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「言葉の飢饉」 アモス8:11-14

今朝は旧約聖書のアモス書を選ばせていただきました。この箇所は深いところで現代の日本にも当てはまると思われるからです。アモス書は小預言書と呼ばれる12文書の中に入っていますが、アモスその人は栄光の王ダビデから約250年後の紀元前760年ごろに活躍した最初の預言者です。

伝統的に「主の日」はイスラエルの勝利が実現する日と考えられてきたのですが、アモスはその言葉の意味を逆転させます。偶像礼拝、経済中心主義、貧者や弱者に対する不正の蔓延など繁栄の只中に忍び寄ってくる陰りは、他の民族と同じようにイスラエルの罪を示しており、飢饉がこの国を襲うとアモスは警告しました。

その飢饉とは、水や食料といった物資が不足するゆえの飢饉ではなく、「主の言葉の飢饉」だというのです。様々な情報と言葉が行きかう、いわば言葉の氾濫の中、真実の言葉が危機に瀕しているということでしょう。

「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」との言葉で我らの主イエスは活動を始められました。その活動は個人の信仰の次元だけではなく、社会的な次元も含む広いものでした。キリストという言葉そのもの(メシアのギリシャ語訳で、本来の意味は「油注がれた者」、聖別された者、王)、十字架とともに掲げられた罪状書き(ユダヤ人の王)がそれを示しています。

またイエスの行動(いわゆる宮清め)と言葉(たとえば、安息日と人の関係)も同様です。「平和を実現する人々は幸いである。」イエスのこの言葉に今日の日本で応答するために、わたしたちが礼拝で、そして祈りの課題に掲げている「東日本大震災」、特に原発事故を例に考えてみたいと思います――「主を求めよ、そして生きよ」(アモス5:6)への応答となることを祈りつつ。 (高橋憲一兄)

「言葉の飢饉」 アモス書8章11-14節