって何でしょう?「幸せ」という言葉は日本語では元々「仕合せ」という字が使われていたそうです。「合わせる」というのは違うものを一緒にすることです。誰かが一人で何かをしている時に、違う人がそこに来て一緒にする、それが仕合せであり幸せなのです。聖書も同じ。今お腹が空いている人がいる。そこに違う人が来て、「これ、お食べよ!」っておにぎりをくれるという仕合せが入ると、満腹になる。それが幸せ。今泣いている人がいる。その違う人が来て、「悲しいね。辛いね。」って言ってくれるという仕合せが入る。そうするとやがてそこに笑顔が生まれる。それが幸せ。これこそが「お腹が空いている今」と「お腹いっぱいの未来」その間に「幸せを願う」という祈りの中身です。私達は独りでは生きられません。「人が一人でいるのはよくない。彼に合う助ける者を造ろう」(創世記2:18)。神様は私達が一人でいることを良い事とされません。私達が本当に幸せになるのは誰かと一緒の時なのです。一人では空腹も悲しみも越えられません。イエス様は「悲しみの今、空腹の今は共にあることによってのみ越えて行けるのだ。そこに私もいる」と言われるのです。(牧師)

「きっと幸せになれる」 ルカによる福音書6章21節

「笑いを授ける神」 創世記17:15-22

「笑いを授ける神」 創世記17章15-22節

何で聖書ってこんなに常識外れなのでしょうか。新約聖書・ルカによる福音書1章では、おとめマリアに対して天使が「あなたは男の子を産む」と告げてイエスが誕生したかと思うと、この旧約聖書・創世記17章箇所では100歳と90歳の男女に対して神は「あなたがたに男の子を与えよう」と約束し、そのようになったと記されています。

そんな話、おかしくて笑っちゃいます。けれども正にこの「笑っちゃう」がこの箇所のキーワードなのです。 アブラハムは神様を信頼して旅を続け、そしてようやく住むべき場所を与えられます。しかし、もうその時にはアブラハムは高齢です。パートナーのサラも同じように高齢です。神様は子孫を繁栄させると約束しましたが、「自分たちにはもう無理!」と判断した二人はサラの身の回りの世話をするハガルという女性によって子(イシュマエル)を得ます。

しかし、神は言うのです、「サラによって子を得、サラは諸国民の母となる」。アブラハムは下を向いて笑いながらこっそり「そんな訳あるかい!」と言い、そして上を向いて「神様、もう子は与えられています。イシュマエルを跡取りにします」と言います。ところが神は「サラとの間に男の子が生まれるから、名をイサク(彼は笑う)と名付けなさい」と言って去ります。 大切なのは神があなたに「イサク(笑い)を与える」と言われた事です。

それはこの二人の計画とは違うものです。人間は様々な計画を立てます。計画通りに行ったり人並み(常識のまま)に暮らしたりする事が幸せだと思い、計画から離れると不幸のように思います。しかし、だとするとみんな不幸せです。何故なら人生とは思い通りに行かないものだからです。でも、この思う通りにならない人生に神は伴われます。「でも私はいる!きっとあなたを笑顔にする!」信仰とはこの笑顔が生まれる日を目指して進む事です。 (牧師:田中伊策)

「隣人は隔たりを越える」 ルカ10:36-37

「隣人は隔たりを越える」 ルカによる福音書10章36-37節

キリスト教はユダヤ教の土壌の中から生まれたものです。生まれたとは言っても、全く新しい宗教が誕生したのではなく、ユダヤ教で語られていた事柄の本質が明らかにされたのがキリスト教なのだろうと思います。

ユダヤ教は基本的にイスラエル人による単一民族宗教です。そしてイスラエルは典型的な政教一致の国です。ユダヤ人はユダヤ教を信じるのが当たり前。そして、救われるのも原則ユダヤ人(ユダヤ教徒)です。ですから「宗教心が強い」=「自国愛が強い」という事になります。ですからユダヤ教徒にとって「隣人とは誰か」という問いの答えは「自国の人」です。

しかし、イエスはその「隣人とは誰か?」という律法の専門家の問いに対して一つのたとえ話をするのです。ユダヤ人が旅をしていたら盗賊に襲われます。身ぐるみを剥がされ、血を流して倒れています。そこに祭司が通りますが通り過ぎます。次に同じユダヤ人の宗教指導者的立場の人が通りますが、その人もまた通り過ぎます。そして次に通ったのは敵対する国、ユダヤ人とは互いにいがみあっているサマリヤ人。ところが彼はこのユダヤ人を介抱し、宿屋に連れて行き、そして宿代まで払って去ってゆくのです。イエスは言います、「誰が襲われた人の隣人になったか?」。律法の専門家は「その人を助けた人です」と言うしかありません。イエスは言います、「行ってあなたも同じようにしなさい」。

人間が過ちを犯すのですから国だって当然過ちを犯します。ところが「ユダヤ教の戒め」は「イスラエル国の戒め」という政教一致は神と国、神と人とを一致させてしまい、人の罪、国の罪を消し飛ばしてしまいます。それが「私達の国は正しいのだ。私達のしていることは神の御心なのだ。国民を守れ!敵をやっつけろ!」という発想になるのです。

本当はそこにこそ人の罪があり、愚かさがあるのに。 「行ってあなたも同じようにしなさい」。「その国という隔たりを高くして敵と味方を分ける事こそあなたがたの罪だ。その隔たりを越えて愛する歩みに進み出しなさい。それが隣人だ。それが神の望まれる事だ」とイエスは言うのです。敵は私が隔たりを作る中で生まれるのです。 (牧師:田中伊策)

 

「あなたはどなた?」 ルカ8:22-25

2010年に亡くなられた作家の井上ひさしさんは「難しいことを易しく、易しいことを深く、深いことを面白く」と言われていたそうです。私も「そうありたいなぁ」と願い、努力しているのですが難しい。すぐに自分の理解の浅さと言葉の少なさを痛感します。そして、いつの間にか教会の中に溢れる専門用語に逃げてしまっています。自分の浅さが暴かれる事が恥ずかしいからでしょう。本当はそんなふうに取り繕う自分の方が恥ずかしいのに…。

そしてふと思います。もしかしたら日本のキリスト教、日本の教会、日本のクリスチャンもまたそうだったのではないか、って。「伝道」とか「リバイバル」とか勇ましく言いつつも、伝える言葉を持っておらず、そしてそれを隠すために専門用語で逃げて来たのではないか、って。

弟子達はイエス様と共にガリラヤ湖に舟を出します。イエス様はすぐに眠ってしまいました。そこに嵐がやって参ります。彼らは身の危険を感じ、イエス様に「先生、先生、おぼれそうです」と起こします。イエス様が風と荒波を叱ると凪になります。弟子たちに対しても「あなたがたの信仰はどこにあるのか?」と言います。その時に弟子達のリアクションが面白い。信じて従っているその方に対して、『弟子たちは恐れ驚いて、「いったい、この方はどなたなのだろう。命じれば風も波も従うではないか」と互いに言った。』というのです。

これは私達の姿でもあります。100%分かって信仰に入る人なんていないし、信じたって従ったっていつまでも100%には程遠い。それなのに、分かったふりして分からない言葉使って分からない自分を包み隠して。でも、大事なのは私がこの方に日々助けられ、救われ続けているという事実と、そこから生まれる新しい出会い、そして対話です。分かったふりをする時、そこ関係は止まってしまいます。対話も終わります。 日々、イエス様との出会いと対話が新しい言葉を与えます。その偽りのない言葉で伝えて行くのです。分からないって、先があるということでもあります。 (牧師:田中伊策)

あなたはどなた? ルカによる福音書8章22-25節

お友達は誰? ルカ10:37

お友達は誰?
ルカによる福音書10章37節

イエス様は一つの譬え話をされました。

あるユダヤ人が旅をしていました。すると、きっと待ち伏せしていたのでしょう。強盗がその人に襲い掛かりました。あっという間に身ぐるみを剥がされ、酷い目に遭わされて、血だらけで倒れました。もう動くことが出来ません。その道を祭司が通りかかりました。祭司はこの人を見ました。しかし彼は道の反対側を通り過ぎます。死んでいると思ったのか、血に触れて汚れて祭司の仕事が出来なくなるのを恐れたのか、それともまだ近くに強盗がいるかもしれないということで逃げたのかは分かりませんが。

続いて祭司のお手伝いをするレビ人という人がやって来ましたが、彼もまた通り過ぎます。そして、サマリア人という人が通りかかります。サマリアとユダヤは隣同士なのに、とにかく仲が悪い。けれどもそのサマリア人はユダヤ人が倒れているのを見て、ぎゅーっと心が締め付けられ、すぐに駆け寄って手当をして、宿屋に連れて行き、介抱し、次の日お金を渡して宿屋の主人に託します。イエス様はこの譬えを話して「行って、あなたも同じようにしなさい」と言われます。

ユダヤ人とサマリア人というお話が、この国と隣の国の関係と重なって見えたら、会社や学校で机を並べているあの人との関係として読めたら、我が家と隣の家の人との関係を思い浮かべられたらしめたものです。何故ならそのように読むためにイエス様は譬えで語られたのです。

イエス様が譬えで話されたのは神様の言葉、聖書のお話をあなたの身近な出来事として考えなさい、ということです。そして、イエス様は「行って、あなたも同じようにしなさい」と言われます。ちなみにこの箇所(34節)の「宿屋」という言葉には「誰でも受け入れてもらえる場所」という意味があります。隣の人の痛みを抱えきれなかったら教会に連れてらっしゃい。教会は誰でも受け入れられる場所です。 (牧師:田中伊策)

「希望への同伴者」ルカ8:26-39

「悪霊」などと言うと私達はすぐにホラー映画のような映像やオカルトチックな現象を思い浮かべて怪しんでしまいます。でも聖書でいうところの「悪霊」とは別に特別なものではありません。人間関係の悩み、自己嫌悪、病気から来る煩い、越えられない課題を前にしてのひどい落ち込みや無気力、忙しさから来る苛立ち、言い知れない孤独感。そういう事柄の本質を「悪霊」と表現しているのです。

「なんだ、悪霊って特別な事柄じゃないんだ。怖くないんだ!」そう思うかもしれません。確かに「特別」ではありませんが、「怖くない」訳ではありません。風邪は万病の元と言います。心に力がなくなっている時に悪霊に入られるとこじらせてしまうことになりますから、やはり怖いと思います。

彼もそうだったのでしょう。どんな事が彼に起こったのかは分かりませんが、彼は町を離れて衣服を身に着けず墓場を住まいとしておりました。彼はイエスに名を尋ねられると「レギオン」と答えます。レギオンというのは当時イスラエルを支配していたローマの軍隊の中で5000~6000人程の大隊です。

彼の中にはたくさんの悲しみや痛みや傷があったのです。抱えきれない痛みを一人で抱えた彼は孤独を覚えながら、絶望を感じながら一人で何とか生きてきたのです。 そんな彼にイエスは「汚れた霊よ、出て行け!」と言います。そうすると悪霊は出て行ったとあります。

ここで私達はまた怪しみます、「なんかオカルトチックな現象が起こってる!」って。でも、重荷とか悲しみとか痛みとか罪悪感とか、誰かに話すことが出来たら、スーッとしたり元気が出たり頑張ろうと思えたり素直に「ごめんなさい」と言えたり、ってあるじゃないですか。抱えきれない事柄を親身になって聞いてくれたら力が出るじゃないですか。そう言う事です。

私達は一人では絶望から希望へ方向転換して進む事は出来ません。同伴者が必要です。「神は共におられる」決して離れない希望への同伴者です。(田中伊策牧師)

希望への同伴者 ルカによる福音書8章26-39節

「「委ねる」という事」 マタイ19:16-22節

「金持ちの青年」という題がついているこの聖書の箇所は、他の福音書にも類似の記事があります。マルコ10:17-31、ルカ18:18-30です。そして、それぞれには違いもあります。このマタイでは「青年」であるところがマルコでは「男」とか「人」と書かれています。ルカでは「ある議員」と書かれています。これだけでも大きな違いです。

「男」「人」と書かれたマルコでは単に財産を持った人物、「議員」と記すルカではそれに加えて名誉も持っていた人物、という設定です。では「青年」だったらどうでしょうか。そこから考えられる事は、彼が自分で稼いだお金ではない、ということです。今だったら「大学生が在学中にIE企業を作って大儲け」なんて話も聞きますが、そこは2000年前。そんな奇抜な設定にはしないはずです。

「金持ちの青年」とは、つまり裕福な家庭に育ち、所謂「良い」教育を受け、優等生で育って来た青年です。 そんな彼は自分に足らない所がある事を感じていました。それでイエスのところに行って尋ねます、「先生、永遠の命を得るには、どんな善い事をすればよいのでしょうか。」(16節)。そしてイエスの言葉に対して「そういうことはみな守ってきました。」(20節)と答えます。彼は間違わないように、後ろ指をさされないように、そして握っているものを離さないように頑張って来たのでしょう。

「永遠の命」とは決して「いつまでも生き続ける」という意味ではありません。それは「永遠である神様と共にある歩み」「神様から離れない歩み」のことです。離れないために大切なのは手を繋ぐ事です。でも、彼の手は最初から親から与えられた物でいっぱいで、それを離さないようにして来たのです。それでイエスは言います「行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい」(21節)。「売り払って」とあります。(自分の所有する)物のままで渡さないために、お金にする必要があるのです。

彼は「金持ちの青年」、すべてを親からもらった若者でした。元々自分の所有などないのです。それを自分の所有のように抱えるからおかしなことになるのです。でも、私達も同じようなものです。神様からすべてを与えられているのに、自分で手に入れたように思うからおかしな事になるのです。自分の所有ではなく神様に与えられた物、預かった物として神様に委ねつつ、尋ねつつ用いるのです。(牧師:田中伊策)

「委ねる」という事 マタイによる福音書19章16-22節